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能登被災地で棄民くり返すな 家は崩れ、避難所も出され…3カ月以上たってまだ車中泊も 支援打ち切り集約化促す国【記者座談会】

崩れた住宅のがれきで塞がれた輪島朝市通り付近の道路(8日、石川県輪島市)

 能登半島地震の発生から3カ月半以上が経過した石川県奥能登地域では、被災家屋やがれきの撤去をはじめとする復旧作業が遅々として進まず、数万人の被災者が避難所や壊れた自宅、また車中泊などでの生活をよぎなくされている。4月の年度替わりを前後してさまざまな公的支援が縮小されたり、打ち切られるなか、避難所から退所を迫られ、仮設にも入れない多くの住民が身動きがとれない状態にある。被災した住居の修復にも手がつかず、水道管も壊れ水も使えない過酷な状況に放置された被災地の現状と今後の復興のあり方について、本紙はこの間の現地取材をもとに記者座談会で論議した。

 

住民を離散させる「復興」とはなにか?

 

焼け跡に放置されたままの車(8日、輪島市)

  元日の地震発生から3カ月半以上が経過し、石川県では金沢市から奥能登まで道路はなんとか通行できるようになっている。ただ、現地の人たちが「何も変わらない」というように、本当に被災地の光景は地震直後のままだ。主な道路のがれきが撤去されたり、ガタガタだった道が舗装されて少しは改善しているのだろうが、被災して倒壊した建物はそのまま放置され、あの日から時が止まったような光景だった。

 

 輪島市では、7階建てのビルが根元から基礎がえぐれて横たわったままになっていた。地震直後に消防が救助活動にあたる様子が何度も放送されていた当時の光景そのままだった。その周辺の家屋もぺしゃんこに潰れたまま。輪島朝市通りの火災現場も、焼け野原のまま放置されている。町並みだけを見ると、とても3カ月が経過したとは思えない。ただ、そんななかを子どもたちが普通にサッカーボールを手に歩いて行くので、生々しい地震の爪痕と生活感とのギャップにものすごい違和感を覚えた。

 

 発災から3カ月も経てば、がれき撤去のために大量に重機が投入され、ダンプが行き交って砂埃が舞っているような光景を想像していたが、現地で目にしたのは、他県から応援で派遣されて被災家屋の調査をする行政職員、水道工事業者、仮設住宅建設の作業員くらいだった。復旧に向けた慌ただしい空気感がまったくない。

 

 そんな状態のまま3カ月が経過し、各地に避難していた住民が被災した自宅へ戻って来ている。というより、戻らざるを得ない。もともと市の指定避難所等に避難していた人たちは、その後市外のホテルなどを利用した二次避難所へ移っていた。しかし、ホテルも避難者1人当り1万円の補助でやりくりしているなかで受け入れに限界もある。最近は避難所閉鎖の動きも出始めており、避難していた高齢者たちは次の場所への移転を迫られている。

 

 一方、仮設住宅の建設は遅れており、住民からは「夏頃までに入居できれば良い方」「抽選なので当たるかどうか、あまり期待していない」といわれる状況。現時点であまりあてにされていない。

 

 石川県の調査によると、これまでに県内外の宿泊施設に二次避難していた5275人のうち、16日時点で3043人が退所している。このうち、49%が自宅に戻り、29%がみなし仮設へ移っている。そして、仮設住宅に入れたのは全体のわずか8%にすぎない。石川県の把握した数字は、被災者がみずからの情報をネットで登録しなけば数として計上されない。実際には発災直後からの在宅避難者がこの数倍いる。

 

 そもそも仮設に入居できるのは自宅が半壊以上の住民なので、準半壊や一部損壊では入居対象にすらならない。今後、今いる避難所や二次避難所から退所を迫られる住民は増えていくだろうが、仮設にも入れず、「地元から遠く離れた『みなし仮設』(アパートなどの借り上げ住宅)に住むくらいなら、壊れた自宅に戻る方がまし」と考えて、被災した自宅に戻ってくる人が増えるだろう。

 

 半壊や一部損壊とはいえ、家の中は傾いたり、戸が閉まらなくなったり、基礎と地盤との間に隙間があるなど、安心して生活できる環境にはほど遠い状態だ。それでも自宅に戻って生活する以外に選択肢がない。傾いた床で寝起きし、「普通に生活しているだけで頭が痛くなる」という状態のまま暮らすか、自腹で家を修理する以外ない。そんな余力がある人がどれだけいるだろうか。

 

 家を修理するだけでも数百万円単位の資金が必要だが、半壊以下は生活再建支援法による支援金の支給対象ですらない。災害救助法で雀の涙ほどの支援があるだけだ。国の支援からも外され、「あとは自分でなんとかしろ」と避難所から再び放り出される。何人もの人が「いっそのこと全壊だった方がよかった」といっていた。

 

生活再建支援は雀の涙 半壊以下はゼロ円

 

自宅の基礎と地面の間に10㌢以上の亀裂が入ったが「準半壊」とされた男性(珠洲市)

  そのように自宅に戻る人が増えれば、当然家を住めるように補修しなければならない。だが現地では、家を修理する瓦工や大工、水道工事業者が不足している。現在、能登半島の一番奥にある珠洲市以外では断水はほぼ解消しているが、家の中の管が被害を受け漏水しているため水道が使えないケースが多発している。その場合は自費で業者に修理を依頼しなければならないが、電話をかけると「百数十件待ち」といった状況だ。地元業者も被災し、人材が流出しているのだ。

 

 現行制度では市の指定業者にしか水道工事を頼めないため、マンパワーが間に合っておらず、工事が遅れ、住民が家に戻れても水が使えない。水道に限らず、瓦や屋根の補修、ガス管の補修・点検など、すべての業者に共通していえることだ。

 

 水道工事の遅れについて石川県の担当課に聞くと、ようやく今指定業者以外でも工事ができるよう国、県、市町で協議をしているところだといっていた。こうなることは当初からわかっていたはずだが、国主導で先回りして復旧を後押ししていく動きが皆無なのだ。そのうえ国は3月末で飲料水供給のプッシュ型支援を打ち切ったため、現地では飲料水不足が起きている。

 

 さらに、「罹災証明書」の発行も遅れている。支援金受給や税金減免、仮設住宅への入居申請などに必要で、被災者であることを証明する書類だ。罹災証明書には、住宅被害度のランク付けが記される。被災家屋の解体を住民にかわって自治体がおこなう公費解体の対象は「半壊」以上。「準半壊」や「一部損壊」と判定されると対象外だ。

 

 公費解体できるのか、それとも自費で解体、または屋根や瓦、トイレ、風呂、上下水道、ガス等々、あらゆる修理のために何百万円も身銭を切るのか、当事者にとって住宅の被害度判定は死活問題だ。だが判定基準もあいまいだといわれており、一次調査に納得できずに二次調査を申請する人が役所に殺到しているが、その結果が出るのは数カ月後。その間、判定が出るまでは罹災証明がないので支援金等の申請もできず、仮設の入居申請もできず、ただ待つしかない。生活再建に向けた身動きがとれなくなるため、復旧を急ごうと思えば公的支援を諦めるしかない。

 

 珠洲市のある高齢男性は、最初の調査で「半壊」だったが、二次調査で「準半壊」にランクが下げられた。地盤に対して自宅の基礎が浮いた所もあり、外壁は剥離、屋根も瓦も壊れ、家の中も雨漏りする。判定そのものに納得いかないが、「もう待っているのに疲れた。準半壊では支援は少ないが、どうせ仮設にも入れないならもう自腹で家を修理して住むしかない」と諦めていた。自宅を直すための蓄えもなく、借り入れもできないのなら、故郷から離れざるを得ないのだ。

 

自宅の地盤が隆起して室内の床がドーム状に盛り上がっている。戻ってきて2日目にして「船酔いをしているようだ」と語る住民(輪島市)

  現行制度では、地震で住宅被害を受けた人へ国の支援として「被災者生活再建支援法」がある【表参照】。住宅再建のための支援金の支給額は、全壊(損害割合50%以上)で300万円だが、あくまで「最大で」だ。内訳を見ると、基礎支援金はわずか100万円で、そこから先は住宅再建の手段によって金額が変わる。家の建てかえや購入なら200万円。補修なら100万円。補修も難しくて賃貸に移るのなら50万円だ。いずれにしても微々たるものだ。

 

 国会では野党側が「最大300万円」を600万円に倍増させる案を提案しているが、それでも家を建て直すことは難しい。液状化地域では、地盤からして沈下、隆起しているのだから。

 

 全壊未満の被害については、大規模半壊で最大250万円、中規模半壊では最大100万円。そして、半壊以下の被害はゼロ円。一銭も出ない。

 

 別途、「災害救助法」による応急修理費用は出るが、トイレや風呂など必要最小限度の修理費用として、半壊(損害割合20%台)で70万6000円以内、準半壊(同10%台)では34万3000円以内で、一部損壊(同10%未満)ではゼロ円。つまり一部損壊では、どんな制度でも支援金はビタ一文出ない。瓦が落ちて雨漏りしたとか、壁にひびが入ったり隙間ができたり、傾いた家でも一部損壊とされる。基礎からやりかえるなら数百万円かかるにもかかわらずだ。

 

 今回の地震後、政府は能登6市町(珠洲、能登、輪島、穴水、志賀、七尾)限定で、高齢者や障害者がいる世帯に限定して最大300万円を上乗せ支給することを表明したが、これも「半壊以上」が対象だ。半壊未満、一部損壊の世帯には何の関係もない話だ。そして、そういう人たちが圧倒的に多い。これではコミュニティを守ることにはならない。

 

  仮設住宅の入居条件にしても、基本的に「全壊」が対象で、半壊でも解体する場合は可能というものだ。自治体が被災した建物の解体・撤去を支援する公費解体も、「半壊以上」と判定された家屋などが対象だ。この公費解体すら、熊本地震では完了までに2年以上もかかっている。悲惨な前例踏襲しかしないのなら絶望感しかない。

 

  現地ではまだ車中や家の前のビニールハウスで暮らしている人もいる。仮住まいを他市に移し、港で復旧作業があるときにだけ輪島に通っているという漁師もいた。自宅は住める状態ではないため、その期間は車中泊をしているという。自分も取材中に1日だけ車中泊をしたが、夜は何枚重ね着しても寒くて目が覚めるほどだった。全身の震えが止まらない。元日の地震発生から真冬の奥能登で燃料のないまま何カ月も車中泊をしてきた被災者の心身の疲労は想像を絶する。冷たい体育館で、3日間飲まず食わずの日があり、段ボールすらないまま2週間過ごしたという人もいた。

 

 能登半島は漁業集落が多く、漁師たちは港から離れた避難所や他市から仕事に行くことはできない。農業者や漁業者などは港や土地から離れたら生業がなりたたないので、遠く離れた場所の仮設住宅では、たとえ条件が合っても入れない。できるだけ生業の場から離れたくないのは当然だ。そのためにはトレーラー型などの移動式仮設などが必要になるが、そんな支援はまだない。車中泊が3カ月以上も続いていることには愕然とするし、このままでは漁業離れが加速すると心配されていた。

 

  復興のために前に進もうとする被災者に対し、国の支援制度は旧態依然として貧弱すぎる。そのため被災地は何年もブルーシートで覆われた家での生活を強いられたり、身寄りのない高齢者がプレハブ仮設にとり残され、孤立や疾患などによる震災関連死が地震の直接死よりも大幅に上回るという状態になる。こんなことは東日本大震災、熊本地震をはじめ、各地の豪雨土砂災害の被災地で何度もくり返されてきたことだ。

 

 半島である能登は地理的にも制約があるし、被害の度合いも甚大で、高齢化率も高く、さらに復旧のための資材や人件費だって数年前に比べたら高騰しており、杓子定規の前例踏襲主義では実際に見合った支援になるわけがない。

 

 山本太郎も国会で主張していたが、全壊だろうが一部損壊だろうが、住宅や生活再建に必要な費用の8割を国が面倒を見て、残りを自治体や義援金などで補填するくらいの対応をしなければ、悲劇がもっと悲惨な形でくり返される。コミュニティや地域産業が全体として守れなければ復興など絵に描いた餅だ。

 

  現状を見かねて集まってきたボランティアや災害NGOなどが善意で炊き出しやがれき撤去を手伝って支えているが、長期になれば限界がある。国は「ボランティアが必要だ」と号令をかける前にやるべきことがある。能登だけの話ではない。これまでの被災地もそうだし、今後どこでも起きる可能性がある地震や豪雨災害でも同じ事が起きるということだ。地震活動期に見合った「公助」のあり方が問われている。途上国ODA(政府開発援助)の大盤振る舞いの前に、まず国民を救え! という話だ。

 

国はプッシュ型支援打切り 自治体は弱体化

 

弁当の配布や炊き出しをおこなう避難所(9日、珠洲市)

 A 奥能登の被災地を回っていて、復興どころか復旧すらも手つかずの状態への焦りや国の支援が乏しいことへの憤りがあった。ただ、同時にものがいいにくいような空気が漂い始めているのではないかと感じることが何度かあった。倒壊家屋の解体や撤去にもまだ手つかずな状態のなか、ボランティアや土木作業員の泊まる場所がないことや、物資や機材の不足などについても「珠洲は場所が悪いからね…」という人もいた。

 

 確かに一番被害の大きな地域がもっともアクセスが悪い場所だったという、地理的な悪条件もある。だが地震直後から「道が寸断された」「港が隆起した」という悪条件だけが報道の節々にちりばめられ、それが国の支援が遅れた言い訳に使われてきたと感じる。

 

  国の対応は初動から遅かった。地震から数日経って国が「今から自衛隊に被災地のニーズを聞きとりさせる」といった調子だった。首相が現地入りしたのも2週間後。空からの視察なら直後でもできたはずだ。国の災害対策特別委員会が開かれたのは1カ月後だ。裏金問題で派閥解散云々と騒いでいたが、それ以上の被災地救済に対する熱量はない。

 

 そして今、道路の補修が進んで交通の便も良くなったのに、国は支援を加速させるどころか、被災地へのプッシュ型支援をやめ、自衛隊も徐々に撤退させている。被災直後は「交通事情」を理由に支援が遅れ、これから巻き返していく本気度が必要なときに「もう3カ月たったから…」といって手を引いていく。

 

 A 現地では、防犯のために他県ナンバーの警察車両だけは相変わらずあちこちにいる。夕方になると警察の人員輸送車が現地にやってきて、夜になると検問所を設置して大量の警官と警察車両を見せつけるかのようにこれでもかと並べていた。空き巣や窃盗などのならず者がいるため、地元住民の安心のためには必要なことかも知れないが、もっと被災者を安心させるために国がやれることがあるだろうと思わずにはいられなかった。

 

 C 被災自治体から具体的な要請を待たずに国が物資を緊急輸送するプッシュ型支援は、3月末で終了した。水も食料も電気も途絶えた被災地では最後の生命線だ。プッシュ型支援打ち切りの理由について石川県の馳知事は「地元商店などの営業が次第に再開しており、物資支援と商流再開を両立させることが重要」などといっているが、これが現場の実際とかけ離れている。

 

 被災前から珠洲市では53%、輪島市で49%が65歳以上の高齢者だ。まだ水道も使えず、飲み水の確保もままならず、これからは崩壊したコミュニティの住民に対して県や市町が物資調達をおこなうことになるが、各自治体からの応援職員も徐々に減り、必要とされる場所に物資が届けられなくなることは目に見えている。要するに被災者切り捨てだ。

 

 実際、輪島市は応援職員の減少等を理由に2月末で自宅避難者への物資配達をやめ、住民は自分で避難所や公共施設までとりに行かなければならない。自宅への帰還者が増えるタイミングで支援が縮小されており、このままでは分散した高齢者たちの孤立、災害関連死に繋がる可能性が高い。そうなることがわかっていて打ち切っているというほかない。

 

台湾地震とも雲泥の差 災害支援体制に違い

 

台湾地震直後、簡易ベッドが備えプライバシーに配慮したテントが設置された花蓮市内の避難所(4月3日、台湾)

  同じように4月に大規模な地震に見舞われた台湾の災害対応と比べても雲泥の差がある。能登被災地でも、台湾地震での政府やボランティアの対応について話題になった。「台湾では被災からわずか2日後には傾いたビルの解体作業に入っていた。能登では3カ月経っても見渡す限りの被災家屋がまったく手つかずのままだ。この違いは何なのか。正直台湾がうらやましい」とある住民は話していた。

 

 B 4月3日にマグニチュード7・2の地震が起きた台湾では、地震発生後わずか2、3時間で避難所が設営されたという。被害が大きかった花蓮市内の避難所では、冷房完備、簡易ベッドが備えられたプライバシーに配慮したテントの設置、女性や特別支援者専用の寝室も設置された。飲食料も充実し、Wi-Fiや充電、電話サービス、子どもが遊ぶスペースなども用意されたという。

 

 行政が日頃からボランティア団体と連携をとり、被災直後もすぐに連携して必要な物資の情報交換等をおこない、4時間後には設備がほぼ整っていたという。台湾では、こうしたボランティア団体を支援専門家と位置づけ、行政へのアドバイザー的役割を担っているそうだ。要するにNGOやボランティアを国が保護し、準公務員的扱いをしているから可能なのだ。

 

 かたや能登では発災後2週間も段ボールすらなかった避難所もあった。ただでさえコストカットで人員縮小し、被災者でもある自治体職員によるサポートには限界があることは最初から目に見えており、NGOやNPOなど各地で実績を積んできた災害ボランティアを国が支援し、連携することの必要性を突きつけている。自治体だけでは明らかに実情を把握し切れていない。

 

 A 珠洲市でボランティアに参加した男性は「現場でリーダーシップを発揮して人を動かす部署が必要」といっていた。今、被災地でおもにボランティアの受入や人員配置をおこなっているのは地元の社会福祉協議会だ。だが、小さな自治体の、そのまた小さな社協という組織には重荷だという声も多い。

 

住民不在の創造的復興 東北や熊本の教訓

 

 C そのなかで動いているのが、居住地域の集約化だ。財務省は9日、能登の被災地復興をめぐり「維持管理コストを念頭に置き、集約的なまちづくりを」と提言を出した。コスト削減ありきで、復興したいなら集約化を進めろという被災地への提言だ。言い換えれば、「分散化した非効率な田舎を復旧させる意味はないから、住む場所をまとめろ」ということだ。地盤の隆起によって使い物にならなくなった奥能登の漁港復旧も国が予算を出ししぶっているため、県漁協側から各地の漁港を輪島1カ所に集約させる案が浮上している。

 

 地震という自然災害に見舞われ、家も生業も失い、明日の生活もわからない状態で過ごしている住民たちの混乱、疲弊の足下をみて、またぞろ「創造的復興」という名のショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)を押しつけようとしているようだ。

 

 住民たちが頑なに被災した地元から離れずに留まっている理由の一つには、土地から離れ、地域コミュニティが崩れてしまったら、復興主体である住民不在のまま復興計画が進行してしまうことへの懸念がある。そんなことが各地でおこなわれてきたからだ。

 

  東日本大震災の被災地でも同じだった。津波に浸かった土地を居住制限区域にして住めなくし、国は強引に集団移転を進めようとした。だが、結局集団移転どころか多くの住民が地元から離れ、そこから何年もかけて巨大な防潮堤や高台などを整備する方針が、自治体や住民の意向とはかけ離れたところで進められた。

 

 東日本大震災の場合は、「コスト削減」どころか逆に「ゼネコンの復興ではないのか」といわれるほど誰も望んでいない巨大公共事業が持ち込まれ、地元住民が嫌気をさして出て行ったという地域が多々ある。そして13年が経過してできあがった巨大防潮堤に囲まれた土地には誰も住んでいないという本末転倒だ。

 

 岩手県陸前高田市の例はその最たるものだが、街全体を平均10㍍かさ上げする工事が10年間続き、結局今になって完成したかさ上げ地の民有地利用率は「今後利用予定」も含めわずか31%だ。今も広大な空き地が広がっている。

 

 A 能登では、地盤隆起によって港が使えず漁再開のメドが立たない輪島の漁師が「このままでは東北沿岸部の二の舞になる」と危機感を募らせていた。このまま能登の被災地が放置されたら、時間の経過とともに若者が流出して高齢化が進み、いつまでも漁が再開できないままの状態が続くのではないかという将来への不安だ。海底が4㍍も隆起して漁船が出せない。製氷施設や選別場などの漁港施設も破壊されて使えず、漁師たちはがれき撤去などの作業でなんとか食いつないでいる。だが隆起した海底の浚渫でさえ一向に進んでいない。相当大がかりな作業になるにもかかわらず、国に復旧させる気がないのだ。諦めるのを待っているように見える。

 

 B 条件はその被災地域によってさまざまだが、地元住民が被災直後からその地で復興のために歩みを進められない状況に置かれる点は共通している。

 

 3・11の福島原発事故後も地元住民は地元から追い出され、何年もの間仮設住宅暮らしをよぎなくされ、棄民状態が続いた。今、福島県浜通りでは、「福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)」構想が進められ、核戦争や生物化学兵器戦争を想定したような訓練場整備が現実に検討されている。「福島原発の廃炉のための研究施設」と説明されているが、実際には軍事にも転用できるAI、ロボット、ドローン研究の拠点になろうとしている。そしてここに作られるロボットテストフィールドや福島国際研究教育機構(F-REI)には、福島復興予算がつぎ込まれている。住民を離散させ、復興主体から排除したのは、土地収奪のための意図的な棄民政策だったということだ。

 

 C 2016年の熊本地震に見舞われた熊本県内では、被災から3年後に取材に行ったときも、まだ1万6000人がプレハブ仮設などでの生活をよぎなくされていた。もっとも被害が大きかった益城町では、以前から懸案だった県道の4車線化を「復興の目玉」として決定し、沿線の商店街にも建築制限がかかり、住民は立ち退きを迫られ、地震の被害を持ちこたえた店舗も移転をよぎなくされた。この計画が進むまで身動きがとれなくなり、出て行った住民も少なくない。

 

 一方、熊本県内では、半年後に実施された公費解体は申請棟数の3割程度で、約3万5000棟の公費解体が完了するまでに3年近くかかった。「自宅が全壊したのに、公費解体は1年経っても順番が決まらなかったので、結局自費解体した」という人もいたし、多くが諦めて土地を去っていった。

 

 政府やメディアが災害のたびに口にする「創造的復興」とは、裏返せば「もとの暮らしや生業は復旧しない」という意味であり、災害というショックを利用して、ゼネコンや大企業などが土地を収奪し、地元の住民が誰も望んでもいない姿に変貌していくことを過去の被災地の事例が示している。

 

  輪島市で出会った住民は「役場に何をいいに行っても融通が利かず、言い訳のように“東日本のときもそうだったから”“熊本地震のときもそうだったから”と門前払いされる」と嘆いていた。

 

 今回も岸田首相は「被災地に寄り添う」「コミュニティを守る」「できることはなんでもする」などと口先では宣言しているが、現場では貧弱な公的支援さえも打ち切られ、ふたたび棄民がくり返されようとしている。これは日本全国にとっても他人事ではない。すでに今年に入って震度5弱以上の地震は全国で23回以上起きており、地震や津波に限らず大規模災害は必ず起きる。「今日の能登は、明日の我が身」なのだ。

 

 能登には「能登はやさしや土までも」という言葉があるという。取材中も被災者であるにもかかわらず、「遠い所からお疲れ様」「ごはんはちゃんと食べてるの」とたいへんに気遣っていただいた。郷土への思いや人への気配りや優しさが人一倍溢れる地域だと感じた。住民の力や生業、コミュニティなくして復興などあり得ないし、地震災害という極限のなかで、政治がなんのために機能すべきかが問われている。棄民政治という人災で失われていいはずがない。

 

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