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『菌の声を聴け タルマーリーのクレイジーで豊かな実践と提案』 渡邉格・真理子 著

 東京生まれの夫婦が、2008年に千葉県いすみ市に「タルマーリー」を開業し、天然酵母と国産小麦だけで発酵させるパン作りを始めた。その後、よりよい発酵の場所を求めて岡山県真庭市に引っ越し、天然麹菌の自家採取に成功。さらにそれまでの技術を生かして野生の菌だけで発酵させるクラフトビールづくりをめざして、鳥取県の山奥の智頭町に引っ越し、廃園になった保育園を改装してパン・ビール製造とカフェの事業をおこなっている。パンでもビールでも野生の菌だけで発酵させるという著者の挑戦は半ば無謀にも見えるが、さまざまな困難をみんなの力で乗り切った経験からは学ぶことが多い。

 

 発酵食品をつくる場合、商業的には純粋培養したイースト菌を購入して使うのが一般的だ。しかしタルマーリーでは現在、ビール酵母、レーズン酵母、全粒粉酵母、ホワイトサワー、酒種、の5種類の自家製酵母を使ってパンを焼いている。

 

 なかでも著者は、コメと麹菌を利用して醸(かも)す酒種を小麦粉に混ぜて発酵させ、パンをつくってきた。麹菌の採取方法はごくシンプルで、竹を割った皿に蒸したコメを盛り、それを数日置いて、カビが降りてくるのを待つだけだ。ただ気をつけるべきはコメの質で、無肥料無農薬で栽培した自然栽培米を使う必要がある。肥料や農薬を多投したコメを使うと、他の腐敗菌が降りてきやすくなるからだ。

 

 著者は智頭町でビール工房をつくってからは、ビール酵母(ビールの一次発酵の結果生まれる澱〈おり〉)を使ってパンをつくっている。この澱は飲用のビールの味を汚してしまうので、通常のビール工場では廃棄しているものだ。パンにビール酵母を使うことで、冷蔵庫に一週間寝かせておいても酵母が生きていて、焼く前日にホイロで発酵させてパンを焼ける、という製法も発見した。

 

 こうした試行錯誤のなかで、著者は「美味しさとは何か」を突き詰めて考えている。本来、美味しいとは曖昧な感覚だが、それがあたかも絶対的な感覚のように思わされてはいないか。つまり、大量に売れている=絶対的に美味しいと勘違いしてはいないか。大手メーカーが大量生産し、メディアが宣伝するモノに価値観が画一化され、小規模に独自のモノづくりをしている人たちが生きにくい社会ができあがっている。もっとも弱い者が当たり前に生きていける社会を実現するために、この社会に多様性を生み出したい。

 

 そして、「美味しいパン」より「食べ続けても気持ち良いパン」をつくりたい。最初の一口はものすごく美味しく感じるが、続けて食べるとちょっと味が濃く、多く食べると食後の気分がよくない--そうしたものではなく、その次の日以降の体調や気分が良い感じであってほしい。そのためにはよい原材料を使うことが基本になる。農薬や化学肥料の問題点が指摘されるなか、社会的意義のある食べ物づくりに尽くしたいという著者の意気込みが伝わる。

 

 ところで、鳥取県智頭町への引っ越しは、妻が同町の「森のようちえん」(森林の多面的機能を活用した教育をおこなっている)に子どもを入れるのを望んだことがきっかけだった。だが、そこからタルマーリー開業に至るには、その町の行政の地域活性化にかける本気度と、一家を温かく迎えた町の人たちの力が支えになったことがわかる。

 

 タルマーリーの引っ越しが智頭町役場に伝わると、早速若い3人の職員が著者のもとを訪れ、「麹菌が採取できるようなきれいな里山環境」「良質な地下水」などの条件を丁寧に聞いて去る。すでに別の町の物件に決まっていたのに…。それがうまくいかなくて著者は智頭町役場に連絡するが、すでに3人は元保育園を選定しており、その仕事ぶりに「民間企業も顔負けの的確さとスピード感」と著者を驚かせた。

 

 そして引っ越し当日、パン用オーブンなどの大型機械をトラックに積み込んで現地に到着すると、地元の若手林業家が待っており、「困ったときはお互い様」といってクレーンを慣れた手つきで操縦して機械を下ろしてくれた。彼は自伐型林業を実践する会社の経営者。智頭町は林業で栄えた町であり、林業家は自分の祖父が植えた木を伐採して生きているので、物事を長いスパンで考えられる人が多く、「だから自分たちが構想する地域内循環も理解してくれたのでは」と著者はいう。

 

 野生の菌による発酵は、自然栽培(無肥料無農薬)の農産物を使うとうまくいく。そこで「近所の農家さんにつくってもらえるなら、仕入れたい」と役場に希望を伝えると、すぐに山村再生課による自然栽培普及活動が始まり、今では数軒の農家が酒種用のコメ、ピザソース用のトマト、あんパン用の小豆やパン用のライ麦を生産している。また妻は最近、この町に暮らす若い女性たちとまちづくり団体を立ち上げ、かつて宿場町だった智頭町の空き家物件を改装してカフェ&宿泊施設にする計画を実行中だ。

 

 こうして「パンが売れれば売れるほど、地域の経済と環境がよくなる」という著者の目標は、次第に形になっていく。大都市一極集中と大量生産、大量消費型の疲弊する生活は、コロナ禍の経験をへて、地方分散型、地域経済循環型の豊かな生活にきっと変わっていくに違いない、というのが妻のまとめの言葉のようだ。     

 

 ((株)ミシマ社発行、四六判・256ページ、定価1800円+税

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