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『日本軍兵士 ―アジア・太平洋戦争の現実』 著・吉田裕

なぜ最後の一年に犠牲が集中したのか

 

 著者は一橋大学院社会学研究科教授(日本近現代軍事史)。戦争体験をまったく持たない戦後生まれの著者が、膨大な量の一次史料にもとづく『戦史叢書』をはじめ数多くの戦地体験を記した手記に当たり、「兵士の目線」を重視して、アジア・太平洋戦争における凄惨な戦場の実相を再構成しようと試みた。きっかけは、1990年頃から日本の一部に「日本軍はこんなに強かった!」などの戦場の実際とかけ離れた言説が広がったことで、そのとき無残な死を遂げた兵士たちの体験を風化させてはならないと思い立ったという。

 

 著者の最大の問題意識は、日本人の戦没者310万人の大部分がサイパン陥落(1944年7月)後の1年間に集中していることだ。実は政府は年次別の戦没者数を調査も公表もしていないが、唯一記録の残っている岩手県の例を敷衍すると、全戦没者の91%がこの時期に亡くなったことになる。しかも日本の場合に特殊なのは、戦闘による死者よりも戦地での病死や餓死が異常に多いことである。

 

 日中戦争以降の軍人・軍属の戦死者は約230万人だが、そのうち栄養失調による餓死者とマラリアなどに感染した病死者の合計は約140万人(全体の61%)である。たとえば支那駐屯歩兵第一連隊を見ると、1944年以降の戦病死者は全戦没者の73・5%にのぼる。徐州作戦では、極度のやせ、食欲不振、貧血、慢性下痢などを主症とする患者が多発し、ついに身体はミイラ状態になり、アメーバ赤痢やマラリアなどを併発して「ロウソクの火が消えるが如く鬼籍に入った」との記録がある。

 

戦闘でなく餓死や病死

 

 1944年3月からインパール作戦、同4月から中国の大陸打通作戦と補給を無視した無謀な作戦に兵士が大量動員されたことも見逃せない。

 

 大陸打通作戦では、兵士たちは小銃や弾薬、シャベル、食料など1人が30~40㌔もの荷物を身につけて行軍したが、「昼間の戦闘と夜行軍が続くと、極度の疲労と過激な睡眠不足に陥り、挙げ句の果ては意識が朦朧となって行軍の方向すら見失い、右や左、後ろに進む兵隊もいた」という。食料は「現地調達」すなわち略奪で、落ちぶれた夜盗のように食べ物をあさり歩いた。略奪の最大の犠牲者は中国人だった。雨中の行軍では「雨水が体中にしみわたり、泥水に靴も地下足袋もとられて、山上の尾根伝いに深夜裸足で行軍していたら精神的肉体的疲労も加わって、訓練期間が短くてこき使われることのもっとも激しい老補充兵のなかで凍死するものが続出した」と記している。

 

 インパール作戦では、戦闘に敗れて退却する過程で多くの兵隊が落伍し、餓死・病死して「白骨街道」と化した。雨期に入り激しい雨が降るなかでの徒歩の行軍である。部隊の最後尾を歩き落伍者を収容する「後尾収容班」が作られたが、実態は「落伍者に肩を貸すどころか、自決を勧告し強要する恐ろしい班だった」と元兵士が証言している。

 

 またこの時期、アメリカの潜水艦の待ち伏せ攻撃によって、大量の兵士を詰め込んだ無防備の輸送船が次次と沈没させられた。輸送船の沈没にともなう兵士の海没者は35万人をこえ、民間人の船員の死者も6万人以上、そのなかには15歳前後の少年船員も多数含まれていた。

 

 1944年7月、フィリピンに向かう輸送船の状況を元軍医がこう書いている。「まるで奴隷船の奴隷のように、定員以上の兵が輸送船の船倉に詰め込まれた。自由に甲板に出られぬ兵が、船倉の異常な温度と湿度の上昇のため熱射病となり、全身痙攣などの中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。その都度、私は水葬に立ち会い、肉親に見送られることなく、波間に沈んでいく兵を切ない悲しい思いをして見送った」。

 

 そのほか、この時期の中国戦線の状況について「補充兵はたくさん来た。その半数は第2国民兵の未教育兵、年齢も30歳以上。部隊へ着くのがやっと、ほとんど半病人のありさま。約1カ月ぐらいの間にほとんど野戦行動に堪えず落伍してしまった」という証言がある。前線に兵士を送り出す第7師団(旭川)の留守部隊の状況についても「兵隊の服装があまりにもみすぼらしく、とても軍服といえるものではありません。銃はなく、おまけにゴボウ剣(小銃に装着する銃剣)も帯革も前線にまわされ、まるで乞食同然の姿です」という記録もある。およそ戦争が続けられるような状態ではなかった。

 

 それでも戦争をやめず、そして最後の1年に犠牲が集中した。なぜか? である。

 

国体護持の為戦争継続

 

 著者は、すでに1940年の段階で中国での戦争は泥沼に陥っていたことに注目している。この頃、中国には約68万人の日本兵がいたが、抗日闘争の活発な華北を例にとると、日本軍の警備地区1平方㌔あたりわずか0・37人にすぎず、抗日闘争を抑えられるわけがない。この時期、日本兵のなかに厭戦気分が広がり、軍隊生活を嫌がったり望郷の念にかられて逃亡・離隊する兵士があいついだ。労働運動や小作争議を経験した者のなかから上官を批判する者が出、中国人民解放軍に共鳴しみずから進んで身を投じる者も少なくなかった。

 

 天皇制軍国主義はこの危機を打開するために日米開戦に進んだが、ミッドウェー敗戦(1942年6月)、ガダルカナル撤退(1943年2月)からは負け続けて、1944年2月、御前会議が「絶対国防権」と称し、これが破られたときは敗北といっていた小笠原―トラック―ニューギニアのラインが米軍に破られた。同年7月にはサイパンが陥落し東条内閣は総辞職した。それでも戦争をやめずに国民を「1億玉砕」のスローガンで駆り立て、その後の1年間で最大の犠牲を出した。

 

 その時点での日本の為政者の考えは、1945年2月に近衛文麿が天皇に上奏した意見書に見ることができる。そこで近衛は「敗戦は必至。しかし敗戦より恐るべきは、それにともなって起こるかもしれぬ共産革命である。故に降伏して共産革命を避け、国体(天皇制)を護持すべし」とのべている。これに対して天皇が「米国は皇室を抹殺するといっているようだが」と問うと、近衛は「グルー(元駐日米大使)及び米国首脳部の考えを見ると、そこまではいかないようです」とのべた(井上清『天皇の戦争責任』)。

 

 このあたりの問題についての解明が必要である。それが現在の対米従属構造の出発点にかかわっており、独立した平和な日本社会をつくるうえで不可欠だと思うからだ。

 (中公新書、228ページ、定価820円+税

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