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「地方創生」叫ぶお膝元の無惨  歯止めきかぬ下関の衰退

20年来で食い潰した七光たち

 旧3本の矢がどうなったのか検証もないまま、今度は「地方創生」「1億総活躍」が叫ばれ、「戦後最大のGDP600兆円」「希望出生率1・8」「介護離職ゼロ」に向けて新3本の矢を放つのだと安倍政府がまた大きなことをいっている。しかし、この「地方創生」「1億総活躍」の末路がどんなものかは、20年にわたって安倍代理市政が続いてきたおかげで、いまやすっかり衰退してしまったお膝元・下関市の政治・経済の実態がなによりも説得力を持って示している。政治は嘘やホラがはびこり、口でいうことと実行することが真反対、平然と公約を投げ捨てるのが当たり前の体質となり、経済的には植民地略奪方式で東京や大阪などから代議士絡みの大手企業が乗り込んで草刈り場にしていき、産業の衰退は全国と比較しても突出したものになった。安倍政治の源流をなす下関はどうなってきたのか、まさに「地方創生」とかかわった問題として、記者座談会でふり返ってみた。
 
  アベノミクスの行く末を暗示   下関の人口減少数は全国4位

 司会 安倍晋太郎の地盤をひき継いで息子の晋三が登場したのが93年だった。95年には林義郎の息子である芳正が参議院に初当選し、同年に江島潔(現・参議院議員)が下関市長に初当選した。代議士の2代目、3代目たちに世代交代してから4半世紀近くがたつ。この下で地元市政の番頭役としては江島が4期・14年市長を務め、ひき続いて林派の中尾が2期・8年をやってきたが、20年来で下関の街は様変わりして、人口減少、産業の衰退、市街地の疲弊は目を覆うばかりになっている。まず、市民生活の実感から論議してみたい。


  シーモール下関の専門店街や大丸の3月の売上が、前年比で10%強の落ち込みになった。大丸は年配層のお金を持っている人が買い物に行っていたが、そういう人たちまでお金を使わなくなっている。あまり目立たないが大丸もテナントがかなり入れ替わっている。駅ビル・リピエはオープンから2年ほどでテナントの撤退があいついでいるし、ゆめシティのテナントの入れ替わりの激しさは定着している。「暖かくなると人が動く」というのが商売の常識だったが、年年悪くなって今年はとくに物が売れない。下関で購買力の低下が著しいことを示していると思う。


  現役世代の貧困化を学校関係者もひしひしと感じている。専業主婦などほとんどいなくなり、共働きや片親世帯が増えている。母親たちは毎日必死に働いて、月7、8万円のパート代を稼いで子どもたちを育てている。パートで25万円稼いでいる者など1人もいない。正社員でも25万円を稼いでいる人間がどれだけいるだろうか。産業が衰退して働く場がないために若者が出て行き、活力を失っている。さらに経済圏が外来資本に侵食されるのとセットで相対的に個別家庭の収入が落ち込んでいる。市民所得の平均額は年約280万円だ。


  下関の衰退は人口減少を見ると歴然としている。江島市長が就任した95年の総人口(豊浦郡4町を含む)は31万717人だった。10年後の2005年には29万人台になり、2010年には28万947人、翌年には28万人を切った。市町村合併のときも豊浦郡4町を含めて瞬間的には30万人いたが、今年4月1日段階でとうとう26万人台に突入している。ここ4、5年は平均すると1年で2500人ずつ減少している。今年は合併から11年だが、そのあいだに合併時の旧郡部4町の人口5万人弱が丸ごといなくなるくらいの勢いだ。平成27年の国勢調査結果では、平成22年からの5年間で人口減少数が多い自治体のなかで第6位だ。しかし、3位が被災地の石巻市で4位が南相馬市だから、実質は4位だ。この5年で1万2330人減っている。2015年の転出超過自治体で8位という結果もある。いかに現役世代が定住できない町になっているかをあらわしている。


 D とにかく疲弊のスピードが激しいというのが実感だ。何かタガが外れたようになっている。旧市街地は唐戸、豊前田、細江にしても歯抜けのようになっている。笹山町など高台の住宅地は廃屋だらけだ。長府も織畑病院が閉院した跡にはセブンイレブンができたり、同じく歯抜けのようになっている。鳥居前バス停あたりも風景が様変わりになった。人口減少で一歩進んでいるのが旧郡部の農漁村地帯である豊北町・豊田町だが、旧市内でも例えば神田小学校は今年の全校生徒は五十数人で、うち6年生が20人、5年生以下は10人以下で新入生は2人だった。中心地の過疎高齢化も惨憺たるものだ。


  小児科医らが小学生までの医療費無償化など、親たちの医療費負担の削減を求めて市議会に陳情してきたが、その背景にあるのが出生数の低下だ。医師たちは「このままでは下関の未来はない」と危機感を持っている。下関では死亡数が出生数を上回り始めたのが1992年だ。その後も出生数はほぼ年間2000人台で推移してきたが、2013年に2000人を切り、2014年には1819人になった。もっと遡って1975(昭和50)年には1年間で5005人の子どもが生まれていたのから比べると半分以下だ。


  出生数が減っているうえに、高校を卒業した子どもたちが進学や就職で市外に流出していく。工業高校では東京辺りがオリンピックで忙しいので、今春の卒業生はほとんどが市外・県外に出て行ったという話だ。彦島にある三菱重工も今年22歳の世代を高卒採用したのを最後に、設計部門などでは地元の高卒採用はしなくなったようだ。「安心して働ける場がなくなってきた」というのが市民の実感だ。


  人口が減って商業が衰退すれば、保険なども含めたサービス業もしぼんでいく。十数年前から指摘されてきたことだが、保険会社が支店を小郡に移す動きなどもある。10年、20年来の結末が今出てきているし、止められない勢いになっている。製造業や水産業などの基幹産業がしっかりしていて、そこに付属的に関連産業やサービス業が連なって30万都市を形成してきたわけだが、山を登り切って断崖絶壁から真っ逆さまに落ち始めている。一方で「観光立国」路線の先駆けであるかぽーと開発など遊び場づくりに傾斜してきたが、すっかり週末営業都市になってしまい、そのなかでイベント趣味をこじらせている。イベントを次から次にくり出して「外貨」をいかに獲得するか、つまり市外・県外の観光客からお金を落とさせるかに汲汲として、産業振興の本筋を見失っている。表向きは華やかそうに見えて、裏では大変な衰退が進行しているのが実態だ。


  B級グルメが流行とみたら飛びついていく。ゆるキャラが流行したら行政がかかわっている物だけで19体も出てきて、これはいったい何なのだろう…という声がしきりだ。役所が遊びに傾斜していることをみなが懸念している。市税収入の落ち込みも大きく、滞納者には容赦なく差し押さえをしていくが、そうやって集めたカネは「他人のカネ」と思って端から遊びにつぎ込んでいく。消防庁舎を夜間にライトアップするといって1400万円注ぎ込んだり、ドブに捨てるようなことを平然とやる。外遊してODAをばらまいてきたり、GPIFが年金資金を株式市場に突っ込んだりしているが、「他人のカネ」だから痛みがないという体質は、そっくりそのまま地元の政治にも貫かれている。

 大型店占有率82% 小売店舗は3分の1に

  商業もスーパーやコンビニ、飲食チェーンが席巻して商店がつぶれ、問屋も卸先がなくなって厳しい状況になっている。この数カ月のあいだにも電気屋がばたばたと倒れたことが話題になっている。古くからある電気屋はもう2軒くらいしか残っていないという。久しぶりに下関に帰ってきた人がまず驚くのは、駅裏の長門市場やシーモール、豊前田、唐戸の寂れようだ。人口が毎年2500人ずつ減っているのだから、その分購買力がなくなる。大型店やチェーン店は独自のルートで外国からも食材を調達してくるから酒や食材の卸業者にも直接影響している。地場の流通がなくなってきたことが市場や卸売業、食品製造業に大きな打撃となった。それが回り回って、地域的なコミュニティーや文化、祭りなども廃れさせてしまっている。


  下関の大型店占有率は97年の最後の調査で60%にのぼっていた。2012年の商業統計調査(小売総売場面積34万6980平方㍍)以後も、2013年末のイズミゆめモール、14年のJR下関駅ビル・リピエなど大型商業施設の出店が続き、昨年1月段階の商工会議所の推計では1000平方㍍以上の大型店の売場占有率は82%になった。91年には27店舗しかなかった大型店(500平方㍍以上)が2012年に120店舗とふくれ上がる一方で、それ以下の小売店舗は4917店舗から1599店舗と3分の1になった。商店街もどんどん消滅し、ピーク時には31あったのが今では商店街連合会に加入しているのが15団体。商店街として成り立っているのは長府と唐戸くらいといわれている。


 C 老舗の彦島豆富が廃業したときに話題になったが、製麺屋や勝山の青果市場のなかにあった漬け物屋も廃業するなど、みな卸先がなくなってやめていった。スーパーの相手をしていると、豆腐29円などの安売りをする都合で買い叩かれ、逆につぶれていく。学校給食では彦島豆富がなくなって、油揚げは完全に宇部市の業者に頼るようになったし、豆腐も地元産だけではまかなえなくなった。外来スーパーのプレミアムブランドに押されて地元の味や流通がなくなっていく。野菜も同じだ。卸売業者でみると、かつては1300軒以上あったのがこの25年ほどで半分以下の600軒あまりに減少している。小売業者は約5000軒から2000軒あまりにまで減った。そこで働いている人は1万人以上減、製造業従事者も96年までは2万人以上いたのが、2013年には1万5000人ほどまで縮小している。商工業だけで1万5000人もの雇用が失われたということだ。


  昔は酒屋にしても八百屋や魚屋にしても正社員として人を雇っていたのがつぶれ、店主そのものが働きに出るようになっている。大型店はどんどん進出してくるが、そこで生み出される雇用は非正規のパートやアルバイトばかりだ。市民の所得が低くなって貧困化が進むのは当たり前だ。


  商業を巡っては大型店の進出や流通再編などとかかわって80年代から状況が変わっていった。99年の大店法撤廃までは、1000平方㍍の店舗が出店する際には商工会議所などが設けていた商業調整の検討委員会が影響を検討し、規制をかけていたが、法律的に全廃されて全国的に商店がつぶれていった。下関では輪をかけて、区画整理をした広大な土地に大型商業施設のイズミ(広島市)を誘致するなど、金融機関や行政があえて招き入れてきた。「イズミの代表が安晋会のメンバーだからだ」と説明する人もいるが、おかげでイズミが下関駅の改札口前から長府、新椋野、伊倉など主立った地域を抑え30万商圏を制圧する勢いだ。下関を盤石に抑えて九州を攻めるのだという。かつてあった地元資本のスーパーは淘汰され、レッドキャベツもイオンに買収された。地場流通が激変し市場の寡占化が進行しているのが特徴だ。そして、中小零細が退場に追い込まれている。

 安倍―江島体制 地元排除して市外発注

 B 若者の流出とかかわって、建設業者など中小企業では、最近どこも人手不足が問題になっている。ある会社の社長は、「自分が仕事を始めたときには同業者が10社以上あったのに、今は五社くらいしかない」と話していた。公共事業に頼りっぱなしだったところは一気にダメになっていったという。測量設計やコンサル業者も業者数そのものが減り、技術者が減っているが、新規に採用して育成することもできない。江島と政治ブローカーの疋田が連れてきたパシフィックコンサルタンツ社が、市のコンサル業務を各課発注の入札に出てこないものまで含めて総なめにしていた時期もあったが、市内業者を排除して外来資本が貴重な仕事を奪っていった。技術力の問題ではなく、政治的な力が作用してそうなった。


 C 3年前に豊浦町で川が氾濫したときも、阿東町で豪雨災害があった後だったために下関から測量設計業者が応援に行き、残っている業者がほとんどいない状態になっていた。市の建設課が半年くらいかけて毎日夜中12時頃まで仕事をして、ようやく復旧した。いまや解体などの単純作業にはインドネシアやベトナムなど外国人労働者が入っており、10年、20年後を担う日本の若い技術者がいないことは、どの業者も共通して危機感を持っている。災害でも起こったら人手不足で対応できない。


  技術の劣化、継承ができないのは宮大工だけではなくなっている。全国共通だが下関はより深刻だ。これは放置して自然に衰退したわけではない。下関では四半世紀前の世代交代の際に安倍支配に反旗を覆す動きがあったが、そこで安倍晋三―江島潔体制に刃向かったものが徹底的な「経済制裁」をくらった。意図的に入札から地元業者を締め出して市外発注し、食いつぶしてきた結果だから、業者のなかで「江島だけは絶対に許さない」という怒りは深い。


  江島や疋田がいつも悪役を担当してきたが、その背後には安倍事務所がいることなどみんなわかっている。市長選をきっかけにした制裁のように見えて、その発端は安倍晋三のデビュー戦だった93年の衆院選(中選挙区)に古賀敬章が出馬して、安倍後援会を割ったことだった。古賀は県議時代から晋太郎に可愛がられて、「将来は県知事に」という声もあったが、晋太郎逝去にともなって安倍事務所の秘書も引っこ抜いて代議士に色気を出した。安倍晋三からすると中選挙区制最後の激しい選挙にあって、落選の憂き目にあってもおかしくなかったから恨み骨髄で、この制裁が江島を通じて実行されたと見るのが自然だ。江島は「安倍先生、安倍先生!」のおべんちゃらで生き抜いていく道を選択し、それが今につながっている。というか、登場の際には市民派を標榜して有権者を欺いていたが、元元が安倍事務所の金庫番だった老秘書(県警出身)の鞄持ち出身だった。市長に当選してからはてのひらを返して支持者を切り捨て安倍事務所の番頭として地位を固めた。


 A 江島は市長選で当選してから、反江島すなわち安倍支配に逆らった業者の「戦犯リスト」をつくり、徹底した入札排除をやった。それは建設業者からタオル納入業者にまで及んだといわれている。新水族館や新唐戸市場など大型公共事業では、下請や孫請にいたるまで業者一覧の提出が求められ、赤ペンで市外の別業者に差し替える徹底ぶりだった。大手ゼネコンさえ驚く陰険さだったというのは有名な話だ。倒産に追い込まれた業者もいた。その後「談合はいけない」「公平公正に」といって小泉元首相のお膝元・横須賀市に続いて全国2番目に電子入札を導入した。底値のない低価格競争にたたき込まれた多くの業者がつぶれた。「僕に逆らった者は許さない」をやったわけだ。


  それで次次に大型箱物事業を実行していった。安倍首相の出身企業である神戸製鋼などは、奥山工場ごみ焼却炉建設、リサイクルプラザ建設などの200億円近い環境利権を総なめにするだけでなく、あるかぽーと開発でも当初は開発業者に名乗りを上げてブイブイいわせていた。それがダメになると、首相の叔父が頭取を務めていたみずほ銀行が利権に食い込んできて、社会教育複合施設(中央図書館)建設になると実兄が支社長をしていた三菱商事中国支社があらわれるといった調子だった。江島は電子入札によるダンピング競争で50億円の入札残を自慢していたが、地元業者は落札率50~60%台という異常な数値で赤字の仕事を受注してつぶれていった。一方で、こうした大型箱物は市外大手が落札率95%以上でとっていき、全国から下請まで引っ張ってきた。

 「市民派」装い市長選 常態化する公約の覆し

  商業にしても建設業界にしても、市内に現金が循環せずに大都市に吸い上げられていく仕組みができ上がり、それが今の惨憺たる状況を招いている。そして最終的には江島市政が蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われて体制が持たなくなり、反江島を取り込んで林派の中尾にバトンタッチすることになった。しかし林派の市長だからといって、安倍代理市政の実態は何も変わらない。中尾が東京などに出かけた際にも「安倍先生! 安倍先生!」のおべんちゃらがひどく、見ていられないと周囲は眉をひそめているが、まさにそれが歴代の代理市政の番頭たちの姿だ。昔からそうなのだ。


 C 江島から中尾に交代した時期は衆院選が控えていた。第一次安倍政府で放り投げをやった直後の選挙で、安倍派としては林派の機嫌を損ねたら大変という事情も反映していた。そうしたバランスを見て、どさくさ紛れに中尾体制が出来上がった。保守王国というが、安倍派単独ではどうにもならないのが山口4区なり下関で、市長選で安倍派若手や現役県議が飛び跳ねた際の得票も4万票程度だ。合同ガスやサンデンなどの地盤を持っている林派と共存共栄しなければ生き残れない。林派にとってもそれは同じで、双方に感情的にどうなのかは別として持ちつ持たれつの関係を保っている。


 市長選の度に「市民派」装いで有権者を欺きたがるのは、批判世論が強いことを自覚しているからだ。ホラ吹きとか嘘つきが市長になり、公約をみな覆していくのはそのためだ。安倍晋三が「息を吐くように嘘をつく」と全国が驚いているが、下関では見慣れた光景になってしまっている。安倍政府になってからは、以前にも増して痛感させられるものがある。


  安倍派・林派の基礎票に加えて2万票を持っている公明党を従え、さらに労働組合の連合までが加勢して4区を抑えるというのが構造だ。民主党などあってないようなもので、連合は神戸製鋼や三菱などは昔から連合安倍派といわれてきた。自治労も市長選などでは安倍派応援でうごめく始末だ。サンデンで労働組合の分裂を仕掛け、第2組合の委員長をしていた小浜(林派)が長らく下関市議会議長として君臨していたが、戦後の下関ではとりわけ労働運動が強烈だったこともあって、支配の側が裏切り者を取り立てていく構造が発達してきた。山口銀行も労組出身者が取締役に出世していく仕組みになっている。県議会副議長をしている塩満(林派)も労組出身で、いまや安倍派知事の補完役だ。 


 C 「日共」集団も日頃から生活保護利権や公営住宅利権で安倍代理市政に飼い慣らされている。市議選では近藤栄二郎が公費助成の不正請求をしていたことも発覚した。市民運動が盛り上がると、呼ばれてもいないのに必ず顔を突っ込んで引っかき回し、分裂をしかけていく。市民が寄りつけないものにすることを使命のように心得ていて、その功績で生活保護や住宅利権を世話してもらい、「わが党」の得票にしている。口先で批判しているか否かではなく、実態がそのようになっている。安倍支配の政治構造にくみ込まれて、時には自民党と手を組んで監査委員ポストをもぎとったり、野党の仮面をかぶった与党で節操がない。既存の政治勢力がみな翼賛化してしまい、そうやって議会も行政も民意から浮き上がり民主主義を圧殺している。


  選挙はいつも有権者にとって票の持って行き場がない。市長選でも投票率が40%台とかだ。幻滅させて半数近い有権者を排除したもとで、組織票を駆使して全有権者のうち支持率17%程度でも市長ポストを得ていく。県知事選挙でも、自民党県連が「投票率が上がったら大変だ!」といって大騒ぎしていた。いかにして寝た子を起こさない選挙にするかに苦心している。支持基盤が脆いことを彼ら自身がもっとも自覚しているからだ。これは全国的にも同じで、国政選挙において低投票率で自民党が国会の3分の2の議席を占めていくカラクリと共通する。野党がだらしなく、受け皿がないから可能なだけであって世論を束ねる新鮮な動きが起きたとき、棄権者の心を捉えるような旋風になったときには、下関の安倍支配であれ、国政の「自民党一強体制」であれ吹っ飛んでいく関係だ。

 聞く耳ない暴走政治 市民運動の力大結集を

  安倍政治の特徴は、聞く耳のない暴走政治だ。江島市政の時期には有料ゴミ袋値下げ署名、満珠荘の存続を求める署名など10万人規模の署名運動が何度も起こったが、聞く耳なしだった。今の国政を見ていて、その源流がどこにあったのか考えさせるものがある。


  安岡沖洋上風力の問題でも、前田建設が東京から乗り込んできて、全国最大規模の洋上風力をつくって、あの一帯を住めないようにしようとする。よそ者が殴り込みをかけてきているような風情で、住民の反対運動が盛り上がると逆上して裁判に訴えたりする。お願いをして説得をしなければならない事業者の側が、調査を妨害したといって住民に損害賠償1000万円を請求したり、横暴に振る舞っていく。「誰があんな連中を引っ張ってきたんだ!」という声がしきりだが、安倍政府になって洋上風力で発電された電力の買い取り価格が急騰して、同時期に前田が下関に乗り込んできた。経産省のお墨付き事業だから強気になっている。郷土がそのように差し出されていく。


  民意はまったく通らない政治構造になっている。国会がそうだが、下関は早くからそれが典型的に実行されてきた。国政なり市政が私物化され、みな「僕のもの」にしてしまう。国会で首相がヤジを飛ばして問題になったが、下関市議会では議員の質問に対して市長が答弁拒否したり、部長が議員に対して「算数しなさい」と侮蔑したり、通常なら考えられないようなことも横行してきた。議会が議会ではなく、行政が行政ではないのだ。これが長期の安倍派支配のオール与党体制、会派政治体制でできあがっている。


  今や国政も下関型になってきた。このような政治構造のなかでどうするかだ。民意の届かない安倍派支配に対する市民各層の怒りは下関でも大きい。議会のなかからはこのオール与党支配の構造は変わらず、変える力は市民の世論と運動にある。そのために各地域、各層の運動を形にしていくことが力になる。国政についても同じことがいえる。


 安倍支配の先行した下関は、国政の全国モデルになっている。超金融緩和や大規模公共事業、TPPによる大収奪計画と、民主主義破壊がセットで進行している。国会もチェック機能がなくなった下関市議会の後を追っている。政党はみな与党になって野党との違いがない。オール与党だ。だから全国的に選びようのない選挙が続いている。しかしこのままでは済まない。もっとも安倍政治を経験してきたのは下関市民だ。下関の市民運動をどう強めて市政を変えていく力にするか、これは下関だけの問題ではなく全国的な大きな響きをもっている。


 総理が出た街が一番寂れる。現状では、「一将功なりて万骨枯る」の見本みたいになっている。不動産バブルと大型公共事業、市外企業の略奪によってつぶれた下関だが、これはアベノミクスの結末を暗示している。この大収奪、食いつぶしと民主主義破壊はつながっている。参院選では山口選挙区に性懲りもなく江島が登場しているが、地方破壊の戦犯に痛烈な審判を突きつけることが切望されている。「地方創生」とはほど遠い地元の状況を全国にも伝えなければならない。

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