いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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記者座談会「れいわ新選組、しっかりせい!」 命の選別騒動に思うこと

 東京都知事選の直後から、れいわ新選組界隈が揺れている。大西つねき氏の「命の選別は必要」発言に端を発した炎上騒動から、その後の総会における除籍処分決定を経て、最近になって参院選候補者だった野原善正氏が離党届けを提出する事態にまで至り、政党誕生から1年という大切な時期に、何かギシギシと音が聞こえてきそうな気配すら感じさせている。沈黙によるどんよりとした空気のなかで、多くの支持者たちは「何事だろうか?」と気を揉み、果たして今後どのような一歩を踏み出していくのかと注目の眼差しを注いでいる。こうした状態について、「長周新聞はどのように見ていますか?」との問い合わせを複数いただいたことから、この間の経過についてあるがままを整理してみて記者座談会を持ち、記者たちはそれぞれこう思っているという形式で自由に語り合ってみた。思いは千差万別であり、見解の相違があることも承知のうえで、読者の皆様と共に考えてみたい。

 

  都知事選直後に大西氏がユーチューブに配信していた動画が炎上し、「なんだか大変なことになっているぞ」というのがはじまりだった。「命の選別は必要だ」の部分だけが一人歩きして、SNS上でとくに左側とおぼしき知識人も参戦した形で「けしからん!」「ナチス顔負けだ」「麻生太郎と同列」「優生思想を許すのか」といった批判が展開されていた。正直、「いったいなにが起こってるんだ?」と驚いた。しかし一方で大西つねき氏が常々講演会や動画で話してきた内容を見てきた限りにおいて、その一部分切りとりでは判断がつかないな…という思いでなりゆきを見ていた。真意を知りたいし、どういう話の文脈でそのような言葉を発したのかを捉えない限り、批判も擁護もできないし、まずは動画をすべて見ようと思った。しかし、既に削除されていた。

 

 B 大まかに経緯をふり返ると、都知事選終盤の7月3日、大西つねき氏が自身のユーチューブチャンネルのライブ配信で発した言葉が騒動の発端だった。同氏は視聴者からの質問に答える形で「世の中のお金が利息など不労所得を得ている銀行などに集中し、ごく一部の株主のところには行くが、ほとんどの人々の手元には行かない。悲劇的なのはお金が行かないことによって活動ができない。例えば子どもの教育に充分使えない。子どもたちが学んで働いて、動けば新しい価値がどんどん生まれるのに、たかだか数字でしかないお金がないために多くの子どもたちの大事な時間が浪費されるのは大きな問題」とのべたうえで、「(コロナ対応で)子どもたちの時間を浪費している。もっと時間を有効に使って今しかできないことがいっぱいあるのにそれをやらせない。本当にそれだけの意味があるのか真剣に考えなければいけない。このまま学校教育やわれわれの生活のあり方が、これからウイルスがいくらでも出てくるなかで、死に怯えて、ある生を精一杯生きることなく、長生きすることだけにその時間を使っていくのかという哲学的な死生観の問題でもある。そこをわれわれはもう一回考えないといけない」とのべた。

 

 また「(コロナ感染で致死率の高い)高齢者は怖いのでは?」という視聴者の質問に答えて、「(高齢者にとって)リスクは常にあるし、死ぬ原因はいくらでもある」としたうえで、少子高齢化によって要介護人口が増えていくなかで「その高齢者をちょっとでも長生きさせるために、子どもたち、若者たちの時間を使うのかってことは、真剣に議論する必要がある」「命の選別をするのかといわれるが、命は選別しないとダメだ。その選択こそが政治」などとのべた。

 

 もともと大西氏は、JPモルガンやバンカース・トラスト銀行などでの為替ディーラーを経て、東北被災地や教育困難校でのボランティア活動をしてきた経験から、お金が社会や人々にとって必要なところに注がれず、借金を増やすことによって一部の富裕層に集中させている現在の金融システムの不条理や、デフレや貧困を加速させてきた「緊縮財政論」を批判し、教育や介護などの社会的ニーズがありながら国の投資が少ないために酸欠状態に陥っている分野に積極的な財政出動をおこなう必要性を説いてきた人物だ。だからこそ経済問題の専門家として、2019年7月の参院選でれいわ新選組の比例候補者となった。

 

 C 少なくとも昨年本紙でもとりあげた大西氏の持論は、現在が子どもから高齢者まで冷淡な「命の選別」に晒されている社会だからこそ、国が借金(国民にとっての資産)や政府通貨の発行による財政出動で社会的に有用な分野を成長させ、無意味な金もうけや貧困によって多くの人が命を絶つような社会を終わらせ、みんなが本当に必要だと思うことに時間と労力を注ぐことができる豊かな社会を実現しようというものだった。医療や介護の人的資源が不足しているから「命を選別」せざるを得ないというのは、現在の緊縮財政を是認する主張にも捉えられ、その点から見ても首をかしげるものがあるし、事実に基づいて整理されたものでもなかった。議論を投げかけるにしてもいささか観念的で、今向き合うべき現実からかけ離れていたのではないかと思う。そのため憶測や混乱が生まれ、批判や議論を呼ぶことは避けられないものだったと思う。

 

  たちまちSNS上では「れいわ新選組の候補者が優生思想を語った」「相模原事件の犯人と同じ危険思想」「ただちに辞職勧告か除籍が政界の常識」などと蜂の巣をつついたような騒動になり、7月7日に大西氏は党本部からの指摘を受けて自身の公式サイトで発言について謝罪・撤回し、動画を削除した。同日、山本太郎代表は、当該発言について「れいわ新選組の立党の精神と反するもので看過することはできない」とする声明を出し、大西氏を除名するだけでは根本的解決にはならないため「命の選別の問題に生命尊重の立場からとりくんでいらっしゃる方々からレクチャーを受けていただき、命について真摯に向き合うチャンスを与えたい」とした。

 

 その後も、大手紙では朝日新聞が「れいわの立候補予定者が『命の選別』発言」と報じ、ネット界隈でも「ナチス顔負けの発言」「殺人煽動を公然とおこなった」「解党的出直ししかありえない」「処分できない社会常識の欠如」「言語道断であり、公党としてケジメを付けろ」という激しい批判が主に「独立系メディア」や野党議員からあいついだ。

 

 10日に会見した山本代表は「大西氏の発言は、立党の精神である“生きてるだけで価値がある”という世の中を実現していくという理念に真っ向から反した考え方である」と断罪して党代表として謝罪し、大西氏の処分については党の意志決定機関である総会に諮り、みずから除籍を提案することを明かした。だが、各地のボランティアなどの支援者からは「大西氏の発言に問題があったとしても、一方的に優生思想と断定し、問答無用の除籍ありきで総会をおこなうのではなく、大西氏の真意と発言の経緯を公の場で明らかにし、透明性のある組織運営をすべき」などの意見も少なからずあった。すでに動画は削除されていたため発言内容の検証はできず、大西氏も謝罪と発言撤回をしている状況下でもあり、支持者からすれば、問題の性質をはっきりさせるためにも公平・公正な論議と説明を求めるのは当然のことだ。煽られた炎上騒動に即物的に反応するのではなく、冷静によく話しあえということだったと思う。

 

 15日に非公開で4時間にわたっておこなわれた臨時総会(出席者18人)では、大西氏の除籍処分案が14対2の賛成多数で採択された。総会を前後して、同党の参議院議員である木村英子氏は「自分の命を人に預けなければ生きていけない人たちにとって、恐怖をあたえる発言であり、高齢者だけではなく障害者も含めた弱者全体を傷つけた暴言」とし、同じく舩後靖彦氏は、前日に開いた当事者(障害者や難病患者)の声を聞く会で「当事者の方の声を聞いてなお、大西氏は、当事者の痛みや恐怖に対して、理解されないまま自説を変えようとしませんでした」とのべ、大西氏の態度を「おごり」として批判する声明を発した。こうした構成員による発言からも、大西氏とのメンバーの矛盾は除籍や離党が避けがたい状態にまでこじれたことがうかがえた。

 

  大西氏は翌16日に単独会見をおこない、「命の選別」という言葉が出た真意について語り、言葉の切りとりや恣意的解釈による報道で歪んだ評価が広がったことや、処分を前提としたれいわ内部での話し合いでも折り合いがつかず、謝罪撤回や離党届の提出に至った経緯についてのべ、今後は新たに自分で旗を立てて次期衆院選を目指すことを宣言した。経緯を含む詳細は、大西氏の公式サイトに全文が掲載されている。

 

 騒動後も問題がくすぶっている最大の要因は、れいわの母体である支援者が置き去りにされたことだと思う。大西氏の不用意な発言に端を発しているが、支援者に対する十分な説明がないまま処分が先行され、その過程で除籍に反対した支援者まで大西氏と同じバッシングに晒されたことが現在でも不信感として一部にくすぶっている。野原氏が組織運営のあり方に異議を唱えて離党宣言したことも支援者を心配させている。

 

 れいわが組織として擁立したメンバー間の意志疎通や信頼関係がどれだけ構築されていたのか、このようなトラブルにさいして支援者との関係を第一に考えるプロセスになっていたかについても検証し、今回のような恣意的な炎上攻撃に対しても微動だにしない確固とした支援者との関係を築くべきだと思う。

 

2019年参院選に挑んだ候補者たち

意図的に薪くべる勢力 れいわ潰しも背景

 

  れいわ新選組の屋台骨が揺らいでいるかのような光景にも見える。この揺らぎに耐えてより強靱な勢力として台頭していくのか、それとも出る杭は打たれるの如く、叩いて潰してやろうと意図する勢力もいるなかで足腰の揺らぎ、すなわち重みに耐えきれずにひねり潰されるのか、正念場のような気がしてならない。内部事情など露知らぬ身としては、静観というより客観視もしつつ、叱咤激励の思いから、しっかりしろよ! とただただ思う。既存の政治勢力におもねらない新しい政党の挑戦はまだ始まったばかりではないのか…と。

 

 恐らく昨年からの旋風を支えてきた多くの支持者も、何事だろうか? と気を揉みつつ、SNS等でなにを発信するわけでもなく見守っている人が大半ではないだろうか。少なくとも自分たちのまわりでは、「なにやってんだ?」「しっかりせい!」とみんながいっている。

 

 A 一連の経過と決定をどう見るかを巡って、現状では支持者のなかで一定の動揺が広がり、大西氏への処分や政党としての在り方について納得していない人たちのなかからは、れいわ離れも進行しているように見える。ポスターボランティアを毎週やってきた支援者のなかからも、「少し考えさせてほしい…」と言葉少なに距離を置く人が出ているのも事実だ。あるいは状況について静観し熟考しつつ、短絡的に善し悪しを判断したくないと思っている人だっている。また、批判や指摘をするべきはしつつ、尻を叩いて政党としてより強く育ってほしいと願っている人もいる。それも支持するからこその思いだろう。人の思いは千差万別である以上、それらの違いは当然生じうるし、致し方ないものではある。

 

 一方で、ここぞとばかりに“れいわ潰し”に熱を上げ、右も左もハッスルしている勢力だっているのが現実なのだ。むしろ、そっちの界隈が大喜びで炎上させている風にすら見える。そうした攻撃に対してはひるむのではなく、ファイティングポーズを崩してはならないと思う。東京都知事選はある意味、一発入れにいったなと思って見ていた。それが終わってみると「江戸の敵を長崎で討つ」ならぬ「都知事選の恨みをつねき炎上で討つ」みたいなのに火がついている。

 

 C 「命の選別は必要だ」発言については、大西氏の動画を見る限り、やはり言葉としては本人も認めている通り乱暴であったことは否めない。選別される側が抱く感情や機微についての言葉や配慮が足りず、当事者が恐怖を感じたのも事実なのだ。また、なぜここにきて大西氏が老人vs若者という問題の立て方をしたのかへの疑問点もあるし、反緊縮を訴えながら社会的リソースの問題の結論がそこなのか? と疑問にも思った。受けとり方はそれこそ人それぞれだろう。しかし、除籍後の記者会見動画も通じて、大西氏の真意については一定の説明がなされたようにも思う。

 

 従って、一部の言葉尻をとらえて同氏を優生思想論者であるとか、ナチス顔負け、麻生太郎と同列などという扱いはあまりにも極端すぎるもので、それは別感情を抱いている者が火に薪をくべているだけだろうとも思う。そんなものに与するわけにはいかない。除籍になったとはいえ、氏は氏で政治家としていいたいことを自由にのべる道を選択し、みずからの言論を張っていくというなら、誰にも束縛されずにおおいにやるべきだと思う。所属政党がどこであれ、政治家たる者は堂々と批判にも向き合って言論で勝負し、その善し悪しは最終的には有権者が判断することだ。受け入れるか否かを判断するのは、有権者の側に委ねられている。

 

 E 一方で、れいわ新選組としては総会において除籍という厳しい判断を下した。これまたいかなる真意であれ「命の選別は必要」という発言は譲れない問題であるという政党としての判断だろう。ケジメとして必要であると判断したからこそ除籍処分という重い決定を下した――。その結果について誰が何をいおうと政党としての意志なのだ。しかし同時に、見る者によっては乱暴過ぎる印象を受けた人々も少なからずいたのが現実で、炎上に慌てて自己防御のために火消しに走ったと落胆する人だっていた。「除籍まではやり過ぎだろう…」と。また、組織の意志決定がどれだけ民主的にやられているのか等々、支持者のなかには様々な疑問や思いがくすぶっているのも事実なのだ。こうした支持者の思いも含めて微妙な空気をどう受け止め、応えていくのか、建設的に次の一歩を踏み出して欲しいと思う。

 

  こう見る者もいれば、ああ見る者もいる――。まさに千差万別な状況のなかで問われる選択。今回の件については正直いって、どちらかがすべて正しく、どちらかがすべて誤っているとも思わない。あっちの味方か? こっちの味方か? という類いの問題にも見えない。また、れいわ新選組内部だけの矛盾という単純なものにも思えないし、そこには先ほどものべたように炎上狙いで意図的に薪をくべる側もいて、“れいわ新選組潰し”との激闘が始まったように思う。しかし、いずれにしても一つの政党のなかで疑問や異論が生じたならば、そのなかで喧々囂々(けんけんごうごう)ではなく、侃々諤々(かんかんがくがく)と忌憚のない意見をぶつけあい、最終的な判断として袂を分かつこともあれば、矛盾を乗りこえて手を組む等々含めて、政治である以上、厳しい決断がともなうのも当たり前だろうと思う。もっとも大切なのは、次の一歩をどう踏み出すのかだ。困難ななかからはいつくばってでも前に進んでいくしかない。願わくば、大西氏の発言をきっかけに、そのテーマが社会的である以上、より党内論議を深めたらよかったのにと思う。言葉狩りにあって潰されたような印象が拭えず、すべてが乱暴に始まり乱暴に終わっていったような感じに見えて、そこに置き去りにされた支持者の側の悶々とした思いがあるのだろうと感じる。

 

政党としての成長過程 指摘や批判にどう向き合うか

 

  ツイッターなどでさまざまな角度から批判もあれば叱咤激励も飛び交っているなかで、こうした意見にどう向き合うのかも大切ではないか。明らかにれいわ潰しを意図したものとそうでないものは当然峻別しないといけない。しかし、例え厳しい指摘や耳障りなものであっても向き合えるかどうかだと思う。政党として常に晒される公的な存在になったからには、これからも批判や指摘を受けることは当然あり得るのだから。例えば幹事長を置くべきだとか、太郎独裁みたいな状態を脱して党の意志決定の過程を透明化せよと危惧するもの、規約をしっかりとしたものにせよという意見、寄付は募るくせに支援者の意見は聞かないのかとかさまざまなものがあった。「独裁」はいい過ぎだと思うが、恐らく山本太郎の個人商店みたいな状態をみなは心配しているのだろうと思う。それが異論は許さないというような空気や、問答無用で排除するみたいなのと重なったのも事実だ。

 

  批判や意見をすることがけしからんとは思わない。おおいにいいたいことをいい、自由であれと思う。ボランティアや支持者は黙ってカネだけを出す信者とか宗教団体ではないのだから。一人一人に思いはある。しかしその議論のなかから建設的に進んでいけるかが大切だろうと思う。批判されると確かに耳障りだったり、嫌な気持ちにもなるが、図星だったら受け入れて自分を変えて進化する方が正しいと思う。固執しないで柔軟に変わっていく強さが必要だ。政治ならなおさらだ。組織的にも立て直すべきではないかという指摘については、結構正鵠を得た指摘ではないかと感じた。参院選までは個人商店的でもよかったかもしれないが、やはり今後国政政党として政権をとりに行くと訴えている以上、全ての判断や責任を代表である山本太郎一人が背負っていくというのも重荷すぎる。またそんなことは不可能でもある。今以上に組織的にも大きくなっていくことを考えたら、現時点でのキャパの限界という課題をどう打開していくのかは重要ではないか。それは大変なことだろうが、ある意味、負担も分散させながら次なる変化、組織的な進化が求められているということの証でもあると思う。むしろ、そこまで心配している支持者の本気の思いを感じる。

 

 E いいたいことを自由にいい、そのなかから正しいと思う選択をくり返して進化していく。れいわ新選組の生命線はそこにあるのではないか。まだ誕生して1年そこら。進化・成長の過程でたじろいでいる場合ではない。本人たちは街頭からいいたいことをあからさまにいって、既存政治に忖度なしで批判を加え、それこそ自由にやってきたわけだ。であれば、「異論は許さない」みたいな空気はそぐわない。その辺がちぐはぐかつ一方通行気味に進行した結果の動揺だと思う。

 

  代表である山本太郎におんぶに抱っこ状態で一馬力依存であることのデメリットも今回の一件で感じたことだ。あの街頭でフルパワーの演説によって旋風を起こしていく威力と同時に、もっと構成メンバーも実力をつけて同レベルくらいの存在になってほしいと願っている。一馬力依存であるが故に、意志決定も含めて一馬力決定のように傍からは見られ、また周囲も意見しづらくなるだろうし、結果的に山本太郎+付属物みたいに見られてしまっている。もっと構成メンバーも含めてみんなの力を発揮しながら、政党としての総合力みたいなものを押し出せれば、状況は変わってくるのではないか。「信者」などと揶揄する勢力もいるが、おんぶに抱っこ状態がそういわせる遠因でもある。そこは切磋琢磨、つまり全体の努力がいる。「政治は信じるものではない。みんなで監視しつくっていくものだ」を本当の意味で実現していく道のりがいる。

 

  その後、支持者が分断された格好で一部で批判合戦もくり広げられているが、れいわ新選組、あるいは大西つねき氏なり双方の支持者がたたかう相手は誰なのかを冷静に考える必要があるのではないか。れいわ新選組vs大西つねき、あるいは双方の支持者がぶつかるというのでは、本来たたかうべき相手を見失ってしまい、何のことだか分からなくなってしまう。矛先が別物にすりかわってしまうような気もする。みんなが生きにくい社会をつくり出している支配構造の元凶に向かって、みんなで束になって国政政党として立ち上がってきたわけで、感情はさまざまあるだろうが、ここだけは見失ってはいけない点としてはっきりさせないといけないと思う。

 

  参院選からの突貫工事というか、結構緩い形でれいわ新選組はつながってきたような印象だ。その分、大同小異というか、細かい点での見解の違いなども当然あるはずだ。創価学会のようにみんなが宗教的にまったく同じ見解であるとか、トップが独裁的な力を有して右へならえという組織ではないなら、「私はこう思う」「否、私はこう思う」という意見が自由闊達に行き交い、そのなかで問題解決に導いていけるのがベストだ。国会という言論の府で勝負するならなおさらで、多種多様な意見を言論によって自由に表現するのが政治家だ。しかし、その見解の相違が非和解的で政党として許しがたいものであったなら、今回のように最終的には決裂するというのもあり得る話だ。それは悲しいとか悔しいとかの感情の話でもないように思う。除籍、除名などの扱いはそのためにある。

 

衆院選に向けた次の一歩を

 

  いずれにしても、今回の件で立ち止まっている場合ではない。ふんどしを締め直して大暴れしたらいいのにと思う。こんな政党が日本社会に一つくらいあったっていいじゃないかと思うし、世界的にも反緊縮の第三勢力ともいうべき政党が街頭からのし上がっている。たたかう相手は経団連であったり、植民地支配をいまだに続けているアメリカ及び多国籍資本であったり、もっと巨大なはずだ。誰とたたかうために誰と手を組み、何を為すのか――。そこじゃないか? どうも矛先のずれてしまった感情的ぶつかりや騒動に釘付けにされて、みんなが疲労困憊しているような印象がする。問題点や課題はすっきりと炙り出して、次に進む必要があるのではないか。弱点があるなら、それを克服するしか術はない。少しの躓きでへこたれるべきではないし、支持者を信頼してしっかり向き合うことでしか進めないと思う。恐らく大半の者が「しっかりせい!」と思っていると思う。旗を立てた以上、掲げた政策の実現のためにたたかい続けるしかないのも現実だ。

 

  れいわ新選組が新自由主義に公然と反旗を翻して台頭するのが気に入らない者が一方で存在する。既存の政治勢力が支配の支柱として野党も含めて欺瞞してきたなかで、それらが選別され、政治勢力としての入れかわりの時期にさしかかっている。だから、今回の炎上でもムキになって薪をくべていたのは左側だったのも特徴だ。泡沫政党としての危機感から駆り立てられるのだろうと思う。そのような矛盾が現実にあり、れいわ新選組は抜き差しならない緊張感のなかに存在している。背中を見せたらやられるのだ。この炎上騒動以後はまるでサンドバッグ状態じゃないか。今は小さな存在だからメディアも放送禁止物体として無視を決め込んでいるが、そのうち醜聞を叩き始めたり、あの手この手の攻撃をすることだってある。弱点や急所をつかれるものだ。しかし、片手ではね除けていくくらいの性根や組織的体制がいる。リーダーがどんと構えて、しかしみんなの創造的で能動的な力に依拠して進むなら塊はもっと巨大にしていけると思う。それこそ、全国で火だるまを転がして大きくしていけばいいのではないか。

 

  炎上している折に、「火だるま」とかいったらドキッとするというか、傷に塩を塗るような感じがするんだが…。

 

  塩でも塗って「痛ってぇな!」くらいでいけばいいじゃん。困難にぶつかっているなら、自分たちの力で乗りこえていくしかないだろうに。れいわを潰したいと手ぐすね引いている勢力が間違いなく存在する。ある意味、その存在が炙り出された炎上騒動でもあった。潰そうとしている者がいる以上、これにひるんだり、へたりこんでフルボッコにされているような無様な姿勢は見せるべきではない。一発ジャブくらった程度で、ノックダウンするほどの致命傷か? と思う。「命の選別」発言について、除籍処分という政党としての判断を下したのだから、それを有権者や支持者がどう受け止めるのかは人それぞれだ。その際に生じる批判や意見についても正面から受け止めて、政党として成長していく以外にないではないか。後ろ向きでじっとしているのだったら、これが仲間だったら尻をひっぱたきたい気分だ。

 

  既存の政治に対して真っ向勝負を挑んできたことで、睨まれ、疎まれ、目障りな存在になっている。だから、当然にも攻撃される。それに対して後ろ向きの防御ではなく、あくまで実現したい政策のために突き進んでいく以外に選択などないと思う。修羅場や困難があるからこそ揉まれ、鍛えられて強くなる--。人間、みんなそんなもんだろうと思いつつ、れいわ新選組が次なる一歩をどう踏み出していくのか注目して見ている。なにかをすれば善し悪しは必ずや有権者によって、それこそ厳しく「選別」されるのが政治だ。そういう意味で「政治の選別は必要だ」と言いたい。

 

  実際にやるべきことは、次期衆院選において選挙区で地上戦を展開することだろう。世の中をよくするために巨大な権力と対峙しないといけないなら、立ち止まってないで次に進まないといけない。この座談会で好きなことを語り合っているが、それを気に入らないと怒る人もいれば、愛の鞭と捉える人だっているかも知れない。れいわ新選組のスタッフなりが読んで生意気だなといって激怒するのもよし。それで「ポスターを剥がして下さい」といいに来るもよし。もう人それぞれなのだから、その評価のなかに迷い込んでどうするのかと思う。分断されるのではなく団結できるすべての力とつながっていく方向に進んでほしい。それだけだ。

 

 A みんなを幸せにしたいんだ! の訴えを実際に政策として実現するまでたたかいの連続だ。始まったばかりで脚がからまってずっこけているようにも見えるが、必死に頑張る者について、上からマウントで評論したい者には評論させておけばよいと思う。しかし、必死に頑張り続ければその姿勢を必ずみんなが見ている。その信頼は簡単に崩れるものではないのだから、支持者を信頼して進んでほしいものだ。脇を固めつつ、ちょっとやそっとでは揺るがない塊となっていくなら、より強靱な政治集団として台頭していけるように思う。

 

 D 山口四区では候補者の竹村さん自身がもっともポスターを貼っているが、本人自身が汗を流し、必死になっている姿勢が受け入れられている。だからこそ、他のボランティアのみんなも「もっと貼ろうぜ」と意気が上がるようだ。「竹村、頑張ってんな!」と街のおっちゃんやおばちゃんたちも見ている。「ポスターを貼って下さい」と本人自身が足を運ぶものだから印象が強いのか、はたまたガタイがでかいから忘れられないのか、「アイツ、この前○○(安くて美味しいと評判の地元店)でクレープ買ってたぞ」とか、その他の行動も細々と街の人たちのなかで話題にされていて、正直うける。だいぶ街中でピンクのれいわポスターが目立ち始めていて、「みんな貼ってんじゃん」(うちも貼っていいよ)現象みたいなのも起こっている。ゼロから1は大変だろうが、頑張れば次の局面で2になり3になっていけるのかなという印象だ。

 

 他の選挙区がどうなっているのかは知らないが、候補者自身が汗をかいて地域コミュニティの中に入っていき、その地域に暮らしている人々と切り結んでいく努力がなければ、選挙区など街頭旋風だけでたたかえるものではない。草の根で努力し続けるのは大変かも知れないが、候補者を立てただけでは選挙にならないのだから、もっと目に見える形で支持者を広げ、束にしていくことが必要なのだろう。

 

 B 読者の方々から寄せられた「長周新聞はどのように見ていますか?」の問いに、以上のような記者たちの論議で応えられたのかはわからない。しかし、いずれにしても「れいわ新選組、しっかりせい!」とは思っている。叱咤激励したいと思う。

 

ポスター貼りをする竹村かつし

留守宅にはポスター掲示のお願いに伺った旨をメモにて伝える

ポスター担いで次なるお宅へ

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この記事へのコメント

  1. 記者の皆さんの溢れるくらいの愛を感じて感激しています! 
    わたしは、れいわ新選組の状況を静観しながら応援していくつもりです。折角、国民目線の優しい政党が出来たのだから、ちょっとやそっとのトラブルで見放すわけにはいかないのです。必ず、山本太郎総理大臣を誕生させます!

  2. 阿部正行 says:

    何人の方の座談化分からないけれど、「E」までいるのだから、5人か。素晴らしいね。大西や野原についてのコメントあちこちで散見したけれど、長周新聞編集者5人の座談ほど、丁寧できちんとしたものは、他にないようだ。

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