いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

鍛えなければつかぬ体力 知育や徳育にも直結

 今年の運動会から組体操やピラミッドをはじめ各種競技に「危険だ」と規制が加わっていることとかかわって、本紙は記者座談会『運動会から興奮と感動奪うな』(第7891号)を父母や教師のなかに持ち込み、論議を広げてきた。そのなかで「危険といって規制ばかり加えていたらひ弱な人間が育ち、将来社会に出てから困る」という意見が多く寄せられたのと同時に、もう一つの問題として以前と比べて子どもたちの体力の低下が著しいことを指摘する意見が多くあった。ピラミッド論争については、それが危険か否か、運動会で実施するか否かという以上に、子どもの教育にとってどうかを見なければならない。このなかで浮き彫りになった体力低下をめぐる子どもの現状はどうなっているのか、なぜ以前と比べて体力が落ちているのか、どうすることがその解決、すなわち強くたくましい子どもに成長させることなのかを見てみた。
 
 子供退化させてどうするか 終いにはピラミッド撲滅叫ぶ

 山口県内の小学校の養護教諭の女性は、二十数年前は子どものケガの大半が「擦り傷」だったのが、最近は「打撲」が同じぐらいに増えていると話した。以前は校庭に出て全速力で走って転んだりして擦り傷をつくるパターンが圧倒的だったが、最近は室内遊びで衝突して打撲になって保健室に来るのだという。別の教師は「猫は柔軟性があるので高い所から飛びおりてもケガはしないが、硬い物を高い所から落とすと割れたり損傷するのと同じで、子どもの柔軟性がなく、身のこなし方、巧緻性が育っていない」と指摘していた。
 その他の小学校教師たちの話のなかでも、以前なら小学校入学時には当たり前にできていたことができなくなっていること、走ったらすぐ息切れがしてぜんそくのようになったり、靴のひもが結べない、スキップができない、まっすぐ走れない、片足で跳べない、膝を抱えてしゃがむことができず後ろにひっくり返ってしまう…等等、幼児期の運動量が少ないことを指摘する声は少なくない。現在の状態をもたらした成長過程にもおおいに目を向けなければどうしようもないのが実感だ。
 小学生の1日の歩数を調べたところ、1979年は平均2万7000歩だったのが、2007年の調査では平均1万3000歩、2012年では平均1万1300歩と、約40年前と比較すると半分以下になっているという。生活環境の変化にともなって、歩く量が圧倒的に減っていることも話題になっている。働く母親が全体の七割近くを占めるようになったなかで、小学校に上がる前の保育園への通園からして車通いが大半となり、2~3歳児でも徒歩通園してくる子との体力差が広がる。全身運動を通じて育まれるのは脚力だけではなく、体力にも影響し、転けたときに手が出るか否かといった反射神経にもつながる。こうした生活環境の変化もおおいに関係しているようだ。
 一般的には4歳から10歳ぐらいまでの間が、さまざまな神経系が発達する大事な時期といわれ、そのために幼児期から小学校の時期にいろんな遊びを経験することが重要になってくる。この成長時期に平衡感覚や運動神経、基礎体力を養っているかどうかは、年齢を重ねていくほどに歴然とした差になっていくという。以前と比較して、この差が極端なものになっていること、全体として以前より劣っていることを多くの教育関係者たちが実感している。
 中学校、高校になるとどうなっているのか。山口県内の中学校のある体育教師は、中学1年の男子生徒で、腕の力が弱いために壁倒立ができず、へナッと頭からつぶれる子がいたり、身体を支える腕の力がないために手押し車で前に進めなかったり、肩車をさせると上に乗った生徒が怖くて泣き出したり、それはもう大変なのだと実情を語っていた。自分の体重を自分で支える力は、身を守るうえで最低限必要な力だが、それがついていないのだという。
 「今回、文科省が組体操を規制したことで、組体操をしない小学校が出ている。これから倒立を経験せずに中学校に上がってくる子どもが増えるかもしれない。まだ身体の軽い小学校の時期に身体を支える感覚を身につけないと、中学校では手遅れになる。体力的に弱いということは精神的にも耐える力がないということだ。軟弱な子どもばかり育つと日本はどうなるか。今からでも鍛えないといけない」と危機感を持って語っていた。
 別の中学校教師は、体育でマット運動をさせると前転がまともにできる子が少なく、背中を思いきりぶつけたり、マットから飛び出す子までいるとのべた。後転になるとできない子がほとんどで、側転ができる子は数人だった。この中学校では昨年、生徒が休み時間に馬跳びをして遊んでいて、相手の背中に手をついたときに服の上で手を滑らせてそのまま下に落ち、歯を折る大ケガをしたことがあった。大人の側は「顔をぶつける前になぜ手が出ないのだろうか?」と疑問を持つが、転け方を知らないというか、転けそうになったときに反射的に手が出ずに顔をケガする子どもがどの学校でも増えている。
 高校教師の男性は、以前と比べて生徒の投げる力が落ちており、そのうえフォームやタイミングがおかしいのだという。中学校の教師たちのなかでも、とくに男子生徒のなかでソフトボール投げをやらせたら、いわゆる女の子投げをやる者が増えていると語られていた。スポーツ少年団の弊害なのかサッカー専門等等で野球に親しむ経験が減っていること、肘を顔の前に持ってきて手首のスナップをきかせてボールを投げるという行為に慣れておらず、ぎこちなさをともなう。また前述の高校教師曰く、走り幅跳びをやらせると、両手を大きく振り上げて空中で胸を反り、その反動を利用して着地することができる生徒がほとんどいない。全身のしなりをきかせ、タメをつくって遠くに飛距離を伸ばすというものではなく、踏み切ってまっすぐに飛んでいって着地するというものだ。「昔は大きい兄ちゃんについて山を駆け回ったり小川を飛び越えたり、鉄棒で技を競ったりして、知らず知らずのうちにタイミングをつかんでいた。そういう経験がない。社会全体が過保護になったということか」と考えていた。
 大学の体育の教員は、学生に逆立ちをさせると足を持っていても30秒も持たないという。筋肉がないため、腕立て伏せができない。このような学生が増えている。「見かけは普通の学生で決して弱い子には見えない。ところがやらせてみると全然筋力や体力がないことに驚く」と語った。深刻な体力低下が進むなかで、教師の側も何が起こるかわからないという危機感を抱かざるを得ない。「本当に弱いから“頑張れ、頑張れ”と忍耐だけいってもつぶれる。頑張る以前の基礎体力の問題だ」と話していた。
 さらに心配されているのが子どもの家庭環境による「体力格差」だ。スポーツ少年団などに所属して放課後や土日にサッカーや野球、バスケに明け暮れている子どもがいる一方で、金がかかるスポ少には入れず、家に帰ればゲーム漬けで、絶対的な運動不足からくる体力の未発達や肥満の子どももいる。しかもスポ少に通う子も、サッカーや野球の技術は飛び抜けているが、鉄棒をやらせると逆上がりができなかったり、マット運動が苦手だったりと肉体的にいびつな成長をとげている子も少なくない。ある中学校では体育で野球をさせたところ、ボールを打って3塁に走っていく中学生男子がいて教師を驚かせていた。以前いたような「スポーツ万能」の子どもが少なくなっているのも特徴だ。

 「鍛えてはいけない」 新学力観で変わる体育

 子どもは本来、身体を動かすことが大好きで、できないことをできるようになりたい、力が強く競技技術なりを向上させたいという願望はすべての子どもが持っている。ところが、生活環境や遊びの質が変化してきたこと、さらに教育の現場においても過保護なまでに努力をさせない構造のもとで、明らかに肉体的に鍛えられる機会が減っている。体力がなければ鍛えて体力をつければよいだけである。しかし、この当たり前の解決策が当たり前に実行できず、むしろ体力低下を促進するような「鍛えてはならない」の規制が加わってきたことは無視できない。
 一般的な社会環境の変化に加えて、大きな転機になったのは1980年代の中曽根臨教審を受けて、1990年以降に「個性重視」「興味・関心第一」の新学力観が導入され、小・中・高校の体育の内容が大きく変化したことだった。「鍛えてはならない」の先駆けである。これは学校現場において身体を鍛えるはずの「体育」を劇的に変化させた。
 たとえば跳び箱をするにも、それ以前は教科書に「全員が4段は跳べるようになろう」という基準や目標が定められていた。ところが新指導要領に変わった後の研修会で「苦手な子は跳び箱をさわっておけばいい」という話が真顔でされたように、鉄棒、水泳、持久走などあらゆる面で「無理強いしてはいけない」「できる範囲でいい」という方向が推奨されるようになった。
 以前は小学校1年生からマットや跳び箱などで基礎体力を身につけるようにしていたが、「自然に鍛えよう」といって“忍者ゴッコ”など遊び感覚でやるものが増えた。小1の水泳は基本である「蹴伸び」を教えず「水遊び運動」となり、通知表に記入する際も、水泳や跳び箱などは「水遊び運動」「器具を使った遊び」という表現に変わった。また以前は高学年になるに従ってマットや跳び箱でも「閉脚跳び」や「頭はね跳び」など難易度の高い技を要求してきたが、最近は「ケガの危険性があるものは避ける」傾向が強まり、体育の授業はサッカーやバスケットなどのゲームを楽しむ時間になっている。
 学校生活全般を見ても、子どもたちが大好きなドッジボールは、硬いボールは当たると痛くて危ないからといってソフトバレーボール(ふわふわボール)を使うようになったり、運動会も「裸足は危ない」といって靴をはくよう指導している。「土踏まず」は裸足で歩くことによって発達し、大地を踏みしめる力が身体の安定感につながっていくが、土踏まずが発達せず扁平足なら転びやすくなる。小学校の「鍛錬遠足」もなくなり、みなで近くの公園に行って遊ぶ「お楽しみ遠足」になっている。脚力が乏しいから鍛えるのではなく、脚力が乏しいから「行かない」というものだ。
 「危険」だということで小・中学校の水泳の授業から「飛び込み」が消え、水泳記録会のスタートは水中で背中を壁につけた状態から始まるようになった。おかげで以前の記録との比較もできなくなった。小四の体育にあったポートボールは、ゴールマンがボールをキャッチすれば点が入るルールだが、「台からフラッと落ちたら危ない」といってなくなった。ハンドベースボールはピッチャーがおらず、向かってくるボールを手で打ち返すのではなく、専用の棒にボールを設置して、止まった状態のボールを打つ方法に変わった。
 文科省は武道を必修科目にしたが、宇部市のある学校では、柔道の立ち技は「危ない」という理由で禁止し、膝をついてお互いが組み手をしたところから始め、そこから寝技に持っていく練習をするだけだという。これまで柔道は中途半端にやればケガをするので、受け身の練習を徹底的にやって臨んでいたが、「ケガをしてはいけない」といって柔道なのか何なのかすらわからない「武道」に変質させてしまっている。
 ケガをさせたらすぐに担当教師や学校の管理体制の問題に発展し、メディアに袋叩きにされる構造も強まるなかで、全般としてその防衛本能から「危険」除去意識が助長され、「子どもを守る」以上に「学校を守る」ために「危険」を排除したがる傾向も強まっている。しかし、それでは子どもたちはいつみずからの肉体を鍛えるのか? である。

 次世代どう育てるか 失敗通じて成長する子

 こうしてこの二十数年来、「頑張らなくてもいい」「できないのも個性」「そのままの君でいいんだよ」とやってきて、体育やスポーツ、あるいは遊びからあらゆる「危険」が除去されたぬるま湯で、子どもたちは本来身についているはずの筋力や体力を含めた力を伸ばすことができず、まさに「そのままの君」として大きくなる。そして腕立てができない筋力の子、顔面から転ける子などが珍しくなくなっている。進化するのではなく、成長を押しとどめ、むしろ退化させる結果につながっている。
 「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というだけでは、人間の成長過程を否定することにしかならない。痛みや失敗を通じて、肉体的にも精神的にもたくましくなっていくのが当たり前の道理で、その経験を通じて「どうしたら次から失敗しないようになるか」「乗り越えられるか」を考えて体力面でも精神面でも自己を変化させて成長する。それは精神論ではなく、肉体的には運動強度を強めて細胞を破壊し、超回復によって筋肉肥大がはかられ、タンパク質を摂取することによって大きな身体へと成長していく過程を見ても同じだ。
 体育は知育や徳育面での成長とも密接に結びついており、鉄棒やマラソンなどで苦しさを乗り越えてやりきった自信が支えとなり、そのなかで培われた集中力や忍耐力が知育や徳育の面でも、友だちと心を通わせて学校生活をよりよくやっていく力として発揮されたり、子どもたちが意欲的になっていくという経験はよくあることだ。
 子どもの成長は「そのままの君」で放置していたのでは望めない。危ないから「やらない」のでは、結局のところ何が危ないかすら認識できない。学業についても同じで、「そのままの君」つまり「バカのままの君」で放置されることほど酷なものはない。苦労し、努力することによってしか知識は身につかないのに、集中して学業に向き合うことをさせずに放置され、かけ算九九もできないまま中学校に進学するような子どもも少なくない。そして暴れたら即刻警察送りにされる冷たい現実がある。
 学校現場ではこの20年来、教師の指導性が否定されてきた。メディアによる「いじめ」や「体罰」キャンペーンを通じて腫れ物に触るような体制が強まり、教師が子どもに怯え、親に怯え、教育委員会に怯え、文科省に怯え、メディアに怯え、手足をもがれたロボットのように萎縮させられてしまっている。それは親を取り巻く環境も同じで、大きな声を出して叱っただけで児童相談所が首を突っ込んでくるような世の中である。そしてひ弱な被害者意識だけが助長され、みずからの辛抱や頑張りによって困難に打ち勝つのではなく、イジメを理由に報復自殺したり、精神的に狂暴であると同時に脆い人間も地域を問わず普遍的に日本社会のなかにあらわれている。指導性を否定する、鍛えることを否定する圧力をはね除けなければ思い切った教育ができない仕組みのなかで、子どもたちの成長にとってどうすべきなのかが問われている。
 安倍政府のもとで、教育への政治介入はさまざまな面で強まっている。教師を萎縮させ、物言わぬロボットにした先にあるのは、教育の国家統制にほかならない。ただ、その結果量産されるのは体力がなく、辛抱する力がなく何なら「ゆとり」と名付けて学力低下もひどい人間である。日本語の知識は乏しいが英語は話せる人間づくりの頓珍漢も含めて、本来ならこうしたいい加減な施策は、国家百年の計に立った通常の為政者ならできるものではない。英語圏の人人にとって使い勝手がいい人間づくりを目指している文科省路線の売国性を物語るものでもある。
 山口県では以前、「たくましい防長っ子を!」といって教育界は盛り上がっていた。たくましくない子どもではなく、ピラミッド程度で心配しなくても良い子どもに成長させることこそが求められている。それは知育、徳育にもつながっている。

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。