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【記者座談会】教育現場の無気力こそが心配 何するにも叩かれる構造 切り裂かれた親と教師の信頼関係 受益者と子守役に分断

10年前までは運動会の定番種目だった人間ピラミッド(2014年)

 運動会の廃止・縮小について考える本紙の教育記者座談会「子どもたちを鍛えるのは悪か?」の紙面をきっかけにして、教育関係者や父母から読後の意見や感想が多数寄せられ、運動会のみならずこの20年来で様変わりした学校現場の現状や、そこで抱えるさまざまな悩み、問題が論議になっている。「国家百年の計である教育の在り方は、国民一人一人の生き方や幸せに直結するとともに、国や社会の発展の基礎を作る大変重要な問題である」(文科省)と謳うように、教育とは個々人の成長のみならず社会全体の将来とも関わった重要な問題であり、そのことを通じていかなる子どもや人間が形成されていくのかが問われる。教育を巡って、みなが何を考え、どのような思いを抱えているのか、紙面の反響をもとに、再び記者座談会で整理してみた。

 

「子どもを鍛えるのは悪か?」の反響から

 

 A 「子どもを鍛えるのは悪か?」という提起をした紙面に対して、小学校の教師、親だけでなく、中学校や高校の教師、かつて教師だった人々など幅広い層から反応が寄せられている。教師のみならず、現役の親世代のなかでも強い反応があった。教育とは何か――。つぎの新しい時代を担っていく強くたくましい子どもに育てていくために、どのような教育をしていくべきなのか議論が広がっている。教育となると、親で無関心な人などほとんどいないし、誰しも我が子がどんな人間になってほしいか――についての思いがある。その思いは千差万別ではあるけれど、違いも当然あれば共通項もあるし、そのなかから、みんなは何を考えているのか? 普遍性や特殊性が見えてくるのかもしれない。まず、紙面の反応から描いてみたらどうだろうか。

 

 B 下関市内のある小学校の管理職は、「新聞を読んで“子どもを守る”ということはどういうことなのかをもう一度大人が考えなければいけないと思った」と話していた。学校では運動会をするにしても、まずは“危機管理”が優先される。子どもにケガをさせない、熱中症で倒れたりすることがないことが絶対であり、組体操のピラミッドなどで人の上に人を乗せるなど、もう今の学校では考えられない状況があるという。

 

 子どもたちの平均的な身長は以前より高くなり体格は確かによくなっているが、如何せん運動機会の減少とも関わって体力がないため、打撲で済むようなことが骨折につながったりもする。「転け方を知らない子」もいたりする。そして幼少期から運動及び学習機会の格差とも合わさって学力、体力格差がともに広がり、前提となる基礎能力の格差が大きすぎるため、たとえば運動についても一度に同じことをさせること自体にリスクがあると話していた。鍛えるといってもことは単純ではないし、現代的な課題も当然抱えているということだ。

 

 ただ、その管理職曰く「失敗をつうじて人間は成長していくのに、失敗を許さない社会になっている。ケガをして自分で痛みを知り、失敗や挫折をして自分で起き上がる経験が、将来の子どもたちを守ることになる。“子どもを鍛えるのは悪か?”という問いかけはありがたかった」と話していた。単純に昭和のしごきを復活させればよいとかの話ではないし、現実に見合った形で子どもたちをどう鍛えて成長させていくかは考えないといけないことだ。「鍛える」についてもとらえ方は単純ではない。いまの子どもたちの現実から出発したうえでの「鍛える」でなければ意味をなさない。その通りだと思う。

 

 C 知り合いというか恩師でもある小学校の退職教師は、新聞を読んで「わたしらの頃と学校が様変わりだ。昔は子どもを鍛えようというのが第一にあった。例えば水泳でも25㍍を全員泳がせるのが至上命令だった。プールサイドからハンドマイクで“(水から)頭を上げるな、息するな、一気に泳げ”と叫んでいた。息継ぎなしのノーブレスで25㍍を泳げるよう挑戦させていた。子どもたちも応援したし、教師も必死になってやっていた。そうして泳げるようになったら、子どもの自信になる。そうした一つの自信が勉強への意欲にも繋がってぐっと成長していく。その成長が見れたとき、教師になってよかったなと思った」とふり返っていた。体育で得た自信が、徳育や知育にもつながっていくという教育者としての経験なのだと思う。

 

 それこそ以前は下関市でも全小学校が参加(地域ブロックごとに開催)する水泳記録会(今はない)というのがあって、その大会を目指して5年生、6年生の希望者は放課後にプールで何本とクロール、平泳ぎを泳がされた。いまでは「しごき」といってはばかられるのかもしれないが、とにかく何本も泳ぐ。必死に泳いでくらいついて体力もつけ、心肺能力も高め、記録会本番に泳力をぶつけるというものだった。学校対抗リレーなんかはすごく盛り上がっていた。

 

 秋には下関市内の全6年生が参加する陸上記録会もあったが、それもいまはない。100㍍走や1000㍍走、ハードル走、ソフトボール投げ、リレー、走り幅跳び、走り高跳びなどで各学校の代表として子どもたちは一種目に挑み、その記録を競うという大会だった。別に陸上を習っている子の大会ではなく、みんなが参加していた。そうしたイベントもいつの間にか姿を消した。

 

 地域から子ども会(子ども会そのものが各地で解散してなくなっている)のソフトボールチームもなくなり、単一校では9人も確保できないといって複数校でやっとこさソフトボールチームが生きながらえていたり、少子化とも合わさってスポーツを経験する場もなくなっている。そして学校でも前述したような記録会等々のイベントもなくなり、運動会もなくなり、昼休みも時短という流れだ。「鍛える」はなにも運動面に限ったことではないが、運動機会については明らかに少なくなっている。

 

 カネのかかるスポーツ少年団に入れる子は運動機会も他の子より増えるものの、そうでない子たちはゲームやユーチューブに没頭というのが定番だ。夏休みになると自宅ではクーラーを使わせてもらえないため、商業施設や図書館といった空間にゲームを持ち寄って、無料で涼みながら一日を過ごす子どもたちというのも増えている。学校のプール開放もほとんどやらなくなり、行き場がないのだ。

 

食育の現場でも 想像力育み苦手を克服

 

小学校の給食風景

 D ある小学校で「食育」にとりくむ教師がいるが、小学5、6年になっても給食を残すことを当たり前にしていた子どもたちに対して、「この野菜はどれぐらいの時間がかかって給食のおかずになったと思う?」と問いかける。そんな「問い」をくり返し、野菜を作ってくれる人や給食を調理してくれる人のことを考えさせる。どうしたら残食をゼロにできるか考えさせて、具体的に実践することで残食ゼロが当たり前になった。

 

 「子どもに気付かせれば、子どもたちは自分たちで考えて成長していく」からで、次の課題は、低学年が給食を残さず食べられるようにするために、どのように働きかければよいか、給食委員会の子どもたちが中心になって、知恵をしぼっているそうだ。「ウズラの卵を給食からなくしたら教育ではない。どうすれば喉に詰まらせないかを子どもが食べることで教えるのが教育。“嫌いだから食べないでよい”などとんでもない話で、給食ひとつを考えても、農家の人や調理員さんがいなければ食べられないこと、人間なんて自分一人では生きられないことを経験を通して学ぶのが学校だ」と力説していた。

 

 自分さえよければでは自分もよくならないし、みんなのために頑張る力、苦手なことを克服していく力をつけること「いろんなことを親はいっているが、子どもたちが大人になった時に困らないように全力で教えるのが使命」と強く語っていたのは印象的だった。運動だけでなく、食育にも通じる話だ。

 

教育者のやりがいとは 次代を担う人間育てる

 

  小学校の延長線上である中学校でも、運動会をするさいに子どもにケガをさせない「安全安心」を前提に競技を考えるように指示されるという。まあ、「ケガをさせてもよい」という前提などあり得ないのだが、それで例えば綱引きでは、手の皮がむけるから手袋をしてやるようにした。学校が生徒全員の手袋を準備したものの、本気で綱引きをしていたら手袋は外れていく。「生徒たちは途中から自分たちで手袋を外したのだから、それは子どもの判断であり、もし手をケガしても学校の責任じゃないですよね」ということになる。

 

 これが昭和の時代なら綱引きで手袋をさせること自体が一笑に付すような話なのだが、そんなことが真顔でおこなわれている。学校側からすると「子どもにケガをさせない」というのは建前で、結局はクレーム対応、防衛反応なのだ。教師もそれが滑稽でバカバカしいことだとわかっていながら、中学生の子どもたちに手袋を配る。ピラミッドが危ないといってバッシングされ、棒倒しや騎馬戦も危険といって排除され、何か起これば責任問題に発展するので、結局のところ何もしない――。こういう空気が支配的だ。

 

 運動会練習で熱中症になって生徒が搬送されればテレビでニュースになり、記者会見で詰められ……といった時代なのだ。「可哀想な子どもたち」にしてしまって、そんな子どもたちを守るという体で何もしない、させない構造――。確かに何もしなければ何も起きない。教育現場からすると、つつがなくいきたければ何もしないのがリスクヘッジになるのだろう。それって、何がおもしろいのだろうか? とは思うが、そうなっている。裏返すと、本当に現代を生きる子どもたちは可哀想だと思う。

 

  50代の男性教師は、かつて教員になったころは「プロ教師」という言葉があったという。「教師という仕事は、子どもたちが何かをやりとげさせるように仕組み、しかも自分たちでやったと思わせることだった。その過程で成長する姿が僕たちのご褒美だった。それは時間もかかるし、点数化、数値化できない時間だ。勉強がわからない子を特訓したり、やんちゃをする子にも真正面から向き合っていく――。そんな目には見えないけれど人間を育てるうえで大事な営みが教育だった。当時はさんざん遅くまで仕事をしていたし、ブラックではあったかも知れないが、時間をかけて子どもたちを成長させ、自信をつけさせることが、親との信頼関係につながっていた。ところが、子どもを残してはいけない、鍛えてはいけないとされ、個人情報保護法で親の職業を知ってはいけないといった線が引かれた。教育者としての人間的な営みが価値のないもののようにされてきたこと=やりがいが奪われた」と語っていた。

 

 教師のやりがいとは、教育以外にない。下関市内の複数の中学校の校長室には、目立つところに同じ書が額に入れて飾られている。「平凡な教師は、言って聞かせる。良い教師は、説明する。優秀な教師は、やってみせる。最高の教師は、生徒の心に火を付ける」だ。目指す教師像ということなのだろう。学校を回っていると、同じようにいろんな先生が先輩教師などから伝授された教師の役割を示す言葉として、「(子どもを)そそのかしパワー」「子どもに魔法をかける」「“子どもの脳のネジは手足についている。それをキリキリとまいてやればよいのだ”」とかが語られる。いろんな言葉をモットーに熱く教育にあたっている。

 

 そんな教師たちが口にするのは、勉強でもスポーツでも人間関係でも、壁にぶつかったりケンカをしたときに試行錯誤しながら、それを乗り越えさせたら、子どもが一気に成長していくという経験だ。成功体験のみならず、失敗したり、もがいて苦しむ経験そのものを奪ってしまったら「そのままの君」どころか退化しかない。残酷だ。次の新しい時代をつくっていける力量のある子どもを育てることとはほど遠い。喜怒哀楽をともなわず何の矛盾も経験しないというのではなく、むしろ天真爛漫にさまざまな経験をして、そのなかで感性や理性も育んでいくものなのだと――。

 

親や子は「お客様」でよいか 教育よりもリスク回避

 

  問題は、そうしたのびのびとした教育が非常にやりづらい社会状況になっているということだろう。まるで口に鉄をかまされた馬のように、たとえば「子どもたちをもっと鍛えようよ!」が大きい声では言いづらいし、過剰なまでの過保護な体制ができあがっている。そうして、モンスターペアレンツが怒鳴り込んできたら飛び上がったり、いたらぬことで精神を削られて疲れ切ったり、親&子どもと教師の関係でいうとカスタマーハラスメント(カスハラ=顧客が企業及び店に対して理不尽なクレーム・言動をすること)と似たような構造もある。

 

 いつからそうなったのだろうか? と思うが、一つには親と教師の信頼関係、子どもと教師との信頼関係が切り裂かれているという問題もあるように思う。両者は本来対立する相手ではなく、両者が信頼関係を切り結んだ時に子どもの成長も促せるはずなのだが、学校&教師と子ども&親の距離感が、子守係とお客様みたいな関係になっているのも現代的特徴ではないか。

 

 「あの先生から叱られたのだったら、うちの子が悪かったに違いない」といって、昔なら学校で叱られたら家で親からも叱られるのが自然だったが、最近は「うちの子がなにをしたというんだ!」といって怒鳴り込む親が普通にいる。時と場合によってはそれも許されてしかるべきだが、親と教師の信頼関係が乏しいためにそうなっているというケースがままある。あるいは過保護が過ぎて、子どものケンカにまで口を出す親とかも普通にいる。「夫婦喧嘩は犬も食わない」と同じように「子どものケンカに親は口を出すな」と以前なら常識のようにいわれたが、口を出すだけでなく裁判に発展する事例だってあるほどだ。まったく驚くが、地裁下関支部でもたまに見かける案件だ。

 

 教師と子ども&親が見えない距離を縮めていって信頼関係を築いたり、人間的ふれ合いのなかで築かれる両者の心の絆が希薄になり、お客様と、お客様対応をする教師という関係がつくられ、教育的な関係もだし、人と人との人間関係が崩されている。やれ体罰だ、いじめだと大騒ぎされて教育現場がバッシングの対象にされてきた過程で、教育者の指導性が奪われてしまったこととおおいに関係している。そして一方は「受益者」のような立場になってしまっている。

 

  人間関係が壊されていくという面では保育界も同じで、とくに近年は「体罰だ」といって萎縮させる動きが深刻だ。2022年に静岡県内の私立保育園で「保育士による虐待」が問題になったことがきっかけで、全国の保育現場で一斉調査がおこなわれ「不適切保育」という言葉が頻繁に使われるようになった。「カッターで子どもを脅す」などというあからさまな虐待行為は論外なのだが、とにかく子どもに命令したらいけないというので、保育士も「一歩間違えば、自分がしていることが“虐待”といわれかねない。“嫌がる子にご飯を食べさせた”ことが虐待行為として上がっていたが、苦手なものでも“食べようねぇ”といって食べさせることもある。“抱っこしていて子どもが反り返ったりしたら虐待って見られるのかなぁ”と保育士同士で話になった。その場面だけを切りとれば何でも虐待になってしまう」と、かなり萎縮が広がったという。

 

 保育士の虐待を防ぐためという名目で保育室にカメラを設置せよという空気があるそうだ。保育園によっては子ども同士のケンカをめぐって、どちらが先に手を出したかなどをビデオ判定するという話もあった。保育行政で使われる言葉も、これまでは「保護者」や「家庭」や「園児」だったが、最近は「利用者」という表現に変わったことに違和感を語る保育関係者もいる。学校や保育園という教育の場が、子どもを育てるために、保育士(教師)と親が協力して信頼関係を築きながら、大人も育ち合っていくという関係が断たれてしまって、親や子どもは「お客さま」で、保育園や学校はサービス提供者という構図に引きずりこまれて、教師などが「お客さまの苦情係」になって疲弊している。

 

 教師の数が絶対的に不足して問題になっているが、いまどきは教師になりたがる若者がいないのもうなずける。子どもたちを誘い、教育するという指導性、すなわちやりがいを奪われて、いったい何が教育なのかだ。

 

  小学校も保育園も変わらない。「子どもたちを鍛えるのは悪か?」を読んで、現場の教師たちが「励まされた」という感想を多く寄せていたのも特徴だった。あれもだめ、これもだめと規制はやたら多くなり、たとえば小学校でも教師が子どもと一緒にどろんこになって遊ぶというよりも、子どもがケンカしないように見張っているという。子どものケンカに親がすぐに入り、なかには「警察にいうよ」という親もいて、その子たち同士がケンカしたり衝突しないように教師が見張っているという。そんな学校のなにがおもしろいのだろうか? とも思うがそうなっている。

 

 矛盾を極端に怖がり、それこそ社会に出たら人間なんて矛盾や衝突だらけなのに、学校だけは特殊な異空間になっている。息苦しいといえば一言だが、そんな特殊空間のなかに、実は少数派なのに声だけは大きいモンペが現れただけで、ますます萎縮するとかは珍しくない。「事を荒立てたくない…」という防衛反応だけなら、「バカではないか」と思うような主張にいちいち魂を削られたりして、やってられない…となる。離職していく教師が多いのも近年の特徴のように思う。

 

かつては「竹やり訓練」 奪われた主体的な思考

 

弾道ミサイル避難訓練で体育館に整列する児童や保護者(2017年)

 A 「バカバカしいと思っていながら真顔でやる」の例として少し飛躍し過ぎるかも知れないが、戦時中に学校で「竹やり訓練」をおこなっていたことについて、戦後になって内心バカバカしいと思っていながら、「おかしい」といえなかったと体験者たちは語っていたが、現代版もこんな形の異なるバカバカしいことが「バカバカしい!」と拒否できず、むしろ自己防衛のためにやっていく構造なのだ。

 

 似たようなものとしては、たとえば北朝鮮のミサイル騒動に際しても、「命を守る行動を!」とかいって頭を抱えて机の下に潜り込む訓練などをたまにやっているが、そんなことでミサイルから防御できるわけなどないと誰もが思っている。

 

 非科学的で「バカバカしい!」と思うことを平然とやらされる。政府は緊急アラートをかき鳴らし、学校では机の下に潜る訓練だ。少し思考すれば「バカではないか」と思うものだが、やらなければ非国民であるかのごとき空気だけはある。こんなことも含めて、物言えぬ力が加わり、「いじめ」「体罰」キャンペーンとも相まって指導性が否定され、教育現場を上意下達で振り回しているのは現代的特徴だ。

 

 そうして教師や学校は何かから逃げ回るように防衛的になってしまい、主体性をもって教育のためにこれは是であり、これは非であるというような確固とした教育者としての立場が崩されているのではないかと思う。

 

  親たちのなかでは、「子どもをもっと鍛えてほしい」という要望は強いし、どちらかというと多数派だと思う。緩い運動会が不評なように、本質的には「鍛えてより強い子になってほしい」という願望の方が強いと思う。それは何度もいうように運動に限った話ではない。ライオンが子どもを谷底に突き落とすではないが、ぬるま湯で育って社会に出た日には大変な思いをするのは子どもたちだとわかっている。自身ももちろんだが、もっと他人から鍛えてほしい! という思いがある。

 

 しかし、一方で教育現場は自主規制というか防衛本能から何もしないのが普遍的になり、すれ違っている。

 

 教師が思いきって教育に当たることができるのは、親の信頼を得ることが最も大切だと思う。この信頼関係さえあれば、本来なら何ら精神を削られることもなく教育に専念できるはずだ。しかし、この関係が切り裂かれてしまっている。これは「親が悪い」とか「教師にも問題がある」とかの類いの話で堂々巡りしている場合ではない。教育という時、子ども、親、教師という三者の信頼関係がなければうまくいくものもうまくいかず、その関係構築が肝になるということだ。これを切り裂いているのはいかなる力なのかを考えないといけない。教師の指導性をはぎとっていく、教育現場に物言えぬ空気を作り出してきた構造と併せて考えないといけない問題だ。

 

 A 教育が国家百年の計とかかわって重要であるなら、なおさら現在の教育がどうなっているのか検証が必要だ。100年後の姿がかかっているというのだから。

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