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東北現地取材 安価なイサダが国内市場を席巻 復興阻む輸入物攻勢

 被災地ではそれぞれの地域で住民同士が助けあい、結束力を強めながら復興を目指してきた。しかし2年たってみて、個人や被災地単独の力だけでは解決できない問題があまりにも多く、産業再生、地域復興、生活再建などさまざまな分野で、如何ともし難い困難さを抱えていることが浮き彫りになっている。引き続き岩手県内の沿岸を取材した。
 
 被災地を襲うTPP先取り ベクレルショックの上に

 岩手県大船渡市では、イサダ漁が始まったばかりだ。今年は、岩手県、宮城県がそれぞれ1万8000㌧の漁獲を定め、大船渡では船1艘当り1回で7・5㌧までの漁ができる。イサダは毎年この時期の水揚げの主力で、主に九州の養殖業者や釣り餌専門の業者が買っていく。7・5㌧を漁獲すると各漁船は港に戻り、若手の乗組員たちが威勢よく水揚げしていく。
 ただ、せっかく水揚げできるまでになったのに、イサダの値が安いことが関係者を悩ませていた。1年のブランクが空いたことで、その間に中国産の安価なイサダが国内市場を席巻し始め、買う業者も中国産に移りがちで、元のように取引を再開させることが難しくなっているという。さらに不景気で釣り餌も売れないことから、浜値は必然的に上がらないのだと説明していた。例年はキロ40円台を付けることもあるのに、今年はキロ20円~30円の間で低迷したままだ。
 これは宮城県の気仙沼でも共通していた。4日からイサダ漁が始まったものの、5日はキロ単価26円で取引された。気仙沼の船主も、「40円以上した時期もあるんだ。これでは安すぎる。油ばかり高くなって、1回出て190箱とるまで300㍑ぐらい使う。うちは自分以外に4人乗組員がいるから倒産してしまう」と話していた。市場の職員に聞くと、「中国産が出回りはじめてどこも在庫を抱えている。ベクレル検査もしているんだけど“東北”でひとくくりにされて距離を置かれる。20円台というのは中国産と同じぐらいだ。それでは漁師さんはやっていけない…。去年は1万5000㌧までと漁獲量を決めて始めたが、半分いかないうちに(ベクレルショックで)うち切った。明日は時化なのでみんなで対応を話しあわないといけない」と話していた。
 三陸がブランクを被った震災後の1~2年の間に、知らぬ間に輸入物が存在感を増し、気付いたら国内シェアを奪っていた。これはワカメや銀ザケにも共通する現象だ。国内トップの水揚げを誇る宮城県産の銀ザケも、三陸沿岸が瓦礫撤去で操業どころでなかった1年のあいだにチリ産が大量に市場に流れ込み、震災前にキロ当たり450円だった単価が昨年は200円台前半~100円台まで暴落した。三陸ワカメも、昨年は量が少なく高値だったものの、その間に中国産の安価なワカメが国内シェアを奪っていく形となり、今年は昨年の半値で推移。前述のイサダと同じように輸入物との低価格競争を強いられたためだ。
 商社が震災をもっけの幸いにして各種の輸入物を増大させたことが、被災地の水産業復興に大きな足かせとなっている。TPPの先取りのような格好で輸入物攻勢をくらい、被災地の第一次産業が脅かされていることが問題になっていた。
 そのうえに、福島原発事故による風評被害だけが一人歩きして低迷に輪をかけている。どの市場でも検査は徹底しているが、三陸=福島原発の放射能というレッテルで距離を置かれればどうしようもない。地域や生産者、水産業に携わる人人の底力でここまで持ってきたのに、その努力を水の泡にするような大きな問題になっている。
 大船渡の水産市場周辺では七割くらいの加工会社や関連企業が復旧に向かっているといわれている。よそに比べてテンポが速いものの、前途多難であることには変わりない。ある水産会社の経営者は、「この辺にあった業者は再開していない方が少ないぐらいだ。うちも社屋は残って修復で済んだが、まだ仮設で大変なところもある。みんながみんな明るくはない」と話していた。会社を再開させるため、グループ補助金制度を受けようと思っても書類審査が複雑で、柱となる大きな会社にくっつくような形でないと小さな零細業者はふるい落とされてしまうという。苦境に直面している小さな業者が多いのだと話していた。運輸業者は、「市場は再開したが、取引先の魚屋さんがやめてしまって荷物の取扱量は減っている」と話していた。

 住宅再建のメド立たず 大槌町では苛立ち

 水産業が勢いよく復興に向かい始めた一方で、どこでも住宅再建のメドが立たないことに住民の多くが苛立ちを感じている。津波によって6割の住居が壊滅した岩手県大槌町では、人口1万6000人の人口の約1割にあたる1400人が亡くなった。あれから2年。被害のひどかった町の中心地や鵜住居地区はいまだに更地のまま、住民の姿もなく、広広とした野原のなかを重機だけが行き交っている。家を失った2000世帯は、市街地から8㌔ほど離れた仮設住宅で暮らしていた。
 無残な姿のまま残されている大槌町役場の傍らでは、広広とした市街地に砂埃が舞う中で、ガソリンスタンドが営業していた。「あの防潮堤があるから大丈夫だろうと思って、避難しなかった人たちが亡くなった」と防潮堤を指さしながら2年前の様子を話してくれた。男性の家は先祖代代何百年にわたって大槌の街で暮らしてきた。昔から「うちの家が流されたときは街が終わりだ」といわれてきたという。明治の津波、昭和の津波でも被害に遭わなかった家を今回の津波で失った。
 防潮堤の近くは建築規制がかかっていて、すこし離れた場所では2㍍のかさ上げをすれば建てることは可能になっているという。ただ、震災で亡くなった家族の生命保険など、まとまったお金を手にして町外に移って行った住民も多い。「今、町は人口は1万2000といっているが、実質的には8000人ぐらいになってしまっているのではないか。震災前の半分だ。仮設にいる人たちが家を建てられるかどうかは、借り入れができるかどうかにかかっている。借り入れができない人は建てられない。家が建たないと固定資産税も入らないし、そうなれば大槌町が地方自治体としてやっていけない」と語っていた。
 大槌町は震災後、今ある防潮堤をかさ上げして14・5㍍の高さにすることが決まっている。「防潮堤の工事に300億~400億円もかかると聞いた。それを大槌の福利にまわしたらどんなにいいか。防潮堤を作ってもうかるのは、政治家とゼネコンだけだ」と住民たちは話題にしていた。

 再建した商店を追出し 無慈悲な「復興計画」

 被災者の生活再建と居住空間の復興が遅遅として進まないのはどの自治体でも共通している。そのなかで住民や地域の要求と切り離れた「復興まちづくり計画」が持ち上がって、余計にでも反発が強まっている。
 釜石市の中心市街地の「東部地区」では、震災後にいち早く復興に向けて動き出した商店が「復興まちづくり計画」によって立ち退きを迫られる事態が起きている。2年前、津波によってみんなが絶望感を抱いていた時期に、複数の店主らが立ち上がって国のグループ補助金制度を使い、再建を果たした直後の出来事だった。なかには2000万円以上もかけて店を建て直した商店もある。その周囲でも自宅、駐車場、店舗、事務所と複数が引っかかるところも出ている。立ち退かせた後には、2万平方㍍もの面積を独占する形でイオンタウンが進出を計画しており既に市との協議に入っている。イオンタウンのそばには市民文化会館を建設し下層階に商店、上階が住居になる建物の建設計画が練られている。
 立ち退きが迫られている店舗経営者の男性は、「震災から4ヵ月の7月には店を再開し、もう1店舗も1年後の3月にオープンさせた。商売しながら自宅を直していくのがどれだけ大変だったか。津波で流されて、そこからすこしでも早くと思いながら復興してきたところに立ち退きだ。それがどういうことなのか役所の人間はわかっていない。市長が誘致したというが、商店街を馬鹿にしている」と悔しさを口にしていた。
 また、津波で店を失った周辺の商店主からも「地元の理解は得たかのようにいうが、だいぶ計画が進んでから報告がされただけだった。わたしたちはつんぼさじきだった。イオンが来たら立ち退きを迫られた店だけでなくわれわれの商売も成り立たなくなる」と危機感を抱いていた。商店主たちにとっては、第2の津波が陸から襲来してきたのに等しい。
 「鉄鋼の街・釜石は昔から災害の街だ。津波以外に、1945年には本土で唯一、2回にわたってアメリカの軍艦から艦砲射撃を受けたこともある。5346発の艦砲が市街地に向けて撃ち込まれ、そのうち武器を作っていた製鉄所には1500発も打ち込まれた。そんな自然災害や人為的災害から立ち上がってきた街だ。震災後、人口がどんどん減っている。わたしらも自宅を再建したあとに店も建て直そうと思っていたが、状況が変わってきて再開さえ迷っている」と思いを語っていた。市と協議を重ねているが、土地の買い取り価格があまりにも安く、請け合えないとはねつけていた。
 30代の男性は、「公営住宅も弱者優先で入りにくいのと、家賃が高いことがネックになっている。釜石に住みたいと思って家を探すけど、民間の一戸建てもなく、公営住宅も借りられない。じゃあ、どうしたらいいのか。自分たちの世代も遠野など市外に出ていっている。このままだと釜石はだめになる」と語っていた。

 福島県南相馬市 水道も電気も未だ普通 大企業の震災便乗ビジネス進出

 東日本大震災から2年を迎える福島県では、福島第1原発事故によって放出された放射線量の比較的高いといわれる警戒区域、また帰還困難区域や居住制限区域などに分割再編され、国が直轄しておこなう「除染特別地域」での除染作業や瓦礫撤去が大幅に遅れている。政府による年間1㍉シーベルト基準の厳格化とマスコミによって「放射能の危険」が騒がれる一方で県全体での除染作業の進捗率は、県が作成した除染ロードマップの半分未満という現状。浜通りでは道路や鉄道などの交通網が分断されたままの地域もあり、早期の復興を目指して立ち上がる被災者にとってインフラ整備と住環境の除染の遅れが大きな足かせとなっている。
 市面積の大半が福島原発から30㌔圏内にある南相馬市は、2年前の事故直後、集団避難や自主避難などにより震災前の7万1561人だった人口が約1万人程度までに減少。しかし、1昨年9月の緊急時避難準備区域解除を受けて少しずつ人口が戻りはじめ、現在では5万人近くが帰還して生活している。
 市内では、震災前の7割近くの事業所が戻るなど、再開準備を始めている。市内の避難指示解除準備区域では、2月末までに製造業を中心に小高区で29件、原町区で2件が事業を再開した。ハローワーク相双の職員によると、今年1月期の相双地区の有効求人倍率は2・31倍と全国一高い数値となり、「南相馬市は縫製品や、精密小型部品などの事業所で全国的にも品質が高いものを製造していた。だから受注が少しずつ戻ってきて仕事も増えてきた」という。求人倍率が異常に高い背景には、放射能除染作業や介護福祉などに携わる職員の大幅な不足が関係している。建設業の求人のほとんどが除染業務で、558人の求人に対し98人しか希望者がいない。また介護福祉関連も318人の求人に対し希望者は82人。住民の帰還は進むが働き手となる若い世代の帰還が進んでいない。
 さらなる住民の帰還に必要な医療福祉施設で医師、看護師不足が深刻になっている。市立病院では、看護師が20名足らないため230あるベッドも150床しか受け入れられない。これまで中心を担っていた3つの民間病院も、1院は閉院したままで市内全体での医療体制が整わない。
 民間病院の職員は「震災後、40代~50代の看護師はほとんど全員が戻ってきてくれたが、20代~30代の子ども連れの看護師たちは事故後に避難し、移住したまま。医療の次代を担う後継者不足も懸念している」と話す。また、4病棟のうち2棟は耐震工事中だが、作業員不足で工事が進まず、竣工しても看護師が補充できなければ再開できない。毎月数億円の赤字財政にもかかわらず県の補助は2000万円程度しかない。
 「救急患者を受け入れようにもほとんどが満床状態。市民の生命を守ることが私たちの任務で医療体制を強化することは復興への道筋にもつながる。行政は現実に即した政策をとってほしい」と強く要望している。
 スーパーやコンビニエンスストアも再開を始めているが、人手不足でスーパーは閉店時間を早め、セブンイレブンは深夜の店員不足で11時で閉店するところもある。
 1万2000人が住んでいた同市小高区は、原発から20㌔圏内の「警戒区域」で立入が禁止されていたが、昨年四月から「居住制限区域」に指定され、立ち入りはできるが居住はできない。いまだに水道も電気も不通のまま放置されている。
 鹿島区にある借り上げ住宅で生活する女性は、「昨年4月に居住制限区域になってから、町の人たちは“やっと元に戻れる希望が見えてきた”と鹿島区から毎日のように自宅に戻っては津波で滅茶苦茶になった家の中を片付けていた。しかし、インフラ整備がされず掃除しようにも水がない、電気もない状態で、次第にやることがなくなってみんな戻らなくなってしまった。除染もおこなわず、インフラも整備せず行政が復興を遅らせている」と話した。
 小高区にあった小高工業高校は、原町区のスポーツセンターのサッカー場に仮校舎を建てて昨年4月から授業をしている。23年度は約580人だった生徒が24年度は約320人に減った。いつ元に戻れるかもわからない状況が続くなか、会津、いわき、郡山、福島など各市に避難した生徒たちは、保護者が避難先で再就職するのに伴って転校していった。
 同校の職員は「先生、先輩や後輩、家族などを失ってつらい環境のなかで学校生活を送る子どももいるが、生徒たちは不平一ついわず前を向いている。震災を経て心身ともに鍛えられた」と生徒の成長に期待を込めて語った。
 市北部の鹿島区には、小高区から避難している住民たちの避難所がある。そこでは23年10月から福幸商店街を開催し、小高区から避難している商業者から希望者を募って商店街を作っている。御食事処、ラーメン屋、床屋、総菜屋などが営業し、避難生活を続ける小高区町民の拠り所になっている。
 ラーメン屋を営む女性店主は「町民からも頼まれ再開することにした。従業員もみんな家を津波で失った人たち。寸胴や厨房用品や食器は、新潟県でラーメン屋をしていて辞めた人が寄付してくれた。みんなの支えでやっているが、再開したことで仕事ができ働くことができる喜びをかみしめている。このラーメン屋を必ず小高で再開させたい」と語った。
 そんななか南相馬市原町区真野地区の沿岸部の農地を使って国内最大級となる大規模太陽光発電所群を東芝が計画するなど、震災に便乗したビジネスが進出し始めている。発電出力計10万㌔㍗で事業費は約300億円を見込み、発電施設の建設、運営のため特別目的会社を設立し、市内の企業を含め国内外から出資者を募って、東芝は最大で全体の3割程度を出資する。今年度内に着工し、平成26年度の運転開始を目指している。
 エネルギービジネス、除染ビジネスなどで大手企業が労働者からピンハネして大もうけし、「復興」と称して元に戻すのではなくもうけの種にしようとしていることに市民は違和感を語っている。
 原町区の商業者の男性は「農業県の福島で生産者は立ち上がって農業を続けているが、行政は農地を放置して、市が取得して違うビジネスに変えていく。農業復興が福島の最大の課題だが、そこを潰して復興したとはいえない」と指摘していた。

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