いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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下関市議選の争点 個別利害奪い合う間に寂れる街 政治不信の上に胡座をかく政治構造

 下関市議選が1月27日告示、2月3日投開票と迫り、前哨戦は終盤を迎えている。定数34に対して40をこえる陣営が出馬すると見られ、目下、候補者本人たちが懸命な挨拶回りをくり広げているが、依然として盛り上がりに欠けるのが特徴だ。春の統一地方選に先立つこの選挙の争点は何か、記者たちであらためて論議した。

 

街角に設置されたポスター掲示板(下関市内)

  各所に市議選のポスター掲示板が設置されて、街中では「何の選挙だろうか?」と驚いている市民も多い。おとなしい選挙といわれ、年が明けても相変わらず盛り上がりに欠けている。市議選があることを知らない有権者も少なくない。誰からも声がかかってこないからだ。

 

 一方で問題意識を持っている人人のなかでは、下関市政をどうすべきか、街の未来を巡ってさまざまに論議が広がっている。選挙が近づくにつれて改めて意識が動いているようにも感じる。告示まで残り2週間、よほどの素人か風任せの者は別として、選対がしっかりしている陣営なら、きっちりと後援会の基礎を認識したうえで切り崩しに対処したり、上積みを固めていく段階だ。じたばたしてもどうにもならない。

 

 新人ならば後援会活動を展開してきた数カ月間の努力が実るか散るかが問われるし、現職ならこれまでの蓄積が正直に結果にあらわれる。「安倍派ばかり」とはいえ新人も多く、現職がこれまでにない規模で辞めたため地盤も一定程度シャッフルされている。このなかで、どんな得票になってあらわれるのかが注目されている。

 

  市議選を巡っては、これまでに選挙情勢も含めて3回ほど座談会で論議してきたが、争点を鮮明にすることが重要のように思う。盛り上がりに欠けるのは、目前でイス取りゲームみたいなものを見せられて、この街の何が変わるのか…という幻滅感に起因しているのではないか。各陣営が有権者から遊離して、宙に浮き上がっていることにまず第一の特徴がある。しかし、一方で組織票固めだけは粛粛と進んでいる。おとなしい選挙で、目立った訴えもなく組織票の有無が結果を左右するというのでは余りにも面白みに欠ける。

 

  前回市議選の投票率は45%程度だった。半数以上の有権者が棄権した選挙で、「市民から選ばれた」市議会ができ上がる。これは市議選に限った話ではないが、選挙に行く人とそうでない人が真っ二つに分断されているような光景がある。残りの55%の人人を置き去りにして、分母が半分以下(45%)になった競争で議会の圧倒的多数を独占していく。この手口はいまの国政とも共通する。投票率が50%を切るようなものは住民投票でも不成立になるのに、国政、県政、市政を舞台にした選挙では既に常態化している。選挙として成り立っていない。

 

 投票率70~80%のような選挙であれば、本来なら市議選の当選ラインも3000票台くらいの厳しいレベルに引き上げられる。しかし、最近は2000票に毛が生えた程度でも当選していく。人間としての資質がどうであれ、組織や団体の力が当選を決定付けるものとして幅を利かせている。市議会のレベル低下は、このあたりの事情を反映している。政治不信のうえにあぐらをかいてはならないと思う。有権者によって選ばれるのではなく、組織や団体の選考段階で決まっていくなら本末転倒だ。有権者と直接対面するなかで政治家として揉まれて育っていくのに、その循環が乏しい。当選してすぐに威張りはじめるのが多いが、そのような甘ったれた環境が災いしているように思う。

 

  表面上は極めて静かで、各陣営とも相変わらず運動員の存在感や熱量が乏しい。候補者本人がなりふり構わず挨拶に来たり、一人ぼっちで街頭演説していたり、孤独な雰囲気を漂わせているところもある。必死なのが「共産党」で、選挙前に党主催の講演会を開催するとかで、参加を呼び掛ける体で「市議団も頑張ります!」みたいなことを街宣カーで叫んでまわっている。本来、候補者の室内用ポスターは外から見えるように貼ってはならないのだが、ならばと党の街頭演説会を呼び掛ける形式で市議選や県議選立候補者のデカデカとした顔写真入りのポスターを貼っている。

 

  「あれは事前運動にならないのだろうか?」「手段を選ばずだな…」と他陣営が話題にしている。「安倍事務所の真似事をやっているんだろう」と話すと、「なるほどね…」という。市長選前に前田晋太郎が安倍晋三と手を握ったツーショットのポスターを街中に貼りだしたことがあった。中尾陣営や林派は「公職選挙法違反じゃないか!」と反発したが、自民党の講演会を呼び掛ける体だったので警察も黙認した。選挙後に講演会は中止になったが、「何カ月後かに講演会をやりますよ」の体で隅っこに記しておけば、それが抜け道になって候補者売り込みのためにポスターを街頭で貼ることも可能なようだ。顔を売り込む一種のプロモーション戦略みたいなものだ。同じ理屈で真似しているのだろう。

 

  自民党の真似をするのが体質なのだろうか。市議選でも以前、自民党所属のベテランたちが公費助成金をくすねて問題になったが、「共産党」市議団長だった近藤栄次郎(今期で引退)が一緒になって真似していた。

 

 タクシー会社に選挙カーの運転も車両も依頼すれば公費助成金が支給される制度を悪用したもので、実際には奥さんや知人の車を選挙カーとして使っているのに、タクシー会社に依頼した格好をして助成金を得る、つまり選挙でカネをもうける驚きのテクニックだった。タクシー会社等と結託していなければできないが、あのようなさもしい銭もうけが市議会ベテラン組のなかで共通認識のもとに流行し、「共産党」までが自民党と一緒になってやっていた。これは助成金を返金すれば良いという問題ではない。日頃から馴れ合っているのもあるが、税金によって養われ、不正受給すら躊躇がない議員たちの体質をあらわしている。党派をこえてそのようになっている。自民党下関支部であれ「共産党」であれ、我が党の身内が公費助成金の不正受給という問題を起こしていながら、処分すらしなかった。市議会も黙認して「返金」で良しとした。みんなして馴れ合っている事を物語る一幕だった。相互浸透の産物だ。

 

  下関市議会を刷新するといった場合、「安倍派だらけ」の保守系だけでなく、馴れ合っている自称野党についても同時に厳しい視線を向けなければ片手落ちといえる。それぞれが個別利害を求めて市政のなかでのポジションを確立している。いまの国会を見ていても同じようなもので、安倍一強の驕りや傲慢さも大概なものだが、一方で選挙になると多弱の側が屁みたいなものだから、有権者が幻滅してそっぽを向いている。そして、政治不信をもっけの幸いにして自民党&公明党の25%が勝ち続ける。与野党ともに相互依存の関係というか、補完しあっている。そして、同じように半数近くの有権者が置き去りにされている。こうした政治不信を乗りこえて分母を広げるような動きにならなければ、事態が劇的に変わることなどあり得ない。本当に政治運動によって下から世の中を動かしていきたいというのなら、選挙に行く人人の枠内で足し算引き算するのではなく、幻滅している人人にこそ思いや政策を訴え、獲得していくことが必要ではないだろうか。

 

財政逼迫し公共施設減 

 

  国政でも、個別利害のために政治があるのか、公のためにあるのかが大きく問われている。それこそモリカケをはじめとした私物化政治に批判が高まっているが、下関市政といっても似たようなものだ。市長がかわる度に安倍vs林の主導権が変化し、学校給食に納入する醤油の利権にいたるまでムキになって争ったりする。議員といっても、当選すると組織や団体、応援してくれた企業のために個別利害を求めて野合する。そうやって馴れ合いと惰性を基本にした議会ができあがり、みんなして年間3000億円の予算執行権を握る市政に寄生し、個別利害のぶんどり合戦みたいなことをしている。自分のため、目先の個別利害のために全体の奉仕者である行政が翻弄され、公共性が否定される関係だ。

 

  下関市議会や下関市政は市民の意志を代表して運営されているというよりは、安倍事務所や安倍夫妻の顔色をうかがいながら運営されているといっても過言ではない状況がある。市職員なら誰でも常識のようにそのことを自覚している。幹部職員などは頭が上がらない関係だ。前田晋太郎を見て仕事をしているわけではない。細細とした個別利害もあるが、政治構造としては安倍事務所、林事務所が君臨したピラミッド構造があり、林派もたまにガスとかバスとかの身内利権を世話してもらうが、どちらかというと最近は安倍派の1トップ気味。市長ポストも中尾が排除されて前田晋太郎が安倍夫妻の全力介入でもぎとった。議長もしかり。市長や市議会が物事を決めるというより、みんなして大和町方面の顔色を気にしながら、上意下達で物事を動かしていく体質が染みついている。この番頭役である市議会のクラス替えで、引き続き右へならえの構造が敷かれようとしている。

 

  先ほど個別利害のぶんどり合戦なのだとあったが、なにかしらの巨額箱物事業の業者選定であれ、「共産党」や公明党が目がない生活保護や市営住宅への斡旋であれ、みんなして目先の個別利害に汲汲としている間に、街としてはすっかり寂れてしまい、どうしようもない事態を迎えようとしている。基金ももうじき底をつく。税収も人口減少にともなって急激に減っている。以前にも財政再建団体に近い状態まで追い込まれたことがあったが、またくり返すのかだ。

 

  新庁舎建設などの箱物で大盤振る舞いしてきた一方で、財政的にはたいへんなことになっている。職員採用の応募が減っているのもその辺りの事情が関係しているようで、公務員希望者が下関市役所を避けていることが話題になっている。今後は財政支出を抑えるために学校統廃合や公共部門の3割削減が俎上に載っている。これまでのツケがみな跳ね返ってこようとしている。悠長にしていられる状況でもない。市議選候補者については「私がなりたい」もいいが、その辺りの事情をどこまで自覚しているのか聞いてみたいものだ。目立ちたがりやなりたがりが、下手をすれば破産管財人にもなりかねないということだ。

 

 D 公共施設の3割削減には公衆トイレの撤去なども含まれている。しかし、例えば老山の彦島大橋のたもとにある公衆トイレが閉鎖されてどうなったかというと、男たちはその辺で立ちションベンをするようになり、犬猫かと思うような事態を招いている。あそこに公衆トイレがあると思って、そこまで辛抱してたどりついたのに、閉鎖されていて堪えきれずにやってしまうのだと地域住民が心配していた。トラックの運転手やさまざまな人たちが利用してきた。たかがトイレといえども街の公衆衛生を守ってきた。安易に削減すればよいという代物でもない。

 

  行政機能が停滞すると街が荒んでいく。自治体が破綻した夕張やアメリカのデトロイトなどの例を見てもそうだ。現状でも人口減少のペースはすごいが、悪循環にはまるとみんなが暮らせなくなって出て行くようになる。その一歩手前まできているような気がしてならない。公園は草が伸び放題、遊具は朽ちてロープが張り巡らされたままとかが珍しくなくなった。街灯すらスポンサー企業が少なくなって消えていく。これほど空き家や廃屋、更地が出現している都市があるのだろうかと思っていたら、なるほど全国でも突出しているのだという。現役世代でも地元就職したのに食べていけず、20代や30代が東京や福岡に出て行く流れが止まらない。飲み屋でも下関に見切りをつけて福岡に移っていったり、5年、10年後を想定して判断している人人ほど動きが速い。人口減少にともなって経済活動の規模は確実に縮小するし、それを見越して対応しなければ中小零細企業もやっていけない。

 

急がれる産業の立直し

 

  レッドキャベツの閉店が地元資本の退潮を物語るものとして話題になる。流通再編や市場寡占化の煽りを受けて商店街はシャッター街へと変貌し、商売人は淘汰されてきた。唐戸商店街だけ見ても惨憺たる状況だ。大型公共工事をしてもゼネコンや市外大手が独占して現金が東京方面に吸い上げられていく。最近も新庁舎建設のために旧庁舎を解体したが、北九州ナンバーのトラックばかりが出入りしている始末だ。若者が市外に流出して人手不足になったかわりに、外国人実習生が増え続けている。竹崎界隈になるとアパート群をみな借り上げて、どこの国だろうかと思うほどだ。昨今の国政や経済政策ともあいまって地方都市としての変化が著しい。

 

 C レッドキャベツが6店舗閉鎖するのを見ても、影響は裾野に広がる。あのスーパーは鮮魚部が評判で、地元水産会社がテナントとして入っていた。魚にうるさい下関で、消費者からはそれなりに認められていた。「親戚が集うので5000円で刺身皿をつくってもらえないか」とか「バーベキューをするので○日にホタテを仕入れてもらえないか」といった要望にも臨機応変に応えてくれて、融通も利いていた。6店舗の魚を世話していた仲卸にとっても大きな痛手になることは疑いないし、肉部門を担っていた企業や、青果市場の関係者など、みなが大変な影響を被る。レッドキャベツ一本を取引相手にして、末端で支えてきた企業もいる。

 

  水産都市としては、残り7船団にまで減っている以東底引きのなかから1船団が廃業する可能性が出てきている。別の1船団も時間の問題と見られ、残り5船団になることもあり得る。大洋漁業がかかわっている2船団が仮に博多にとられでもしたら、漁港市場や水産に関係している人人への影響は甚大だ。大変な変化が起こっていることを認識しないと、高度衛生市場が完成した時には水揚げする魚がなくなっていた--という事にもなりかねない。国は漁港集約を打ち出しており、どうなるかわかったものではないと水産研究者は真顔で心配している。

 

  産業を盛り立てていくしか地方都市として維持していく方策はない。そのために知恵を絞り、行政や議会が機能しなければ手遅れになる。瀬戸際まできているといえるのではないか。悲観しても仕方ないが、くだらない私物化争いにうつつを抜かしている場合ではない。個別利害ばかり追い求める貧乏臭い政治から脱却しなければ始まらないし、大胆な産業政策を講じなければじり貧だ。議員が公費助成金をくすねるなど、いかに思考回路が貧乏臭いかをあらわしているではないか。

 

  本当の意味でのリーダーシップが求められている。もっと真面目に地方自治にとりくまなければ話にならない。日本社会について、「対米従属の鎖につながれている」と表現することがあるが、下関はいつの間にか安倍従属の鎖につながれているのではないかと思う。僕が得をするか損をするか、僕のオトモダチが得をするかどうか、そういった近視眼的な政治や行政のもとで、しかも異論を許さないものだから脳味噌が思考停止し、みずから考えて行動する意欲性が削がれている。しつこいかもしれないが、だから議場で平然と寝ているのだ。右へならえ、つまりロボットや操り人形では役に立たない。

 

 市民生活に分け入って現状を分析し、学び、創造し、産業政策であれ福祉政策であれ、必要とされる施策を講じていくことが待ったなしの課題だ。こうした街の困難に全力で向き合う政治家が求められている。市議選だけでどうこうなる代物でもないが、弛緩しきった状況に風穴を開けることが重要だ。

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