いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

ダニエル・デフォーの『ペスト』が問うもの 350年前の英国の経験綴る

 コロナ禍のなかで、カミュの『ペスト』(1947年出版)とともに、『ロビンソン・クルーソー』の著者であるダニエル・デフォーの『ペスト』(1722年出版)が注目され、新訳版などが書店に並んでいる。カミュの『ペスト』が、ナチス・ドイツとたたかった著者の第二次大戦の経験を背景にしているのと違って、デフォーの『ペスト』は1665年に実際に起こったロンドンのペスト禍を取材してまとめたものだ。ペスト禍の年、デフォーは5歳だったが、それから半世紀あまりたった1721年にフランスでペスト流行の兆しがあらわれ、イングランドの人々のなかでも不安が高まるなか、ジャーナリストの草分け的存在だったデフォーが、前回の流行時の実情を克明に取材し、同様のパンデミックが襲ったときにどうしたらいいかを伝える目的で執筆したといわれる。

 

 ペストは「黒死病」の異名を持ち、14世紀半ばのパンデミックではヨーロッパの人口の3分の1が失われた。患者の多くはリンパ節が腫れ上がり、嘔吐、頭痛、高熱の果てに半数以上が死亡した。

 

疫病下の人々の姿描写

 

 17世紀のイギリスでは、ペストによる最初の死者が出たのは1664年の12月で、オランダからの輸入品に病毒がついていて、それを真っ先に開いた者が感染したという。しかし翌1665年2月まで、ペストによる犠牲者が『死亡週報』にまったく記載されていない。だが4月に入って徐々に増え始め、7~8月に急増し、ペスト禍が頂点になった9月には週に1万人から1万2000人が死亡した。結局この1年間で、当時人口50万人のロンドンで10万人以上が犠牲になった。感染拡大はシティの外側の特別行政区で西から東へと広がり、やがて商業の中心地シティの中へ、またイングランド全土へと広がった。

 

 当時のイギリスは、ピューリタン革命の共和制が倒れた王政復古時代だったが、宮廷や上流階級は早々とロンドンを逃げ出し、残されたのは下級役人と、解雇された奉公人や衣食住関係の商売で生計を立てている貧乏人だった。デフォーは、路上で倒れて急死した人や、もだえ苦しみ窓を開けて不気味な叫び声を上げる人について書いている。また、いくつもの死体が野ざらしのままになっている様子や死体運搬の荷馬車が走り回る様子、感染を苦にしてテムズ川に身投げする人が急増する様子を書いている。娘が感染したことを発見して気が狂ってしまった貴婦人のことや、家族にうつしてはいけないとみずから屋根裏部屋にこもり、一人で死んでいった経営者のことも書いている。

 

 この時期、易者、魔術師、占星術師などのいかがわしい運勢占いが大流行した。客が心配顔で「疫病が大流行するでしょうか」と尋ねると、えせ占い師は決まって「はい」と答える。そうしておけばいつまでも商売を続けられるからだ。さらに街の門柱や街角には、医者やペテン師の「効果てきめん予防丸薬」「悪疫退治の万能薬」「万が一の感染時にも、これさえ飲めば大丈夫」などの貼り紙があふれた。いずれも、予防どころか健康を害するものだったという。

 

 この小説の特徴は、どんな政策が有効でどんな政策が無駄だったかを検証した後世への提言が、いたるところに見られることだ。

 

後世への提言ちりばめ

 

 たとえば市当局は7月、ペストに対応するための新しい法律を決めた。その重要項目の一つは、感染者の家屋を封鎖し、監視人を置いて逃げ出す者に罰則を科したことだった。しかしこの政策は失敗した。この家屋封鎖は多いときにはロンドンで1万世帯をこえたが、そのことで感染を家族に広げてしまい一家全滅となったし、また封鎖を嫌がって多くの人が逃げ出し、それが感染を広げたからだ。

 

 デフォーは、家屋封鎖などすべきでなく、やるべきは1000人ぐらい収容できる疾病療養所を何カ所もつくって、そこに患者を隔離すべきだったとのべている。これだけの広さと規模を持つ大都市なのに、恐ろしい疫病流行への備えがまったく欠けていた、と。

 

 また、各種製造業の職人や奉公人、水上交通や造船、貿易、家の新築や修理にかかわる職人、またロンドンから脱出した富裕層の従僕や奉公人などの多くの者が解雇された。しかし、市当局は貧民の救済についてはまったく無策で(穀物を蓄えるための公共の貯蔵所もなかった)、財政力の蓄えはあったがそれを支出しようとしなかった、とデフォーは批判している。

 

 多くが教区定住権すら持たない彼らは、ペストのためではなく飢餓と欠乏で死んでいった。家屋封鎖の監視人や死体運搬人となり、感染して死んでいった者もいる。わずかに市民から集められた義援金が彼らの一部を救ったという記録が残っている。

 

 さらに、こうした奉公人とその家族も、ペストの感染拡大のなかでロンドンから逃げ出した。その数は何千世帯にものぼったという。しかし、それは遅すぎた。すでに彼らは感染しており、途中で行き倒れになったり、みずから感染を広げたからだ。デフォーは、こうした貧しい人たちが安全に移動できる移動手段や食料を市が保証すべきだったとのべている。

 

 当時の人々はそもそも「菌」という概念を知らない。人類がはじめて細菌を発見したのは10年後の1674年で、さらに200年後の1876年になって「感染症は細菌が引き起こす」ことが実証され、それを受けて北里柴三郎らがペスト菌を突き止めたのは1894年である。にもかかわらずデフォーは、この小説の中で「今回の疫病は伝染という形で蔓延した」「患者が放つ目に見えない病気のもとが、健康な人の体内に入り込み、血液によって全身にゆきわたって発症する」「一見健康そうな潜伏期の患者が感染拡大の主因である」と指摘しており、「天から与えられたもの」という宗教的な見解を批判している。当時としては最先端の科学的な知見にもとづいて、事態を理解しようとしているのである。

 

 これが書かれたのは、まだ議会制民主主義も法治国家も確立していない時代だ。それから350年以上たち、科学技術も医学も当時と比べれば大幅な進歩を遂げた。にもかかわらず、目先の経済的利益を優先させて国民の生命と健康を守る公的な役割を放棄している現在の為政者のあり方を、この小説は浮き彫りにしていると思う。 

 

興陽館 四六判 412ページ ¥1800+税

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。