いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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記者座談会 東日本大震災から3年 東北を襲った人災

 東日本大震災から3年以上経過した。本紙は震災後、幾度となく東北の被災地で現地取材をおこなってきた。3年も経過したなかで、原発事故に見舞われた福島や、津波で水産都市や大小の浜が壊滅的な被害を被った宮城県はどうなっているか、復興をめぐって何が問題になっているのか、現地取材をもとに記者座談会を持って論議した。
 
 TPP・安倍政治の末路象徴

  3年がたった被災地全体はどうなっていたか。取材してつかんだ特徴から見てみたい。
  今回は福島県と宮城県を中心に取材を進めた。3年もたっているのに、被災地の復興はまるで進んでいなかった。あれだけ復興増税などして予算を投じながら、どこも更地ばかりだった。住宅地には建築規制がかけられ、被災3県で26万人もの避難民が仮設住宅や借り上げ住宅に押し込められたまま元に戻れない。どの地域でも先が見えないために、「今後どうするか…」と選択が迫られていた。故郷に戻りたいという思いと、一方ではこのまま放置されるなら、新天地で生活を築くしかないという複雑な思いが交錯していた。
 福島第1原発に近い福島県南相馬市では一昨年4月に警戒区域が解除され、原町区の一部と小高区には、住民が戻って片付けや家屋の再建に手をつけていた。しかし日中しか戻れず、夕方になると避難先に帰される。みなが「先が見えない…」と話していた。3年前の爆発事故で放出された放射性物質は多くが半減期を迎え、線量としては格段に下がっている。南相馬に入った3月9日も毎時0・1マイクロシーベルトという低線量だった。しかし住民は戻れない。
 故郷で生活を再建できるようインフラ整備を進めているかというと、それもない。小高区は重機も入らず、人も車も通っていなかった。瓦礫も農地のあちこちに山積みにされ、民家や道路は津波に破壊された姿のままだ。使えなくなった車両も放置されていた。恐ろしいほどの静けさだった。「本当に街を復興させる気があるのだろうか」と住民は語っていた。原発周辺は完全に放置されており、他の被災地と比べてもひどい。
 原発避難区域の除染・復興は国が直轄している。しかし国が直轄している地域ほどなにも手がつけられていなかった。高線量だった飯舘村も、全村避難したままの状態だ。飯舘村は地震も津波も被害はほとんどなかったのに、震災から3カ月が経過してから線量が高いといって追い出された。年寄りの多くは福島市内などに点在した仮設住宅で暮らし、子どものいる若い世代や現役世代はよそに生活の拠点を移して仕事を始め、人口流出がひどい。「村に帰れるようになったとしても、戻るのは村民5900人のうち2、3割になる」といわれていた。
 福島市内だけでも避難民は約14万人におよぶ。しかも除染が一向に進んでおらず、故郷にいつ帰れるのかすらわからない。人が住まなくなった自宅は大量発生したネズミなど動物たちが荒らし、風雨にさらされてグチャグチャになっている。地下水をくみ上げていた水道管も凍って破裂したり、地下水脈自体が変わってしまっていて暮らせる状態ではないという。病院も企業も商店もなく、コミュニティー自体が崩壊しているから、生活を再建しようと思っても個人個人の力ではどうにもできない状態だ。
 「除染」についてもみながデタラメだと指摘していた。ゼネコンが請け負って下請に丸投げし、民家一軒当り3000万~5000万円もの費用をかけ、1、2カ月もかけて「除染」していく。山ごと除染しなければ効果はないが、結局長期にわたってゼネコンや関連企業が復興費をむさぼっている。誰のための除染なのか見てみたらゼネコンのための除染だった。
 帰還困難区域となっている浪江町も住民が戻れないまま。帰還意向調査では「戻りたい」と答えた人が18・8%と2割を下回る事態になっている。原発周辺の住民たちは避難先でも過酷な差別を受けるなど心痛している。「浜通りの人間が原発を誘致したから、福島がこんな様になったんだ」という視線が福島市や郡山市など中通り側にある。同じ福島のなかで住民同士が分断され、避難民が息を潜めるようにして暮らしている。
  津波被害がひどかった宮城県はどうか。
  沿岸部の水産都市も小さな浜も、国が主導する復興計画との矛盾が際立っていた。住民生活の再建が置き去りにされて、ゼネコンが防潮堤利権をむさぼったりするものだから、どこでも激しい衝突になっていた。肉親や友人を亡くしながら、みなが故郷の復興を目指して尽力してきた。ところが「危険浸水区域」といって建築規制がかけられ、引き続き何もできない状態に置かれている。福島と同じように住民は戻れず、仮設住宅や借り上げ住宅などで避難生活に耐えていた。
 高台移転も土地の造成すらされていない地域がほとんど。今後1、2年で完成するものではない。蓄えのある人はすでに別の土地に家を建てて生活している。しかしほとんどの被災者は新たに借金をして建てなければならない。流された住宅のローンを抱えている人人もいる。
 行政は「町から出て行かないでください」と住民に訴えているが、市街地にも漁港にも手が入らないから戻れない。国が示した復興計画以外には何もできず、いつまでも足踏みしている。やることといえば住民無視の建築規制であったり、私権を制限して浸水地をみな公園にしようとしたり、巨大な防潮堤をつくらなければ「後背地の住宅再建はできない」といって待ったをかけたり、あれもダメ、これもダメばかり。おかげで人口流出が深刻で、石巻市と合併した雄勝町では帰還意向調査で「戻りたい」と応えた住民が1割しかいなかった。防潮堤(総延長370㌔㍍)の建設費用として復興予算には8000億円がつけられている。「人口が流出して人が住めない地域にしておきながら、そこに防潮堤をつくって何を守ろうとしているのか?」とどこでもいわれていた。目的がひっくり返っているとみなが指摘していた。
 石巻の水産加工団地では54%の被災企業が再建してきたといわれていたが、実情を聞くと決して単純ではない。補助金を使って建て直しても従業員も物量も以前のようには揃わない。震災を契機に取引をやめていったメーカーもある。周囲の関連産業全体が復旧していない困難さもある。被災地の企業の回復率調査では水産・食品加工分野は14%と、全産業のなかでもっとも低い。地元経済の中心で基幹産業でありながら、もっとも遅れているのが実態だ。グループ補助金を受けて再建したものの、「2年後からの借金償還に耐えられるだろうか…」という不安も語られていた。
 気仙沼では水産加工会社等業種別の「集積地」をつくって効率的に復興させる計画をつくっている。まだかさ上げが終わらず、ほとんどの企業が戻れないまま更地状態だ。グループ補助金で復旧・再建してきた企業が多くあるが、行政が決めた集積地へ移動するために補助金を全額返済しなければならなくなったり、踏んだり蹴ったりの状況もあらわれている。復興計画も二転三転し、その度に地元企業が振り回されて疲労困憊している。零細企業や商店などは補助金の対象にもされず、震災前の借金のうえにさらに借金をして、土地や店舗を抵当にとられて再建にあたっていた。 
 
 創造的復興の破綻 願望と現実が乖離 住民主導に展望

 A 国が進めようとしている復興が住民の要求とはまるでかけ離れたもので、大矛盾になっている。上から統制をかけて復興を政策的にストップさせている。これだけの震災に見舞われて、政府なり国というものが国民のために何かしてくれると思ったら、いつまでも放置して棄民状態にしている。第一に建築規制をかけて住民が住めるようにしない。そして、防潮堤をつくるとか、コンクリ事業ばかりに熱を上げている。
 震災後、「いつまでも塞ぎ込んでいられない。前を向くしかないんだ」と住民自身が再起を誓って立ち上がっていった。あの当初の盛り上がりを発展させないといけなかったのに、逆に規制してしまい、「創造的復興」といいながらなにも復興していない。そして被災地に人がいなくなってしまった。津波だけならまだしも、その後に人災がもたらされている。国家たるものの残虐さを暴露している。
  これはアベノミクスに通じている。東北だけではない。津波に襲われていないのに下関を見ても被災地のような寂れ方になっている。早くから安倍流「成長戦略」がやられてきた結果、人口減少や少子高齢化率、貧困率が全国屈指の街になった。東北の実態は全国の象徴だと思う。商業メディアは、思い出したように「絆」とか「支援を!」といっているが、何が支援なのかだ。もともといた住民が主人公になって復興するのを応援しなければいけなかった。岩手県の重茂や宮城県でも牡鹿半島の小渕浜など、共同体が中心になっているところでは、住民自身のパワーによって復興が進んできた。その力を否定して被害者にしてしまい、土地から追い出して生殺し状態を長引かせてきた。精神的にも荒廃を促進した。そして、「創造的復興」という別目的を含んだ土地接収、核処分場建設や大企業パラダイスをつくろうというのだから悪質だ。
 C 福島は典型的で、当初からすべての地域で線量が高いわけではなかった。浪江から飯舘にいたる山間部が高かっただけなのに、原発から半径10㌔、20㌔、30㌔で線を引いて追い出した。出て行った結果、誰もいなくなった村をネズミやサル、猪豚が荒らし回って、コミュニティーもインフラも崩壊している。放置された状況のもとで住民は働かないと食べていけないから、よそに流出している。土地を接収するという明確な意図が動いている。
  放射能汚染を直接の理由にして亡くなった人はいないが、その後の過酷な避難生活によって亡くなった被災者は多い。福島では震災関連死で1600人が亡くなっている。自殺など含んでいる。二次災害の方がひどい。年寄りは町や村を出て行かなくてもよかった。年間1㍉シーベルトという被曝基準を見ても、それを20年間浴び続けてガンになる確率が5%上がるというものだ。若者は影響があるから一時避難するにしても、50代以上はむしろ残って暮らしていた方が、コミュニティーを維持してみなが戻れる条件をつくれていたはずだ。慣れない仮設暮らしによる心労もなかった。
  広島・長崎の被爆者はみな「土地から離れたら終わりだ」といっていたが、まさにそうだった。原爆から復興してきた経験と比べても、「戻れない」ような代物ではない。広島・長崎では直後からバラックを建てたりして、みなが戦後復興に励んだ。福島では厳密な汚染地域は発表しないまま住民をみな追い出した。国は災害をもっけの幸いにして、核廃棄物の処分場をつくるチャンスと見なした。「ショック・ドクトリン」といわれてきたが、要するに火事場泥棒だ。そういう残酷なことを国が平然とやった。住民の生活とか健康とか、生命を守る政府ではないことを暴露している。東北だけでなく日本中がそうなっている。詐欺も流行っているが、国が詐欺をやってだましていく。それとたたかって住民主導の復興をやらないと目処が立たないということだ。

 戦前にも劣る政府対応 区画整理完了〇%

 C 仮設住宅も当初は入居期限が2年だったのが3年に延長され、かといって復興公営住宅も建設されず、いつまでもプレハブ暮らしを強いられている。被災地全体の復興がどれだけ進んだかというと、河川堤防は99%、瓦礫処理は95%、水道復旧は89%とされている。「復興3年」とかかわって公表された数字だ。しかし災害公営住宅になると僅か2%。区画整理完了は〇%だ。住民生活にかかわる部分が極端に遅れている。ひたすらゼネコンが荒稼ぎしている。高台移転といっても高台の造成すらやられていない。
  宮城県は漁港の復旧も進んでいない。進捗率12%で、福島県の30%や岩手県の59%と比較しても開きが出ている。水産復興特区や漁港集約が打ち出され、その後は資材や作業員不足にも直面してきたが、実際上、漁港整備がストップしている。沿岸の浜に行くと、土嚢を積んだ上にコンクリを敷いた応急措置のままだったり、雄勝をはじめ牡鹿半島の小さな浜では手すらつけていない漁港がたくさんあった。危なくて漁船が接岸できない。ワカメ漁の真っ最中だった小渕浜では、沖からとってきたワカメを漁港に入った順に並んで水揚げしていた。岩手県の重茂などは2年もたたないうちに漁港復旧工事は終わっていたのに、宮城県の沿岸は明らかに遅れている。
  「創造的復興」「ショック・ドクトリン」で、東京の大企業利益を代表して国が動き、現地で村井知事が実行している関係だ。
  以前、被災地を取材していた時、岩手県宮古市の田老地区で、90歳近い老人が語っていた。昭和の津波のときは翌日から瓦礫撤去をみなでやり、1年後にはバラック作りの自宅が元の場所に建ち、みなが暮らしを取り戻したのだと。当時の政府は成長の早い野菜の苗を提供したりして被災地の食料支援も熱心だったといっていた。
 戦後69年たった現在は3年たっても放置され、昭和の津波のさいは翌日から瓦礫撤去やバラック作りがはじまった。よほど民主主義的だ。今のほうが国家統制がひどい。「戦前はひどかった」というが、今よりはるかにまともな対応だ。変に規制を加えないだけ、現地の復興が動く。同じようにプレハブ材料でもいいから国が提供していたら、被災地の暮らしは崩壊せず、地域コミュニティーが機能しながら復興に向かっていたはずだ。順を追って高台移転で正規の住居をつくるとか、2段階、3段階でやれば良かった。津波が来たときに「流されてもしょうがない」と思う者はそこで生活再建にあたればよいし、住民の判断や要求にもとづいて進めていたら、今頃は賑やかな市街地になっていたに違いない。
  集落の成り立ちには歴史的法則性がある。生産ができるところに集落が成り立つ。山口県の上関町でいえば原発予定地の田ノ浦には縄文遺跡があり、弥生遺跡もあって、四代には古墳時代の遺跡もある。暮らしやすいことを証明している。海で魚や貝をとったり、山で実をとったり、生産活動を基本にして住みやすい条件が整ったところに、集落や共同体が形成されていく。現在の社会では、そこに商店や病院といった施設ができていく。必要性に迫られて生活圏がつくられていく。それを上から「創造的復興」といってもできるわけがない。生産活動とともにある集落の成り立ちを否定しているからだ。徳川時代の大名も、平野部のコメのとれるところに城をつくっている。生産活動に従属している。
 福島にしても、生産を切り捨てたらコミュニティーが崩壊するのは目に見えている。集落の成り立ちには歴史的な重みがあり、その土地や自然との関係を切り離せない。上から恣意的に「創造的復興」といってコントロールできるものではない。アベノミクスとか新自由主義というのは自分たちの願望と目先の損得ばかりを追い求めて、国家を破綻させていく性質を持っている。釜石にイオンタウンができたが、いくらでかいショッピングセンターをつくっても、被災地から人口が流出しているのではもうからない。商売できるかどうかの基本は消費者がいるかどうかにかかっている。大手資本がもうけようと思えば搾取するしかないが、被災地のどこも搾取する相手がいなくなっている。
  雄勝などは住民の気配すら感じないゴーストタウンになっている。
  被災地で進められている企業向けの復興施策は補助金漬けなのが特徴だ。それによって大企業が法人税を減免されたり、恩恵を被っている。中小零細企業にとってはハードルが高いが、大企業はフルに活用している。漁師たちが補助金によって船を建造したりするのとは桁が違う。
 『世界』(月刊誌)が載せていたが、企業参入が奨励された植物工場は全部不採算だという。電気代ばかりかかってどうにもならない。結局補助金で成り立っているというインチキだ。
 B 「民間資本を導入して復興をはかる」と持ち上げられていた桃浦地区(宮城県石巻市牡鹿)の水産復興特区も、1年たった様子を水産加工業者に聞くと、カキ処理は厳密なうえ価格が安いので、カキ生産だけでは採算が合わないといっていた。「補助金がないと成り立たないじゃないか」と。企業化して賃金労働者になった桃浦の漁師たちも、1年が経過して「サラリーマンではおもしろくない…」とぼやいているのを別の浜の漁師が話していた。
  「創造的復興」とか「特区」といわれるものが総破産している。これと断固たたかって、下から住民の力で復興するしかない。
 C 誰がみても国が旗を振ってきた復興では展望がない。被災地では基礎自治体に自由がなく、復興交付金でがんじがらめにされている。補助率だけで復興計画が組み立てられ、あちこちが金太郎飴みたいな似通った街作りをデザインした。そして、実際にはゴーストタウンになっている。綺麗な団地が完成したころには、若手をはじめとした働き手や住民は移住してしまい誰も入らないという事態にもなりかねない。「仏作って魂入れず」を真顔でやっている。

 住民の力で復興を 棄民政治と全国斗争

  生産を基礎にして根本からやり直さなければいけないのに、ストップをかける力が働いている。残忍極まりない規制を加えているが、同時に破綻している。3年もたってなにも復興できないのだから、これが5年たっても見込みなどない。知識人のなかでも「東北の現在の姿は30年、40年先の日本の姿で、他の地域にとっても決して他人事ではない。東北と連帯して、全国でこのような政治とたたかわなければならない」という発言が出てきている。3年もたって復興が何も進まない。この結果をもたらした原因、政治の在り方を問題にしないわけにはいかない。
  全国共通の課題だ。生産点を基礎にして復興をはかるというのも一緒だ。他人事で「応援します」というものではない。明日は我が身。国の方向が先行実施されている。大災害をチャンスにして火事場泥棒がみな食い物にしていく。
  それにしてもひどすぎる。震災直後は「日本人というのは秩序正しく、困難に直面しても整然としていてすばらしい民族」と海外も驚いていたが、3年経過した被災地を見せなければいけない。いかに政府がボロかを示している。世界中の笑いものだ。暴動などなく、被災者が助けあっていたということと、為政者がデタラメというのは別の話だ。
  海の津波のあとに陸の津波がやってきて、惨憺たる状況に輪をかけて人災をもたらした。この怒りは東北でも全国でもすごい。復興会議が意識して進めたのはTPPの先取り施策で、強い農業、強い漁業といってパンクさせてしまった。東北の復興に対して、下関の復興なり全国の復興とも重ねて問題意識を広げないといけない。
 D 下関がなぜここまで疲弊したのかが、東北から見えてくる。この間、下関でも雇用確保、産業振興を掲げて運動がやられてきた。全国的に連帯して、外資略奪型の大企業天国をつくり出す政治とたたかっていくことの重要性を示している。

 地産地消、生産原理で 地元の現状に即して

 知識人が「アベノミクス」「成長戦略」批判を展開するなかで、「脱成長」という言葉が使われている。地元独自の食料生産、それに関連した産業、流通こそ見直そうというもので、生産原理でいくべきだという主張だ。農漁村や地方の衰退に対抗して、それぞれの地元で町おこしとか農業振興、地産地消のとりくみに力が注がれてきたが、食料にしても生産者が食べられないような不合理を根本から転換することが求められている。
 A 地産地消でやればかなり低コストで流通も完結する。わざわざ東京の築地まで持って行く運送費だけでも少少ではない。近場に売って、地元が買えるようにするのが一番よい。資本主義の観念的な金もうけの幻想で、「大きな市場に出さなければ」というのがあるが、流通コストだけ膨大にかかって店頭価格は上がるし、そのコスト分をまかなうために生産者には買い叩きをやる。それよりも生産者が消費者直結で販売した方が高く売れ、消費者にとっては安く買える関係だ。農漁村が生き残る道はある。流通機構の工夫はもちろんだが、山の木材も燃料としてもっと活用すればエネルギーにもなるし、治山治水も進む。
 D 農文教が出版している『地域』でも、各地で薪炭とか、林業とか、ミニ水力発電とか含めて工夫している実情を紹介している。戦後の山間地は林業と米作りが基本で、水田、畑、地域の流通でなりたっていたが、戦後の「石炭から石油へ」のエネルギー構造転換で破壊されて、ノンカルチャー化してしまった。林業なんか要らない、薪炭なんか要らないとなって、単なる米作りのモノカルチャーだけになってしまった。しかもそれも減反で潰され、花作りなどのモノカルチャーにされて惨憺たる状態になった。資本原理で産地が振り回されるのではなく、地元の現状に即した生産や販売体制を工夫したら、発展する可能性はある。
 A 今からの世の中を想像した時に、農漁村は強い立場にある。資本主義はどうなるかわからないが、食料はいつの世も必要不可欠だ。カネがいくらあっても食べられないのでは生きていけない。経済が破綻して大企業のCEOたちがみな吹き飛んでも困らないが、食料生産は社会からなくなってはならず、必ず頼りになる。いよいよのときは自給自足でも暮らしていけるのが農漁村だ。
  3年たって、国が進めてきた復興については結果が出ている。何もできないし、復興させる意志も能力もないことを示している。別目的ばかり実行して阻害する。被災地の自治体がもっと自由に復興予算を使えるような仕組みに改めることはもちろんだが、住民生活の再建、生産活動の復興を最重要課題にして、住民自身の力によって復興を動かすように転換させなければ、いつまでも絶望的な状況が続く。
  黙っていたら国は潰しにかかるばかりだ。国がかかわったおかげでこんなことになった。各自治体に任せて、そこに交付金を投入していれば1年であらかたの復興はできていたはずだ。東北復興は全国共通の課題で、TPP路線と対抗して全国津津浦浦から共同のたたかいを強めることが待ったなしだ。

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