いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり… されどおごれる者は逃げ回る

 森友疑惑を巡って公文書改ざんが明るみになり、国会での追及や答弁に注目が集まっている。官邸前では「安倍はやめろ!」「嘘をつくな!」と連日のように群衆が集まってコールし、それらの自然発生的な行動を規制するために大量の機動隊員や警察官が動員され戒厳令のような状態が敷かれるなど、物物しい雰囲気に包まれている。ただ、そうした喧噪や逃げ回っている当事者たちの緊張感にもかかわらず、多くの国民は脱力させられている。それは、これほどどうしようもない低俗な疑惑で退陣を迫られている男など、これまでに見たことがないからである。官僚がなお「それはいくら何でも、それはいくら何でも…」と屈辱に耐えながら慮っている光景は、安倍政府がぶっ壊してきたものが何であるかをくっきりと浮かび上がらせている。記者座談会で状況や性質について分析してみた。

 

最終コーナー通過したように見える私物化政治

 

 A 国会でのやりとりが注目されているが、19日に和田政宗(自民党)が太田理財局長に放った質問は、さすがに官僚たちもブチ切れていいレベルだろう。「まさかとは思いますけど、太田理財局長は民主党政権時代に野田総理の秘書官を務めていて増税派だから、アベノミクスをつぶすために、安倍政権をおとしめるために意図的に変な答弁をしているんじゃないですか?」という質問に対して、太田理財局長が「私は公務員として、お仕えした方に一生懸命お仕えすることが仕事なので、それをいわれるとさすがにいくら何でも…。そんなつもりは全くありません。それはいくら何でも、それはいくら何でも…。ご容赦ください」とたまらない表情をして答弁していた。後ろに座っていた女性官僚のブチ切れた表情が正直な感情を表わしていた。さすがに霞ヶ関全体が怒りに震えたのではないかと思う一場面だった。無能な政治家のために国会の答弁書を夜遅くまで書いてやり、それでもかばいきれないから矢面に立って露払いしてやっているのに、「さすがにいくら何でも…」だろう。

 

 すべて財務省に責任転嫁する流れのなかで、「政府全体の答弁を気にしていた」とかの筋書き以外の答弁をちょいちょいやるものだから、和田政宗からすると「おとしめるために変な答弁をしているのでは?」と釘を刺すつもりだったのかもしれない。しかし、その日も公文書のなかに「昭恵」の記述があったことについて、しれっとした顔で「総理夫人だから」と答弁して安倍晋三や界隈を困らせていた。服従しているように見えてチョロッと引っ掻いていく感じというか、ならばすべて話してしまえ! とも思うが、官僚たちもたまらないものがあるのだろう。のらりくらりと追及をかわしていく前面に立っており、太田理財局長とて褒められたものではないが、尻拭いさせられる気持ちやいかばかりかと思うものがある。

 

  政府としては佐川の証人喚問を先延ばしして、予算を自然成立させたら国会を閉じてしまおうという作戦なのだろう。嘘をつく、隠蔽する、逃げるが常套手段みたいになっている。そうやって1年以上も追いかけっこが続いている。そして、そろそろ国民世論も辛抱は限界に近づいている。この間、北朝鮮のミサイル発射に世間の目を釘付けにして話題をすり替えたりもしてきたが、いつも「それでモリカケはどうなったんだ」と振り出しに戻る。いまや頭越しで米朝会談が動き出し、今回ばかりは北朝鮮のミサイルも飛んでこないので脅威を外に求めた「国難」演出など通用しない。まさに「オマエが国難」状態が続いている。支持率も急降下で、まことに断末魔みたいな状態があらわれている。国会は自民党が3分の2を占めて安泰かもしれないが、国民との力関係ですべては動いている。統治機構への信頼がぶっ壊れるというのは、支配の側から見ても大きな代償を払わなければならないものだ。安倍政府が誤魔化しや逃亡劇をくり返す過程で進行しているのは、統治の崩壊にほかならない。

 

  官邸前も連日たいへんな数の群衆が押しかけているが、18日の新宿駅西口も相当数が詰めかけていた。近年はSNSなどで呼びかけあって、自然発生的に国会前行動や官邸前に人人が集まってくるのも特徴だ。現在の局面を見て笑ったら不謹慎で怒られるのかもしれないが、かつて60年安保闘争では、きわめて政治的な課題を巡って国会が包囲され、岸信介は退陣に追い込まれた。それと比べて60年後の今日を見て脱力させられるのは、孫である安倍晋三の場合、情けなくなるほど低俗な疑惑から逃げ回り、包囲されていることだ。世襲で政治家をやることの罪深さも感じさせている。麻生にしても、3代目のボンボンたちが国の成り立ちや統治の枠組みをぶっ壊しているではないかと巷でも持ちきりだ。

 

  憲政等等を真面目に考えたとき、確かに笑い事ではないが、官邸前をとり囲まれて「嘘つきやめろ!」とか総理大臣が群衆に叫ばれている光景を、これまで憲政に関わってきた人人のなかで誰が想像していただろうか。先進国に追いつけ追いこせで、大真面目に統治であるとか立憲政治を築いてきたはずなのに、もう建前も品位もあったものではない。それでラップ調のリズミカルなコールに鼓笛隊までが加わってくるのだから、もう「笑うな」といわれても無理があるし、同時にこれはどうしたものか…と嘆かわしい思いすらしてくる。真面目に考えるほど、すべてがふざけているような思いがしてきてならない。

 

 官邸前を突き動かしているのは怒りで、それぞれが真剣な思いで参加しているのだけど、安倍一強体制を群衆が鼻で笑っているような光景にも見える。それ相応だと思う。政治的課題の是非をめぐってというのならまだしも、不純な私物化政治でカウンターをくらっている首相という点で、まさに前代未聞だ。国会は安倍一強体制でガチガチに固まってしまい、野党の追及もぬるいなかで、思い上がった権力者に直接声を上げるしかないという思いが行動に駆り立てている。

 

憲政の建前についての無理解

 

  今更ながらみなを唖然とさせているのは、統治する側が法治主義であるとか議会制民主主義についての理解に乏しく、三権分立であるとか憲政の建前を何も知らないことだ。不勉強も甚だしい。みずからの立場について「立法府の長」といって驚かせたことがあったが、今から思うに、あれは凡ミスとかの類いではなくて、本人は大真面目にそう思い込んでいたのだろう。だから、端端で自民党と政府の垣根を見失ったり(改憲発言)する。それで維新150年にして憲政をぶっ壊しているのだから、ちょっと目も当てられない。閣議決定の内容を見ても、首を傾げたくなるようなものが山ほどある。それらを一言で「バカではないか」と表現する人もいれば、「反知性主義者ではないか」と表現する人もいる。表現方法や客観評価は人それぞれなので、どれが正しいということもないが、少なくとも勉強を全くしていないというのは間違いない事実だろう。そして統治する側の権威が失墜して、官邸前はいまやあのような状況になっている。

 

 

 D 私物化政治が最大の焦点になっているが、はっきりしていることは、日本社会はいかなる人物が総理大臣になろうとも「ボクのもの」や「ボクたちのもの」ではないということだ。みんなのものだ。従って、そのために国家機構が忖度したり、特例によって国有財産を払い下げたなど言語道断であるし、立憲主義とか憲政の建前からすると話にならないほど低俗きわまる疑惑なわけだ。しかし、潔白を証明できずに逃げ回って、しまいには官邸前で「嘘つきやめろ!」と群衆から叫ばれている。維新150年にして、ここまで統治の権威は地に墜ちた。近代国家としての歩みを否定して、私物化すなわち公共ではなく私が堪えきれない政治があらわれている。それがあまりにもあからさまで、みなが言葉を失っている。

 

  昔から、代議士や政治家に近づいてイイ事をしてやろうという輩はいた。明治維新後に財閥となった連中など、みな同じような事をして支配的地位を築いたのも事実だ。政商というのも存在した。森友や加計に限らず、いまもって独占企業やゼネコンは安倍晋三のバラマキ外交で海外のODA案件を山ほど受注したり、原発輸出で政府保証をしてもらったり、至れり尽くせりだ。被災地でもゼネコンのために創造的復興が持ち込まれ、おかげで人間の暮らしが後回しにされるなども含めて、社会の在り方が歪んでいる。その端っこで、モリカケみたいな小賢しい利権が発覚して、「大概にせいよ!」と怒りが噴き上がっている。こんな状態では日本社会がダメになるという危機感が、世論となって広がっている。

 

  まさに「今だけ、カネだけ、自分だけ」という新自由主義脳が体現されているようにも見える。それで日本社会はボクの好き勝手でどうにでもなるのかが問われている。全体としてみなが問題にしているのは、私物化の性根を糊塗するために、国会にしてもメディアにしても嘘がはびこっていることだ。終いには公文書までが改ざんされていた。まず第一に息を吐くように嘘をつく脳味噌の構造というのは、その育ちと併せて検証すべきものがある。目先の対応や利害に目を奪われて、局面をフェイクするために嘘が口をついて出てくる。しかし、都合良く衣を着せ替えても嘘は嘘であっていずれ破綻する。願望を実現するために嘘をつくことが平気であったり、都合が悪くなったら隠蔽し、誤魔化せなくなったら最後は逃亡するタイプが社会にも一定数存在している。そして誰にも相手にされなくなるというのがオオカミ少年で展開されている教訓でもある。

 

  嘘をつくことに躊躇がないというのは、宿題をしていないのに「した」といったり、幼少期にそれで切り抜けて味をしめたり、厳しく律する力が加わらなかった子どもとかにありがちだ。この再教育は一般的に困難を極めるというのが教育者のなかでは常識になっている。親の責任も重大だ。1人の人間が人間としての倫理観をどう育んでいくか、それは成長過程において具体的に問われる。教育勅語をそらんじたら育まれるというような代物ではない。森友学園は愛国小学校をつくろうとしていたが、「美しい国」とかを標榜する前に、まず嘘をやめて正正堂堂と向き合い、この小学校建設にいかなる力が働いたのか明らかにするのが先だろう。安倍昭恵についても逃げ回っていないで、無実ならば正正堂堂と潔白を証明すればよいだけの話だ。というより、既に明らかになっている点だけ見ても、「私の妻」は関与しまくっているではないかとみんなが認識している。

 

嘘がはびこる政治の土壌

 

 D 「一億総活躍」「女性活躍社会」とかの歯が浮くようなキャッチフレーズやしらじらしい言葉が踊る世の中になった。そして、先ほどの「今だけ、カネだけ、自分だけ」ではないが、社会の制度に自分を規制するのではなくて、社会を自分に規制させるという自分本位が、恥ずかし気もなく闊歩する時代になった。規制緩和をやりまくって、最終的に統治機構の大原則まで大幅に緩和してしまったような印象だ。それでいったい何が「ガバナンス(統治)」なのかだ。行政や政治が「全体の奉仕者」ではなく「特定の個人の奉仕者」であるというなら、なぜ国民は納税の義務を負わなければならないのか考えないといけない。支配の建前を壊すとは、そういうことだ。

 

 B 選挙で選ばれたわけでもない安倍昭恵が、厚かましい振る舞いをして災いの元になっている。恐らく自分を規制するとか律するという概念を持ち合わせていないのだろう。ただ、あの夫婦や界隈のお友達に限った話として片付けることもできない。徹底的に真相を解明して、罪が明らかになったときには監獄に放り込むのが筋だろうが、このような私物化政治がはびこった土壌を暴かなくては片手落ちだ。第2、第3の私物化政府が登場するというのではたまらない。

 

 A いまや利潤追求のためには世の中や国民がどうなろうが知ったことかというのが経済界でも主流で、経団連などは最たるものだ。子ども食堂などを見ても明らかなように、貧困化が著しく3食を満足に食べられない子どもがいる。そして、人口減少や少子化がひどいのに、決して社会全体を立て直すために利潤を吐き出そうとはしない。労働人口の減少は国力の衰退にもつながる大問題のはずだが、「いないなら安い移民労働を使おうよ」といって留学ビザなどの裏技を駆使した外国人労働者の導入が蔓延している。これこそ「今だけ、カネだけ、自分だけ」の代表格だ。国家100年の計など何も考えていない。安倍政府がこれらのためにせっせと奉仕して、ついでにモリカケみたいなことをしていたのが発覚して青ざめているに過ぎない。

 

  「今だけ、カネだけ、自分だけ」の支配的イデオロギーの浸透が、昨今の社会犯罪の性質にも端的にあらわれている。世のため人のためではなく、自分がもうけるために他人を出し抜くとか、自分と自分のお友達のために遠慮を知らないとか含めて共通の性質だ。社会の規範がぶっ壊れて、上から下まで相互浸透している。しかし同時に、それを許さないという世論も強いことが証明されている。国会が飾り物になっているなかにあって、下から大衆的世論によって私物化政治を追い詰める力が発揮されていることは、まだまだ社会が健全であることを示しているし、まともな力がいっきに横につながっていく力強さがある。国会の頭数だけで政治は動いていないことを教えている。

 

  いつまでも恋恋と首相ポストにしがみついて、それとの根比べみたいなことが続いている。そして、こんなことを続けている間に日本社会はアメリカに隷属した2流、3流の反知性主義国家として世界から認定され、東アジア情勢のなかからもとり残されている。それこそが国難だ。アジア諸国のなかでは、維新後のあの時代に唯一欧米列強に屈服しなかった国として羨望の眼差しを注いできた国国も多い。それが「150年経って、こんなになっちゃいました」と外務省は説明するのだろうか。

 

  いわゆる維新とか長州を=安倍にくくりつけ、ごちゃ混ぜにして批判するのがいる。それはあまりにも乱暴で恣意的ではないかと思う。安倍晋三や界隈で政治に投機する部分は嫌いになっても、山口県はどうか嫌いにならないでほしい。これらが中央政界で出世するかわりに岩国基地を大増強されたり、原発を持ち込まれたり、山口県民もたいへんなのだから。

 

 明治維新は徳川幕藩体制を打倒して近代国家の礎を築いたという点で積極的な意味を持っていると思う。しかし同時にきわめて不徹底な形に終わり、その後は新興の資本主義国として凶暴に植民地を求めてアジア侵略に乗りだし、絶対主義天皇制が国民に塗炭の苦しみを強いて、最終的には第二次大戦における敗戦に帰結した。日本資本主義の発達史を見たときに、農業を土台に原始的蓄積をやり、ひじょうに官製的な力によって資本主義化を遂げたわけだが、如何せん市場が狭隘だった。そこでアジアとりわけ中国に活路を求めたのが絶対主義天皇制の支配者どもだった。ところが中国を支配することなどできなかった。その撤退戦の過程で最後はアメリカに屈服することで戦争の幕引きをはかった経緯がある。

 

 戦後、命乞いをしてつながったその首が、戦後73年のなかで連綿と受け継がれ、3代目まできて身も蓋もないような状態になっている。いまどきは「保守」とか「右翼」といっても、アメリカに媚びへつらったようなのが恥ずかしげもなく歩き回っているのが現実だ。本物がどれだけいるのかとも思う。一方の左翼も様々で、どこまでも自惚れと幻想の世界を彷徨っている唯我独尊型であるとか、要するに自分が一番偉くて他はバカと見なしているタイプとか、見ていて辟易するようなものも混在している。こんなものには生命力はない。歴史性もあるが、考えなくてはならない点だ。社会にとってどうかが基準であって、そこに「オレが凄い」とかのよこしまな私心を挟むなといつも思う。歴史を動かす原動力は大衆であって、そこに献身的に尽くせば十分ではないか。

 

  統治の側は、三権分立とか立憲政治の建前を覚え直す前に、嘘をつかないとかお友達優先をしないとかの基本的な倫理観が土台になければ話にならない。お粗末極まりないものについては退場を勧告すべきで、もはやそれは時間の問題だ。

 

 山口県や下関では、その後に戦国時代が到来することが予想されている。いまからワクワクするものがある。「安倍派にあらずんば人にあらず」がいつまでも続かないことは、源平合戦を売りにしている以上、安倍派のみんなも『平家物語』からしっかりと学習しておくべきだ。「祇園精舎の鐘の声」が「諸行無常の響き」をともなって聞こえているのに、恋々としがみついているだけではないか。安倍派の幹部たちも困っているというか、恥ずかしそうにしているが、ちょっと面子がもたない関係だ。「あの嫁がむちゃくちゃしやがる」と文句を言っているのもいる。東京に行っても風当たりは強烈で、このまま甥っ子に地盤を引き継ぐといっても、それこそ「選挙区の私物化だろうが!」となる。みんなが見ているなかでケジメというものがいる。林派も隅っこの方でメソメソしたりほくそ笑んでいないで、堂々と出ておいでと思う。

 

下関市内に貼られている安倍晋三のポスター

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