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高杉史料、東行庵に部分返還  江島・野村市長の取引  萩市は69点の泥棒を継続

高杉晋作と奇兵隊士が眠る下関市吉田の東行庵・東行記念館から、2003年に突如として萩市に強奪されていった高杉晋作史料を取り戻すことは、この間下関市民が強く願い、また関係者が粘り強い努力をおこなってきた問題である。12日、その高杉史料のうちの158点が東行庵に返還された。ところが残りの69点は「萩市ゆかりの史料」といって萩市が引き続き保管すると一方的に発表、今月の下関市立美術館の企画展のために萩市が一時的に貸し出すが、2月になれば萩市に持って帰るとしている。これは東行庵や同庵を長年守ってきた地元吉田の意向を排除した形で、下関市と萩市が話をつけたもの。地元からは「高杉史料の全面返還に向けて一層頑張る」と強い世論が巻き起こっている。

 明治維新顕彰の機運高まる 
 現在、東行記念館では、返還された高杉史料のうち10点を加えて展示がおこなわれている。新たに展示されたのは、元治元(1864)年12月、高杉が下関の長府・功山寺で俗論政府打倒めざして挙兵したさい、身につけていた甲冑(ちゅう)。慶応2(1866)年、幕府の長州征伐軍とたたかうさい高杉に与えられた「海軍総督仰せ付け書」、および「小倉戦争指図書」。また高杉が愛用していた道中三味線などである。今後、展示内容を全面的に検討し、よりよいものにしていくとしている。
 高杉史料の返還は、多くの下関市民が切望していたことである。ところが今回、全面返還とならず、69点が勝手に萩市の保管とされたことに、関係者のなかからは疑問と怒りの声が噴出している。萩市は昨年から「高杉の生誕地・萩にゆかりの史料は萩に」と主張しており、当初吉田では「産着などだろうか」と話されていたが、実際には、「文久3(1963)年6月(馬関攘夷戦争後)に高杉が馬関の防御を一任されて下関に来る。だからそれ以前の史料は萩の物だ」「その後の史料で、萩の家族などとやりとりした手紙なども萩の物だ」と一方的に線引きをしていたことが、今回明らかになった。
 つまり高杉が20歳で萩を出て、江戸の昌平黌に入学し、江戸の獄中にあった吉田松陰のために奔走し、また江戸から東北歴遊の旅に出、さらに上海に留学した24歳までの史料は「萩市の所有物」とした。この時期の69点のなかには、高杉の「松陰先生著書抜抄」や松陰からの書簡をはじめ、佐久間象山などと出会った東北の旅の旅行記「試撃行日譜」、また日本を中国のような植民地にしてはならぬと決意させた上海留学のさいの「上海筆談録」、そのほか東行自筆遺稿や詩文稿などの多くの貴重な史料が含まれている。
 萩市の野村市長がこれら高杉史料の所有権を恥ずかしげもなく主張すること自体、盗っ人たけだけしい態度といわねばならない。03年2月1日、東行庵から高杉史料が突如として持ち出されたが、その2日後には野村市長が高杉史料を一坂太郎氏(元東行記念館学芸員)と一緒に萩に受け入れると発表。その後、04年にオープンした萩博物館におさまった。野村市長があらかじめ一坂氏と示しあわせ、東行庵の責任役員には知らせないまま、抜き打ち的に高杉史料の泥棒をやってのけたのである。
 この事実は一昨年3月、山口地裁下関支部で判決がくだされた、東行庵を相手どる一坂氏の損害賠償請求訴訟で明らかになった。また判決文は東行庵の高杉史料は「高杉家からの寄託ではなく寄贈」であり、所有権は東行庵にあることを明らかにした。高杉家の高杉史料は1931年、戦災での焼失を避けるために晋作の孫・春太郎氏が東行庵に遺品を寄託したことに始まり、一九六六年、東行百年祭記念事業によって東行記念館が建設・開館されたさい、東行庵に寄贈されていた。

 3月市長選の重要焦点 市民の力見せる好機 
 現在、東行庵関係者や吉田地域のなかでは、「まずは、泥棒した側が東行庵に謝罪して、史料を全部返還するのが当然のこと。そのうえで萩市に関係する史料を借りたいというのなら、それが高杉顕彰になるのであればやぶさかではない」「萩市が所有権を主張するなどまったくおかしなことであり、全面返還は譲れない」と話されている。
 同時に江島市長が、「史料を東行庵に戻せ」という下関市民の10万人署名を無にし、野村市長が受け入れの発表をすると即座にこれを認めたこと、そして今回の返還についても萩市に加担してはばからないことへの批判も強い。さらに商業マスコミが、史料強奪直後には「管理が悪い」と頭から東行庵側を攻撃し、記者会見をまるで糾弾大会のようにしてしまい、高齢の東行庵兼務住職・江村深教氏を死に追いやっておきながら、12日の史料返還時には取材にも来ていないことにも「問題をウヤムヤにするもの」「よっぽど都合が悪いのか」と語られている。
 昨今、幕末・維新への関心が非常に高まり、東行庵は全国から訪れる人が増えている。なかでも10代、20代が目立つという。徳川時代、「百姓とゴマの油はしぼればしぼるほど出る」といわれた農民たちが、260年間続いた徳川幕藩体制を打倒し、欧米列強の日本植民地化を阻止するたたかいの主人公となった。高杉晋作はこの農民や商人の力を束ねて革命を成し遂げた、維新革命の最大の貢献者である。こうした生き方は、現代に生きる人人が今と重ねて切望するものであり、今後全国的に明治維新への関心がますます高まることは疑いない。
 「高杉の講和談判は史料がないのでつくり話」「松陰や高杉の偉人伝はどうでもよい」「本物の歴史は敗者(徳川幕府や俗論派)のなかにある」などと主張してきたのは一坂氏であった。それは近年、日本の歴史学会のなかではびこってきたものである。つまり高杉史料の萩への強奪は、「ペリー来航によって日本が鎖国から目覚め、近代化が始まった」などというアメリカ史観を持ち込んで、維新革命の真実を抹殺しようとする大がかりな謀略であったが、それは県民世論の高まりのなかでうち破られた。
 全市民の世論を高め、高杉史料の東行庵への全面的な返還を実現させなければならない。それとともに東行記念館の整備、あわせて維新革命の中心地である下関市内のさまざまな史跡の整備が求められており、行政をしてそれに対する当然の支援をおこなわせなければならない。3月には下関市、萩市とも市長選がひかえている。山口県民の父祖たちの誇りある歴史を踏みにじろうとする者に対しては、市民が黙っていないことを示す、絶好の機会である。

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