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【父祖たちの明治維新】 高杉晋作を看病した祖母  林修氏の(93歳)の話

終焉の地の庄屋・林算九郎の孫 
 下関西部の新地と呼ばれる地域は、高杉晋作とひじょうにゆかりの深い地域である。高杉晋作は晩年病気にかかり、厳島神社から桜山神社につづく参道途中の鳥居のそばで療養し、1867(慶応3)年維新革命の達成を見ることなく、最後は大庄屋・林算九郎邸の離れ家で29年の生涯を終えた。新地地区の高杉晋作が療養、終焉した場所には記念碑が建てられ、新地に住む人人によって掃除などもされ守られてきた。
 この高杉晋作終焉の地から数十㍍離れた場所には、林算九郎の孫にあたる林修氏(93歳)がいまも「林愛犬病院」の現役医師として活躍している。林氏は、「高杉晋作がどぶで死んだなどとだれがいったのか。高杉晋作は林家の離れ家で死んだことだけはまちがいない」と、当時つきっきりで晋作の身の回りの世話をしていたという祖母から聞いたいい伝えを話してくれた。

  つきっきり世話  「吉田へ」の遺言
 高杉晋作をつきっきりで看病したというのは、林氏の祖母にあたる人、林家の家つき娘で「おチカさん」と呼ばれていた。林家はもともと堺の出であった。下関に移ってきてからは、当時ではかなり大きな造り酒屋であり大庄屋だった。
 また高杉晋作の奇兵隊結成を資金面で援助したといわれる竹崎の回船問屋の白石正一郎の息子・東一郎に林家の次女タネが嫁ぎ、林家と白石家は血縁関係にあった。そして「タネさん」の姉、林家の長女の「おチカさん」が高杉晋作の身の回りの面倒をみ、つきっきりで看病していた。林家にはいまだに高杉晋作が死ぬまで枕元に置いて拝んでいたという30㌢ぐらいの観音像が保管されている。
 高杉晋作の愛人おうのもつきそって看病し、本妻の雅子も臨終近いころは来て看病していた。また、大庄屋だった林家には高杉晋作の見舞いに伊藤博文なども訪れていたという。高杉晋作は死ぬ間際に意識のもうろうとしているなかで、「吉田、吉田」といい、自分を吉田に埋めてくれと遺言を残していったと祖母から伝えられている。
 高杉晋作がいたといわれる林算九郎邸の離れ家は「緑堂」と呼ばれるところであった。この離れ家の名前を、高杉晋作の直筆で書かれた掛け物があった。しかし、林家も特別の事情があってほかに譲ってしまったという。「その掛け物はいま吉田の酒屋か醤油屋が所有しているのではないか」と、林氏はふり返る。
 林算九郎はもともと宇部の出身で、林家に養子に来たのだという。林算九郎は、明治のはじめのころに亡くなり明治42年に生まれた林修氏は祖父・算九郎は知らない。しかし林算九郎が死ぬまえに現在の病院になっている建物を建ててそこに移り住み、林算九郎が亡くなってからは「おチカさん」がこの家を守っていた。明治の終わりごろまで造り酒屋を営んでいた。
 明治42年生まれの林修氏は、少年のころ祖母「おチカさん」とこの家でともに生活したことを覚えている。そのときに「高杉晋作をつきっきりで看病した」と語っていた。「わたしがまだ少年のころだったので、いま思えばもっといろんな話が聞けていただろうと思うが、残念でならない」と話す。おチカさんは昭和3(1928)年に80代で亡くなった。
 林氏は「高杉晋作は林家で亡くなったことはまちがいない。めちゃくちゃなことをいってはいけない。商業主義でなく歴史を正しく伝えてほしい」と語っている。

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