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東北現地取材 岩手より復興が遅れる宮城 銀ザケ輸入で価格半値

 「生業の再生」を掲げて第一次産業の早急な復活に力を注いできた岩手県と、水産業復興特区(漁業権の民間開放)や漁港集約などを打ち出し、震災を機に企業化や大手参入に傾斜した宮城県とは、同じ三陸沿岸でも復興のスピードに違いが生じてきた。岩手県から国道四五号線を下って宮城県に入ると、水産都市や沿岸の浜の様子は歴然とした違いを見せていることが一目でわかる。宮城県沿岸の生産者や被災者、加工業者に実情を聞いた。
 
 安価なチリ産市場席巻 震災から1年で

 宮城県では銀ザケ養殖が盛んで、水揚げ量は国内トップ。津波によって沖に設置していた養殖筏はほぼ壊滅し、かろうじて残っていた銀ザケも補助金の関係で昨年は現金化することが制限され、出荷できなかった。その後、各地で「銀ザケ○○プロジェクト」等等と銘打って復興補助金を得ながら事業再開に乗り出していた。
 しかし今年の春すぎから水揚げが再開されると、ブランクが空いた1年のあいだにチリ産の銀ザケが大量に国内市場に流れ込んでいる状態で、しかも三陸産には福島第1原発の放射能垂れ流しによるベクレル規制や風評被害の影響が加わって価格は低迷。震災前にキロ当たり450円前後で推移していたのが、半値の200円台前半で取引される事態となった。ひどいときは100円台の値すらついた。
 牡鹿半島で養殖にかかわっている男性は、「震災前もキロ400~450円はしないと採算がとれないのが実態だった。震災前の最低ラインもせいぜい300円台だった。それが100円台まで暴落したから、復興に身を乗り出した矢先に、お先真っ暗になったような状態だ」と悔しさをにじませた。
 銀ザケ養殖を手がけていた漁業者たちが国の水産業復興支援制度の適用を受けようとして提出した採算計画では、キロ当たりの単価を450~460円と見積もって、「3年で黒字にする」と勘定していた。ところが、このままでは収入は半分になりかねず、支援が途切れる3年後(この期間であれば赤字の九割が補助金によって補填される)からは採算割れが避けられない。浜値の低迷が被災した沿岸地域の復興を一層困難な状況におとしめることが危惧されている。
 「筏で活かし続けるわけにもいかない。水温が上がる夏場になれば死んでしまう。とにかくひきとってもらう格好で、いい値(仲買にいわれるままの値段)だ」と語られていた。
 銀ザケの価格低迷を作り出した原因は、大手商社がチリ産の安価な銀ザケを大量に輸入し、震災からの1年で市場を席巻していたことだった。昨年は例年の3割増しで輸入量が増大したが、今年に入ってからもペースが衰えることはなく、三陸沖が出荷を再開した状況のもとでも、昨年をさらに上回る過去最高水準で輸入量は増え続け、国産を駆逐する勢いを見せている。チリとのあいだで結ばれているEPA(経済連携協定)によって、関税率も極端に低いことが災いしている。
 「表面的には“がんばろう東北!”“復興!”と叫ばれて、テレビでも明るい話題にばかり目が向けられる。大企業の従業員もボランティアに来られる。しかし商社がやっている行為は被災地をつぶすことにほかならない。笑顔の裏に何が潜んでいるのか、疑い深くなってしまう」と前述の県漁協関係者は危機感を抱いていた。産地としての地位そのものが脅かされているからだ。

 未だに出荷自粛が続く 金華山以南の漁場

 牡鹿半島の先端に位置している鮎川地区では、漁港の復興が一歩一歩進み始めていた。一つの漁港を嵩上げするのに3社のゼネコンに分割発注されたことから、作業をしているあいだの漁船をどこに係留させるか、といった調整に四苦八苦していることが語られていた。製氷施設や市場の復旧などはまだまだ先で、とりあえず大型テントのような仮設市場をこしらえ、製氷施設もコンテナに電源を引っ張り応急的な対応でやりくりしている。餌や氷を管理しているのは三つのコンテナで、漁師たちが来たときに対応する漁協職員たちはRV協会から借りた古いキャンピングカーを事務所代わりにしていた。
 「まだ漁港整備の青写真もはっきりしないし、いずれ移動させられるならキャンピングカーの方が対応しやすい。ただ、譲渡されると処分に困るから、この車も借りている格好なんだ。コンテナは移動が楽じゃないので極力動かしたくないんだが…」と話されていた。
 ヒラメやアイナメなど仙台湾で獲れた幾つかの検体魚から放射性物質が検出されたことから、今は出荷を自粛している。金華山以北は大丈夫で、そこから以南で獲れるモノは出荷停止となっており、この境界線が目の前の漁場に広がっている。線引きも難しいという。「ヒラメだけにとどまらない。仮に他の魚種から放射性物質が検出されても、牡鹿=放射能というイメージが消費者に広がってしまう。そのことが恐い。4月から1キロにつき100ベクレルという厳しい基準になって、浜での測定も徹底しているが、今のところ目が飛び出すような数値のものはあがっていない。この状態がいつまで続くのかと思う」と話していた。
 別の鮎川住民の一人は数日前にアイドルグループのAKB48が浜に来て、慰問ライブをしていったときのことを話していた。日頃はほとんど人の気配がない地域に当日は800人もの人人が押し寄せ、イベントが終わると蜘蛛の子を散らすようにして退散していった。「東京などから“大きいお友だち(ファン)”が押しかけないように、告知も2日前に防災放送で周知される徹底ぶりだった。こういうイベントのときだけテレビや新聞は取材に来て、復興しているんだと明るく楽しく報道する。そのことに白白しさを感じる。もっと被災地の生生しい苦しさや真実を伝えてほしい」といった。
 女川町では、サンマの水揚げを誇る漁港周辺が活気に満ちていた。接岸する漁船は1隻につき100~一120㌧を水揚げしていく。作業している周囲にはすごい数の海猫が群がり、サンマ以外の小魚を漁師たちが選り分け、ポイッと放り投げてくれるのを奪い合っている。漁港から荷を積んだトラックが出発しても、しばらく海猫の大群がトラックの上空を追いかけるようにして、やかましい鳴き声をたててついていく。死者をたくさん出した女川の市街地は更地のままで、漁港の活気とは一転して静けさが覆っている。津波で横転したビルが三つ転がったままだった。
 石巻市と合併した雄勝町も、人っ子一人いない寂しい更地状態が続いていた。一角に復興商店街ができたものの、住民は遠く離れた仮設住宅や町外に散り散りになっていることから、商売相手は主に観光客だ。
 草が生い茂ったなかで唯一プレハブ小屋を建て、漁業に勤しんでいる70代の夫婦がいた。雨露をしのぐためにホームセンターで資材を調達し、手作りで小屋を作ったのだといった。協業方式でない個人漁師には漁具を調達するのにも補助金は出ず、零細な者ほど脇に追いやられていることを話していた。震災後、山側に流されていた漁具を少しずつ探し出し、根気強く揃えていた。石巻の水産市場に出荷するため、早朝3時には仮設住宅から車を走らせて小屋にたどり着き、魚を生け簀に移して石巻市場まで走って出荷する。再びトンボ帰りして、沖に出ていく。生きがいの漁業があったからこそ、震災後の苦しさを少しでも紛らわすことができたという。
 心配なのは、この地域が再び蘇るのかどうかだ。最近になってようやく高台に住宅を建設する(実行されるかは未定)案が行政から示されたものの、「遅すぎた。なぜもっと早く示されなかったのか…」と残念な思いがしてならない。当初は雄勝に帰りたいと望んでいた住民も多かったが、都市計画が遅れれば遅れるほど戻って生活を再建する基盤が弱まり、移り住んでいく人人が増えていること、コミュニティを再び築いていくのが難しくなることを危惧していた。
 「夢のある未来を語るのもいいけど、今を積み重ねることの方が大切なはず。一人ずつでもいい。こうやってもともと住んでいた土地に戻ってきて、その数が増えていくことによってしか地域は再建できないと思う」といった。電灯もないため、日が沈むと周囲は真っ暗で恐ろしいくらいだ。都市部から離れた僻地ほど目が向けられず、地域の再建が後回しになっている。

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