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劇団はぐるま座『原爆展物語』長崎・佐賀公演 「日本の魂取り戻す劇」と深い共感

【はぐるま座通信】『峠三吉・原爆展物語』長崎・佐賀県公演が、7月10日佐世保市江迎町(長崎県)で、11日には伊万里市(佐賀県)で、12日には松浦市(長崎県)でおこなわれ、3会場で約670人が観劇した。3地域はともに玄海原発から10㌔~30㌔圏内に位置し、東日本大震災と福島第1原発事故について「他人事ではない」と切実に語り合われ、玄海原発再稼動についてさまざまな動きがあるなかで、戦争体験や戦後の苦労を重ね、「独立日本をつくるために今こそ真実を語り根本変革するときだ」ととりくまれた。
 実行委員には、戦争体験者、遺児、遺族をはじめ、老人クラブ、農漁業者、商業者、婦人会、太鼓保存会、子ども会、郵便局長、公民館長、教師、PTA、高校生などが参加してとりくまれた。とりくみのなかでは、佐世保空襲の体験や戦争体験をはじめ、「戦後進駐軍が入ってきたときに江迎の忠魂碑を壊せと命令が来たが、地域の人たちが地中に埋めて守った」ことなどの誇りも語られた。
 江迎公演実行委員長の中倉利光氏(吉井町シルバークラブ会長)は、みずからの学徒動員の体験と重ね、「当時の戦争が320万人の犠牲者を出し、日本全国を破壊させる事態に直面した。厳しい惨状だった。戦後間もなく被災地広島、長崎に研修にはせ参じたが、街の中心、爆心地が一面の荒野に変化していたことを覚えている。この公演を郷土の発展のために力にしていきたい」と語った。
 佐賀県内では初の『原爆展物語』公演であった伊万里公演実行委員長の山口源次氏(90歳)は、昭和12年に海軍に志願し、数数の戦斗をくぐり抜けてきた戦争体験者。「真実を語るときがきた!」と今回の公演に並並ならぬ思いでとりくみの牽引力となった。
 山口氏は、「昭和16年12月7日午後5時、“総員甲板に集合”の命令がかかり、艦長から真珠湾突入が知らされた。中国との戦争の片がついていないのに日米開戦しても、勝つ見込みはないと思った」ことを明かし、「昭和17年、ミッドウェー海戦で日本海軍はおしまいだった。昭和19年にはレイテ海戦に参加し、負けられない作戦としてZ旗を掲げての出撃だったが、米軍の雨嵐のような攻撃を受けた。多くの弾を受けたが自分が乗っていた“時雨”だけが、辛うじてボルネオに帰還することができた。他はすべてダメだった。トラック島の大空襲では死者22名、重傷者87名というひどいものだった。目玉が飛び出して死んでいる者や、血まみれになって死んでいった戦友たちの顔が今でも浮かんでくる。船が沈み、重油のなかを泳ぐ兵隊めがけてアメリカは機銃掃射し、皆殺しにした」と体験を語った。
 そして、「東日本大震災で“トモダチ作戦”といっているが、アメリカが日本を大事にするのは、不沈空母・日本として日本を防波堤にするためだ。アメリカにだまされないために日本の精神をとり戻さなければいけない。日本の将来に大きく貢献していく救国のとりくみだ」と話し、地域の学校でも体験を語り、全身全霊をかけてとりくみの中心を担った。

 戦死した肉親に心寄せ 遺児世代も強く共鳴 

 昭和12年、2歳のときに父が広州湾で戦死した遺児の男性は、「妹が生まれたばかりだった。父がいないことで戦後は乞食みたいな生活をずっとしてきた。このとりくみは、平和を守るための活動だ」と話し、精力的に観劇を呼びかけた。
 遺児の婦人は、「父がフィリピンで米軍戦車2両に対し、身体の前後に爆弾を抱えて戦車の下に飛び込み、胴体が真っ二つになって亡くなった。その戦斗で生き残った13人のうち、隊長さんともう1人の方が戦後、家に訪ねて来た。学校から帰ると、薄暗い家の電球の下で母と大の大人が肩を震わせて泣いていた。私を見ると“○○くんにそっくりだ。お父さんを連れて帰ってあげられなくてごめん”とおっしゃった。戦後も大変な思いをしてきたが、支えあって生きてきた」と話し、公演への期待を語った。
 体験を受け継ごうと子どもを持つ親世代も各地で積極的に実行委員となり、学校への働きかけをしたり、同じ親世代のなかにも持ち込んでいった。松浦市のPTA会長は、「東日本大震災での福島原発事故、それに伴う放射能漏れによる人体の影響が取り沙汰されているが、目に見えない恐怖とのたたかいはまさに戦争に匹敵するのではないだろうか。今一度、平和とは一体なんなのか考えてもらい、このようなことが風化しないよう後世に語り継いでほしい」と公演当日の開演挨拶もおこなった。
 各地で農業者や漁業者が実行委員となってとりくみに参加したのも特徴的だった。「TPP問題と今回の原発事故問題は根は同じだ」「農業をつぶしたから国が乱れている。原発事故もアメリカのいいなりでこうなっている。今こそ戦争体験を学び、魂をとり戻さなければ」(農業者)、「海は一つ、魚の獲れない国にさせられない。国益を守る問題だ」「福島原発事故後、国民の意識は変わっている。被爆県長崎の意識を高め、玄海原発から30㌔圏内の玄海、唐津、伊万里、松浦が一つになって声をあげていかなくてはいけない」(漁業者)と語り合われ、肥育牛部会、牛部会、漁協などの生産者のなかに広がっていった。
 公演地の小・中・高校13校で舞台の内容を抜粋した紙芝居がおこなわれ、「原爆と戦争展」が小・中学校や海のふるさと館(松浦市)でおこなわれた。海のふるさと館での展示では、実行委員2名の戦争体験が小・中・高校生の参観者を前に語られた。その後、高校生が学校内で紙芝居を呼びかけて実現させ、実行委員会にも参加するなどの動きになっていった。松浦市内の中学校では、8月9日の平和集会で、中学生が紙芝居を各場面ごとに配役を決めておこなうことになっている。
 また、とりくみ終盤には『原爆展物語』沖縄公演の反響が各実行委員会で報告され、舞台を観た若い世代の真剣な感想に、ますます確信を持って若い世代への働きかけを強めようと力がこめられていった。
 当日の会場には開演3時間半前から舞台を心待ちにした人人が駆けつけ、開演が近づくにつれ、親子連れや小・中・高校生、戦争体験世代などが誘い合って参加。各実行委員会代表者の熱のこもった挨拶ののち、開演した。
 開演中は、後半になるに従って前のめりになって見入る姿が目立ち、長崎場面では舞台と同時進行でともに体験を語り合う体験世代の姿があった。エピローグでも細かな反応が目立ち、終演すると力強い拍手が鳴り響いた。
 公演終了後の感想交流会では、戦争体験と重ねて現代への思いが激しく語り合われた。
 戦地体験者の男性は、「戦後初めて『原爆展物語』によって第二次大戦の真実、戦地の真実が明らかにされた。国家・国民を救ってくれる活動だ。広島、長崎の原爆の恐ろしさ、惨めさを思うと日本をなんと思ってこんなことをしたのかと腹立たしく思う。鬼畜米英に該当することをやってのけたのだ。9・11もあれだけ情報操作する国がわからないわけがない。パールハーバーでもそうだったが、それを戦争の口実にするのがアメリカの常套手段だ。独立日本をつくるために全国で公演してほしい」と万感の思いを語った。
 遺児の男性は、父が中国で、伯父はビルマで戦死したことに触れ、「あの戦争の悲劇をもろに受けた。“戦争を絶て”が持論だ。若い人に多く見せたい。今の日本の現実が見えるし、日本はこれでいいのかとなると思う。今、激動の時代がきている。舞台の後半に農業問題が語られていたが、その通りだ。父の戦死後、母と祖母が田んぼをやっていたが、農地解放でみなとられた。少しずつ田んぼを買ってやってきたが、今は減反、減反で自給率は40%。日本をつぶすわけにはいかない。自分の思いをたくさん語ってもらった」と話した。
 4月に開催された佐々公演の実行委員で50代の男性は、「先日、西洋館に原爆展を見に行ったが、舞台で見たそのままだった。下関、広島、長崎の被爆者交流会にも参加したが、舞台で話されているような貴重な話が熱をこめて語り合われていた。取引先に原爆展の案内チラシを持っていくと、その人は被爆者で、“福島は騒ぎすぎだ。自分たちはトマトやキュウリを作って食べてきたが、なんともない”といっていた。隠されていることが多いと思う。劇を見るのは3回目だったが、西洋館の原爆と戦争展の会場にいた人たちが舞台にいるようだった」と感動を語った。
 女子高校生は、「すごく感動した。私も小学生や若い世代に語り継いでいきたい」と話した。
 各地公演実行委員からは、8月6日に広島で開催される原水爆禁止8・6広島集会へも「ぜひ参加しよう」「遺族会として参加を検討していこう」と語り合われており、原発事故まできた戦後社会を根本的に立て直していくための全国交流の場として期待が高まっている。

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