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高杉への山口県民の強い思い 突然の東行記念館閉館騒動に憤り

 高杉晋作の墓が奇兵隊士の墓とともにある下関市吉田の東行庵から、突如として高杉関連資料が持ち出され東行記念館がつぶれるという事態になり、地元の吉田地区民、広く下関市民、山口県民のなかで「東行記念館を守れ」の世論がほうはいとしてまき起こっている。それは高杉晋作と明治維新について郷土の人人の思いがいかに強いものであるかを示している。それは徳川幕藩体制を打倒して近代統一国家を実現し、欧米列強の植民地の道を拒絶した郷土の父祖たちの偉業が大きな誇りであり、幕末と似た今日その継承はきわめて重要であり、心の糧として後世に伝えていかなければならないというものである。それはまた、高杉と維新を売名や観光資源として金もうけの道具にする不純な俗論への強い批判である。

明治維新は生活と関わった生きた歴史     桜山神社総代 金家恭平
 東行記念館のことについては、これまでなにも聞いていなかったので、わからないでいる。長周新聞には真実を調べてほしい。
 わたしは大きくは、高杉先生が下関で切り開かれた日本の近代につながる歴史について、地元においてもあまりにも知らされていないところから、このたびのような事態となったと思っている。
 高杉先生は文久4(1864)年の馬関戦争の講和談判に伊藤俊輔や井上聞多を通訳として引き連れて行き、キューバ提督の「彦島租借」の要求にたいして、烈火のごとく怒って、「ノー」といった。涙を流し、怒りながら「神皇正統記」を30分にわたって読みあげ、「これまで一坪たりとも他国に貸したことはない」ときっぱり断った。この勢いに通訳に手間どっていた伊藤や井上にたいして、キューバ提督が「オーケー、オーケー」といって、あきらめたといわれている。
 もし、この談判に幕府のものがかかわっていたら、簡単に彦島を差し出しただろう。そして彦島は中国の租借地や香港のようになっていただろう。高杉先生は上海に留学したとき、租借地を訪ね「犬と中国人入るべからず」と書かれていたのを見て、怒り、こんなことを日本では許してはならないと決意されたが、この思いを貫かれたのだ。
 わたしは白石正一郎先生に感激している。日本の国のためにみずからの財産、商売すべてをなげうたれた。日本史、国文学を勉強しておられ、幕府を倒さねばならないと考えられていた。白石邸で奇兵隊が結成され、みずからも奇兵隊士になられた。維新後は、江戸にも出むかず赤間神社の宮司になられ、白石商店はつぶれた。これを高杉先生は見ておられたと思う。
 わたしだったら伊藤、井上らに貸した金を返してもらい、満州、朝鮮、台湾の利権をくれといっているだろう。ロータリークラブの歌にも「御国のために捧げん我らの生業(なりわい)」という歌があるが、こういう逸材はいまの日本にはいない。
 わたしは桜山神社の総代として春、夏、秋の祭にさいして、御神霊標の前で拝む。小泉総理になぜ靖国神社に参拝して、中国や韓国とけんかをするのか、桜山神社に来て参拝せよといいたい。ほんとうに国のために殉じた先輩がまつられている。わたしは外務大臣や外務省の役人をこの前の地べたに座らせて、拝ませたい気持ちだ。民衆のなかに入って、民衆のためにやるのが政治なのだが、そのような政治家がいなくなった。
 実は、このときの談判とわたしの家業が深く関連している。連合艦隊は水や新鮮な食料を要求したが、高杉先生はこれは受け入れた。わが家に伝わる話だが、このあと藩からひいじいさんが呼び出しを受けた。ひいばあさんの話では、当時は呼び出されてばっさり切られて、遺骸をほうり出されるということがよくあったので、心配で祈っていたが、ひいじいさんはころがるようにして帰ってきて、「注文じゃ注文じゃ。卵を黒船に納めることになった」といって、そのまま大八車をひいて生野村や安岡村に買いに出かけて、藩に納めたという。それが家業の創業となった。
 明治維新の歴史はわれわれの生活と密接にかかわった生きた歴史であり、日本の近代を築いたことはだれも否定できない。わたしは桜山神社の御神霊標が松陰先生が少し高いだけで、みんな同じ高さで並んでいる(高杉先生は少し低くなっている)のを見て、あの当時において武士や農民、商売人や穢多・非人と呼ばれていた人たちがみんな平等とみなされていたことに驚き、民主主義の原点がここにあると感激した。
 わたしはこのような桜山神社にお仕えさせてもらい、その総代であることを誇りに思っている。高杉先生や白石先生のおかげで今日がある。多くの市民の方に今回の問題を機に、馬関史に興味をもってほしい。そして感激を共有できるならこんなにうれしいことはない。

奇兵隊士で小倉城攻めに参加した曾祖父  下関・伊崎町70代漁民 小田籐吉
 わたしの祖父や親父が漁師の仕事をしながら、幼いわたしに、明治維新にまつわるいい伝えを話してくれていた。
 わたしのひいじいさんが柿原藤吉といい奇兵隊士で小倉城攻めに参加した。もとは百姓出身だった。奇兵隊を除隊してまた百姓になり、いまは伊崎の三蓮寺に眠っている。わたしの名前はひいじいさんの藤吉という名をもらったものだ。
 奇兵隊は防具がないので素面素小手で木刀で訓練をしていた。江戸には防具があったが地方にはなかった。一時にらみあって一発どちらかが「エイ!」としたら終わりだった。
 これは明治維新の幕開け四境戦争の話。長州軍は幕府を迎え撃つため、馬関から兵士を乗せて激戦地の小倉に行く。しかし高杉晋作の命令で夜になると敵に見つからないように馬関にもどってこいという。そしてまた朝になると船に乗って小倉へ攻めていく。
 櫓(ろ)をこいで渡る時代で、関門の潮の流れは速く、航路を知っているものでも時間がかかる。みんなはなぜもどらなければいけないのだろうかと思っていたのだが、しばらくしてわかった。
 幕府軍は朝に海峡を渡ってくる長州軍を見て、「つぎつぎに兵隊が来る」「いったい長州にはどれだけの兵隊がおるのだ」と少数の長州軍を多く見せる作戦をとった。幕府軍のなかでは動揺が広がっていき、城にこもっていった。そこでようやくひいじいさんたちも、意味がわかったようなことだ。
 小倉城攻めでははじめは正面から攻めて、何回やってもどうしてもおちなかった。しかし長州軍は農民をたいせつにしていたことで知られているが、そのところのおばあさんが「この城は背面から突いた方がいい」と教えてくれ、そのおかげで犠牲が少なくて小倉城をおとすことができたという。そのおばあさんはあとからひどい嫌がらせなどを受けたらしい。
 小倉城に攻めあがっていくと、木曽義仲の后(きさき)巴御前に似た女丈夫が最後まで生き残り、なぎなたを振り回し、隊士がまぶりついても逆になぎ倒されて犠牲者があまりにも太い。相手がなぎなたの名手で、太刀打ちできるものがいないと高杉晋作に相談すると、「鉄砲で撃ちとればいい」といわれ、そのとおりにやって撃ちとったという話がある。
 わたしのひいじいさんが奇兵隊だったというだけで、どこまでほんとうかわからないが、家には小倉のどこかからぶんどってきた銅の釣り鐘があった。それを見るとなんぼかほんとうやったんだなと思う。何年勤めたかとか、どの地位にいたのかなどはわからない。
 その釣り鐘は高さが40㌢から50㌢ほどあり、子どものころはかかえればやっと動くくらいのものだった。「ぶんどり品」などとひいじいさんはかっこうのいいことをいっていたが、寺かどこからか盗んできたんだろうと思う。いまになって思えばそれはよかったなと思うが、幼いころ倉庫の中にほこりまみれになって入っていたのを覚えている。
 戦争がひどくなってわたしは海軍に徴用されたのだが、復員してうちに帰ってくると釣り鐘がなくなっていた。太平洋戦争のとき銅がなくなって、政府が献納しろということで差し出した。その後、釣り鐘がどうなったかはわからない。
 この話は祖父や親父から代代口伝で伝えられてきた話なのですべてがほんとうかわからない。昔の話というのは、何百年何千年と時代をへてきているんだから、「古い」などとはいってはいけない。若い人たちにも地域のいい伝えを伝えていかなければと思っている。
 わたしは思うのだが、高杉晋作は先見の明があったのだと思う。頭もよかったが度胸がよかった。武士ばかりだったらだめだということで、農民を集めたらその方が強かった。最近の政治家はいいことをいって、ふところに金を入れてしまうが、晋作さんは白石正一郎からもらった金をそっくりそのまま奇兵隊のために使って男らしいと思う。晋作さんは下関だから愛着がある。

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