いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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沖縄で今何が起きているのか 琉球大学教授 我部政明

日米地位協定と沖縄の声

 福岡市の福岡大学で15日、第四回大学の未来を考える講演討論会(主催・平和を愛する福岡大学人の会、九州歴史科学研究会)が開かれ、「沖縄で今 何が起きているのか―日米地位協定と沖縄の声―」をテーマに琉球大学教授(国際政治学)の我部政明氏が講演した。以下その講演と質疑応答の内容を紹介する。

      ※         ※

 沖縄では今、基地建設の大きな動きが2つある。1つは高江のヘリパット基地建設で、もう1つは辺野古のキャンプの海を埋め立てて基地をつくることだ。この2つの話は、資料に示しているように1996年に出された「SACO最終報告等における返還合意等された米軍施設」と、2013年4月に出された「嘉手納以南の土地の返還に関する統合計画」によるものだ。2つの計画を見ていると内容はほとんど同じものだ。例えば普天間の返還は96年に出たが、2013年にも「普天間返還」とある。今月に入って菅官房長官が沖縄に来て、「北部訓練場を返還する」といった。新しい話のようにいうが1996年の「SACOの最終報告」のなかに計画があり、20年前から出ている話だ。
 96年の沖縄の北部訓練場の返還にともなって出てきたのがヘリパットの問題だった。ヘリパットの建設工事をめぐって、今機動隊と住民とのあいだで衝突が起きている。この北部訓練場の返還計画には「約7543haのうち約3987ha返還予定」と書いてある。半分を返すが、半分は残して使うということだ。問題は「返す」といっても無条件に返すわけではない。ここが沖縄の基地問題の難しさで、条件つきで返還するという。北部訓練場は返還するがヘリパットを新規につくるのが条件で、つくらせないと返還しないというものだ。つまり、これまで米軍基地がなかったところに新たに基地をつくるということだ。これについて周辺住民は、工事のために山原(ヤンバル)という地域の自然環境に大きな影響を与えること、ヘリが飛んでくることによって周辺住民の頭上にヘリがひん繁に飛んでくることを問題にしている。この状況は決して高江だけに限ったものではない。他の地域でも同じだ。
 このなかで外部の人間から見て「返還してもらうのだからいいじゃないか」という意見がある。だが「返してもらう」といって米軍に感謝する性質のものなのかだ。沖縄に住んでいる人から見ると当然返すべきものだ。というのは基本的に沖縄の米軍基地は、沖縄戦と同時に地上戦斗がおこなわれ、その過程でつくられた。戦斗地域からどんどん軍隊の支配地域になって基地になった。戦争のときに避難して、戻ってきたら米軍基地になっていたのだから、沖縄の人たちからするとそれは怒り心頭だ。70年以上たって、返還されるのは当然の権利と考えている。しかし、一方で住民の立場とは違う立場から「返還されるからいいじゃないか」というものがある。「してもらう」という受け身の感覚、「返還を評価しないといけない」という感覚は違う。日本政府は「やってあげている」という意識になりやすいが、もともと自分たちのもので、そこに認識のずれがある。
 沖縄戦と米軍基地は生まれが同じだ。米軍基地の存在は沖縄戦にはじまる。沖縄では戦争というのが、決して70年前の過去のことではない。米軍基地が存在することによって戦争は継続している。沖縄戦の体験が生き残った人たちだけの記憶だけで成り立っているのではなくてその後生まれた人にとっても沖縄戦の記憶は残り続ける。
 高江ヘリパットの話に戻るが、沖縄の基地を返還するときに米軍は多くの場合に条件をつけてきた。日本政府もその条件付けに乗ってきた。返還してもらうならコストを払うべきだという考え方だ。だが返すべきものになぜ条件をつけるのかだ。条件の中身で問題なのは、あらたに基地が残っていくことを承認するということだ。米軍基地はそもそも地元の同意を得てつくられたものではない。だが返還するから条件をのむとなると、新たな基地を今度は認めることになる。それは米軍基地がずっと沖縄に残っていくことを意味する。基地は当然なくなるべきだという考え方からすると、この条件はのむべきではない。それは沖縄に基地を残しておくことは必要か否かという基本的な論議になっていく。
 米軍側からすれば地元の同意を得れば基地を正当化できるのだから、同意を得ればいいのだが、得られる状況にない。では同意を得ずにどうやって基地をおくのか、アメリカが考えたことはいわゆる「黙諾」だ。文句をいうだけいわせて、文句を減らして「黙諾」する。これを経れば基地を維持できるという考えだ。アメリカは沖縄は貧困であり人権意識もないと見て、民主主義を教えたり金をつぎ込めば、沖縄の人の歓心を買うことができるかもしれないと考えたことはある。だがそれはできないことに気づく。アメリカが直に沖縄の人から、米軍基地の存在を認めてもらうことの困難さに気づいた。
 それで考えたのが、日本政府を間に挟めばいいということだ。それが一九七二年の沖縄返還の背景だ。日本政府が沖縄の「黙諾」をどうやって維持するのか。相手の同意をとるのが難しいとなれば、典型的なやり方はお金だ。
 日本政府は国際的にも国内的にもお金で人の歓心を買うのがもっとも効果的と考えている。NGOや海外のために金を出して救ってあげれば支持を得られることを経験してきた。ところが今、沖縄との取り引きの条件が厳しくなっている。政治家はお金を上積みして土下座をして頼んだり、「沖縄に寄り添う」といって泣き落としにかかる。だがそれが通用しなくなった。するといわゆる逆切れをして相手を攻撃することになる。自民党・安倍政府の行動がそれだ。強圧的に見えるかもしれないが、逆にいえばもう他に手がないということだ。それぐらい沖縄の130万人県民の民意が強いということだ。
 2014年11月に知事選挙があり、辺野古の埋め立てが争点となった。辺野古移設反対の候補が38万票で当選し、賛成派の候補が28万票で落選して10万票くらいの差がついた。10万票というのは大きな差だ。従来の選挙で2人の候補者が出た場合、だいたい3万ぐらい差があれば大きな勝利だった。今年の7月におこなわれた参議院選挙も1人区で2人の候補者が出た。辺野古移設が争点となった。この選挙でも同じ様な投票結果となった。これは今の沖縄の民意だと思う。経済的には一番貧しい県といわれるなかで、政府によるお金の有効性が効かなくなってきた。

 沖縄戦から続く戦争 基地は無条件で返還を

 そこで強い力で裁判で決めるということになった。今起きている辺野古の裁判は、「埋め立て承認取り消し」をめぐって、安倍政府と沖縄県のあいだで互いに訴えあっているものだ。このきっかけは大きく2つある。辺野古に基地をつくるために、法律上県知事が持っている公有水面埋め立て許可を得るために、安倍政府が当時の沖縄県に対して許可を得ようとした。それに対して2013年12月に当時の仲井真知事が承認した。そして埋め立て工事が始まることになる。だが2010年の選挙で「基地はつくらない」と公約した知事がまったく違う行動をしたことに、多くの有権者のなかから「これはおかしい。有権者に問うことなく知事が一人で判断するのはおかしい」と批判が出たのは当然のことだった。この前知事の埋め立て承認が果たして妥当か否かが問われた。現在の翁長知事は「2013年の公有水面埋め立て承認には瑕疵(かし)があり、取り消しが相当」という考えだ。埋め立て承認は前知事がやったもので間違っているという主張だ。それに対して政府側は前知事が決めたことをやるんだという対立になっている。
 今年3月に裁判所は和解勧告を出した。簡単にいうと和解して国と県という行政同士で話し合いをしてくださいということだ。沖縄県も国も和解に同意をした。ただそのなかに、話し合いがうまくいかなければ、2週間後からは裁判してもいいとなっている。問題は和解をしているあいだに承認取り消しが有効であるとなっていることについて、政府は有効でないといいたいわけだ。沖縄県は裁判ではなく話し合いで進めようとするが、政府側は「裁判しないというのは沖縄県の不作為だ」といって沖縄県を裁判に訴えた。そして何が起こっているかというと、2013年12月の判断と2015年10月の取り消しの判断のどれが正しいかということを争っている。
 沖縄県は自分たちの承認取り消しの判断がいかに正しいかをいおうとする。ところが日本政府はそこについて斬り込みはせず論点を変えた。「最初の2013年の承認は有効だ。そこにはなんの問題もない」と。つまり何を裁判所で明らかにするか、沖縄県側と日本政府側はまったく別のことをいいはじめた。そこで裁判所は、政府側の「2013年の判断には間違いがない」という判断をした。沖縄県側は自分たちの判断が間違っていないと主張したいのに、同じ行政機関である前の機関がいかに間違っているかを今説明しようとしている。裁判的にいうと内容がひっくり返った展開になっている。裁判の内容で、何を争うかは大変重要なことだ。裁判官たちが何を聞きたいか、何を彼らが判断したいかと密接につながっている。
 沖縄県側は上告し、最高裁の判断が待たれている。しかし訴えられている人、沖縄県知事が取り消したことを裁くのではなく、前の知事がやったことが正しいか否かという裁判だ。前の知事が正しいということをいかに反論するかになっている。自分がやったことについて反論はできても、前の知事の行為についてとってかわって反論するのは大変難しい。
 最高裁がどのように判断するかだが、裁判なので政治的な要因はぬぐえない。とくにこれ以上手がない安倍政府が全力をあげて沖縄に基地をつくるんだと民意など関係なくやっている。そういうときに最高裁が、政府がやることをまったく無視して判決を出すことはないだろう。その点からして、裁判の行方は沖縄の人の考えとは別のものになる。
 問題は裁判の手続きのことだけではなく、多くの人が関心があるのは、なぜ米軍基地が必要なのかという説明だ。地元が納得していないのになぜ進めるのかだ。この点について裁判のなかでは抜け落ちていく。日本の多くの有権者そして沖縄の人が何を考えているかということだ。政府のやり方として辺野古の人たちなど利害関係者をどんどんしぼっていって孤立させて、多くの場合、最終的には納得させるというやり方をする。この場合、どこまでが基地の利害関係者なのかだ。日本の国民もある意味、当事者であるといえると思う。当事者として責任がある。
 米軍基地について、そこに住んでいる人たちの考えをどこまで反映することができるのかというのが民主主義だ。少数者に対する情をどこまでするか。ただ数だけで決めるという、多数決によらないルールというのをわれわれ人間社会はつくってきている。公平とか正義などといってきたが、それは多数決ではない。とはいえ100年前の考え方と今の考え方は変わってきた。今日、明日の話では変わらないが、時間軸を長くとれば変化してくる。そういった人類がつくってきた考え方で、この問題をどうとらえるかは重要なことだ。
 現実についての捉え方も異なる。沖縄の人が、土地が返還されることが当然だと考えていることと、そうではなく感謝するというのは現実感からして違う。現実というのは1つしかないということではない。
 こうした米軍基地の存在を許し、日本の米軍基地関連の法律をつくりあげているのが日米地位協定である。地位協定にもとづいて日本の法律が対応し、警察の権限なども決まっている。地位協定を日本が承認しているからそのようになっている。
 先ほどもいったが、沖縄の基地は沖縄の同意を得てつくられているものではない。米軍は条件をつけてくるが、それはのみ込める条件ではない。条件なしで米軍基地の返還を求めるべきだ。現実には条件なしで返還したものはいくつもある。日本政府が、沖縄返還後に、沖縄の米軍基地にかかわるようになってから、条件つき返還が恒常的になっている。

  沖縄の独立という話を聞いたことがあるが、どう思うか。
  独立について20世紀から21世紀という時代の流れから考えてみると、20世紀の独立というのは自分たちを解放し平等にしていくというものだった。21世紀を見ると世界がグローバル化しているなかで、例えばイギリスのEUの脱退に代表されるが、自民族を大事にして、外国人の流入を排除して独立を強めたいという世界的な潮流があると思う。20世紀型の独立と違うのが21世紀の社会だ。そのなかで琉球独立を主張している潮流は、19世紀型、20世紀型の独立の話ではないだろうか。独立して何をするのか、どういう理念で独立するのかを考えないと世界の支持は得られない。IS(「イスラム国」)のようなテロリストが国家を名乗っても多くの国がそれは認めていない。ナショナリズムという観点はなくならないものだが、それとグローバル化をどう考えていくかだ。
  自衛隊の爆音には規制勧告ができるのに、米軍機の爆音には勧告ができない状況にある。自衛隊と米軍の違いは何か。
  地位協定の根幹は刑事裁判権だ。どこの国の法律でこの人を裁くのかということだ。これが地位協定の中核部分だ。軍隊が外国に行く場合に地位協定の必要性が生じる。地位協定が必要なのは戦争状態にないときに、その国で軍隊がどういう権利を持つのかをとり決めている。普通、受け入れる国の法律に遵守するのが一般的だ。ただ軍隊は違う。軍隊は武器を持っており、軍隊の指揮命令は国外にある。アメリカとしては米軍兵士を外国に行かせたのに、そこで刑事事件に遭遇したときに自分たちの軍隊は特別扱いしてくれよというものだ。
 日米地位協定を例にいうと、アメリカ政府が必要としているもので、日本人は必要としない。軍隊を送る側の事情であって、受け入れる側の事情ではないということだ。逆にいえば日本人が地位協定をどうしたいかを考えれば変えられるという単純な話だ。多くの国がアメリカと地位協定を結んでいるが、それぞれの国によって内容は異なる。アメリカは手を変え品を変えて軍隊をおきたいから、相手が納得するように変えないといけない。アメリカ側が地位協定をなくすことはないのだから、日本人がどう考えるかだ。
 自民党の憲法草案のなかに、自衛隊の刑事裁判権を切り離す、つまり軍事法廷をつくるという内容がある。日本の法律では、天皇など一部の人を除いて誰であっても同じ法律で裁かれるが、今戦前にあった軍事法廷を復活させようとしている。
  地位協定の改定は今の時点でどうしたら可能なのか。
  沖縄県からも10年以上前に改定すべき点として指摘がなされている。その1つが環境問題だ。協定には書いていないが、日米間で環境のとり決めはある。それは日本側が米軍の軍人や軍属に対する環境への影響を与える場合のことだ。厚木飛行場の周辺には産廃工場がある。その煙突の煙が米軍基地の中に入るということで、アメリカ側から日本に対して環境基準を定めてほしいと申し入れしてきた事例がある。ところが問題は、基地内の現地調査をしないといけないのに、米軍側は基地の中をあまり見せたくない。日本の産廃工場は日本の市町村でも立ち入りできるし、米軍のようにノーといえない。実際には不公平だ。環境意識が高まるなかで日本側もそれに対応したとり決めをするべきだ。
 もう1つは刑事裁判権の問題で米軍関係者が逮捕されたときに身柄をどうするかという点だ。今年4月にうるま市で女性強姦殺害事件があった。これまで現行犯ではない場合に、日本の警察がアメリカに対して事情聴取をしたいと申し出ると、多くの場合、協力せずに拒否していた。95年の少女レイプ事件以降この動きは変わってきた。警察は連れて行くと事情聴取するが、米軍関係者の場合、アメリカ側の司法当局が同行する。そのなかで日本人にはないことが1つある。事情聴取をする場合に日本人の場合は第三者を入れないが、これをアメリカは認めておらず、米軍に限ってのみアメリカの政府関係者が立ち会いをしていいという形で取り調べができるようになっている。
 裁判権について、地位協定では米軍の組織的な軍隊の扱いについて、いる場所、基地の中、外によってとり決めがある。地位協定には「お互いの裁判権を認めあう」と書いている。競合する場合は、それぞれの裁判権はそれぞれ持っているという前提でやっている。簡単にいうと、基本的には日本の法律だが抜け道をつくっている。公務中は日本の裁判権から抜ける、アメリカ人同士は抜けるとなっている。基地の外でアメリカ人同士、軍人、軍属同士が殺人事件を起こせば、日本の警察ではなくアメリカがやる。事件が起こった場所が仮にこの福岡であったとしても同じだ。つけ加えると米軍の交通事故の場合、日本の警察は八~九割は見逃している。
 もう1つは地位協定上、民間空港、民間港湾は米軍が使えるようになっている。あちこちの民間施設に、軍艦や飛行機が入れる様になっている。それについて純然たる民間地域を利用する場合に、空港や港湾は管理する県や市町村の許可を得ることを要求している。
  米軍が日本に基地をおいて駐留しているのは「東アジアの緊張情勢」などといわれるが、本当の理由はどこにあるか。
  軍事的な問題でいうと、強い軍隊だ。アメリカの軍事力の強さの根幹をなしているのは核兵器だ。核兵器をかなり独占している。日本は核兵器をつくる技術も経済力もあるが、日本が核兵器を持つ国になるのはアメリカにとって大変恐ろしいことだ。アメリカのいうことを聞かなくなるかもしれない。だったら日本が核兵器を持たない方がいい。だからかわりに守ってあげようという形にした。だが「守ってあげましょう」となると何かと要求されるため、日本から「守ってほしい」と頼ませるように仕向けた。これはアメリカの利益追求のためだ。アメリカは米軍基地を必要だと考える人はだれか、自分と与する友だちは誰なのかわかっている。とりわけ日本とアメリカの違いでいうと、アメリカの外交官は日本の手のうちをよくわかっている。それに比べて日本の外務省はアメリカのワシントンの中を把握しているのだろうか。アメリカの政治の内部に立ち入った日本の外交官はいない。

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この記事へのコメント

  1. しばらく前の記事ですが、我部さん仰ることは力強い。問題は、このような意識、あるいは問題を、我部さんの意見と切り離したとしても、どれだけ日本人が真剣に考えることができるかだと思う。
    結局、考えることなしに力強い意思は生まれず、意思がなければ行動も起こらない。

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