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劇団はぐるま座『原爆展物語』下関公演が大成功

 『峠三吉・原爆展物語』(作・劇団はぐるま座創作集団、下関原爆展事務局)の全国初演となる下関公演が20日、長周新聞創刊55周年記念公演として海峡メッセ下関四階イベントホールでおこなわれた。午後2時からと6時30分からの昼夜2回公演で1200人が観劇し大盛況となった。全県・全国からも参加した。320万人が戦死したあの戦争はなんのための戦争であったのか、またそれに続く戦後の日本社会がなぜこれほどデタラメになって来たのか、どうすれば現状を変えていけるのか。10年間の原爆展運動で厚くほどこされた欺瞞のベールを引きはがすなかで語られた体験者の声を通して明らかにされる真実は、観客の体験を重ねた真剣な思いと相互に響きあい、「日本を変える劇だ」と深い感動を呼んだ。


 下関公演は約2カ月前、市内各界各層の人人を中心に全国も含めて、約80人の実行委員会が発足し、とりくみが始まった。2000枚をこえるポスターが市内中に貼り巡らされ、76校の小・中学校、自治会、老人大学、遺族会、子ども会などで約六万枚のチラシが配布された。市内で16カ所・18回に及ぶ街頭原爆展など、さまざまな形で宣伝が進むなか、台本数百部が改訂を重ねながら普及され、数百人が約4000枚のチケットを預かって働きかけていった。途上で作製された2幕1場の戦地場面を抜粋したチラシは大きな反響となり、「家族連れで見に行って子や孫に語らないといけない」と体験者同士でも論議され大きなうねりとなった。
 公演当日、昼公演開幕の1時間以上前から続続と市民がつめかけ始めた。誘い合っての年配者、子どもや孫をひき連れた体験者、教師に引率された子どもたち、全県・全国からも到着し会場を一杯に埋めた。また夜公演には、仕事を終えた会社員や親子連れ、高校生や大学生など現役世代の姿が多く見られた。
 公演に先立ち、挨拶に立った伊東秀夫実行委員長は、原爆投下から65年を経るなかで体験者が少なくなり、学校でも第二次大戦の真実が伝えられていないことにふれ「日本は敗北が必至となっているのに戦争をやめず、その結果320万人という尊い人命が奪われた。アメリカが人類史上最も残虐な原爆を投下し三十数万人の命を奪ったのは日本を単独占領して支配するためだった。現在までこの状態は続いている。このなかで私たちの“アメリカは核を持って帰れ”の主張が多くの人の心をとらえている」とのべた。10年の原爆展運動で第二次大戦の真実が明らかになるなかで新生の平和運動として力強く発展してきたことを舞台のうえで演じるのがこの劇だと語り、「じっくり見て率直なご意見、感想をいただき、核兵器を廃絶させ戦争を阻止し、平和と独立を守る運動をさらに発展させるため、ご支援・ご協力をお願いしたい」と語った。
 「原爆を許すまじ」のメロディーとともに、幕が開くと鮮やかな広島平和公園の風景が広がる。「原爆の子の像」前で「手ごわいな。原爆についてたずねただけで“お前たちは禁か協か”と怒鳴られた」「夏に来て騒ぐだけじゃないか、八月六日は祭りやピクニックの日じゃない」「孫がじいちゃん、ばあちゃんが悪いことをしたから原爆を落とされたと教えられてくる。お前たちもその仲間かとにらまれた」…原爆展の宣伝に出かけたスタッフたちが語りあう場面から始まる。市民の意見に深く学ぶこと、既存の平和団体と一線を引いてアメリカの犯罪にはっきりした態度をとることを確認し、「いろんな政治勢力はどうでもいい、とにかく市民のなかへだ!」と10万枚のチラシと3000枚のポスターを持って無数の市民のなかに入っていくと、旧知の間柄のような歓迎を受ける。旧日銀で開かれた第一回広島原爆展は「初めて語れる場所に出会った」と痛切な被爆体験と戦後を生き抜いてきた深い思い、50年代の原爆反対の運動への信頼が語られる。
 客席は初めから水をうったような静けさで、一言もセリフを聞き漏らすまいと微動だにせず舞台を見つめていた。
 第二場の「全国キャラバン隊」。東京大空襲をはじめ終戦の年に日本中で米軍が膨大な民間人を焼き殺した事実をスライド写真とともに各地の体験者が告発する。空襲を指揮した米軍司令官・ルメイの言葉とともに、ルメイが戦後一九年目の真珠湾攻撃記念日に昭和天皇から勲章をもらったことが明らかにされる。東京空襲体験者の「冗談じゃねぇや!」という叫びは強い印象を与えていた。
 続く第三場の沖縄場面。「沖縄戦せずとも戦争は終わっていた/基地を奪うための大虐殺だった」というパネルに触発され、口をつぐんできた体験を語り始める沖縄の人人。「アメリカーに終戦なんてない。戦争を終わらせるためじゃなく、次の戦争を続けるために何十万人も殺して沖縄を奪ったんだ」「確かに沖縄は捨て石にされたが、アメリカのやったことはそれどころではない」。1000人をこえる県民から聞いた沖縄戦の体験は目からウロコが落ちるものだった。「あれだけの虐殺をやって力ずくで奪い取ったのがアメリカさ。インディアンを皆殺しにして土地を奪ってできた国だ。アメリカを追い出すには沖縄戦の仇を討つような覚悟がいる。でもあきらめていたら今度は沖縄に原爆が飛んでくるよ」と語られる。
 しーんとしていた客席は場面が進むにつれて体験者を中心に、あいづちをうちながら聞いたり「本当にそうだ」「日本全国どこも同じだね」など、ささやきあいながら、舞台と客席が一体となっていった。

 客席からはあいづちも 場面が進むにつれ 

 二幕一場の戦地体験場面では満州や南方に送られた兵隊からほとんどの戦友が餓死や病死で無念のうちに倒れていったこと、切り込み部隊が編成され、「玉砕」命令で大本営から見殺しにされた真実が語られる。下関空襲展に訪れた体験者たちが「原爆も沖縄戦も戦争終結に必要なかった…その通りだ。おかしな戦争だった」と戦争体験を語り、天皇や財閥が自分の地位を守るために国民を殺すに任せたことへの怒りが語られる。「このままでは日本はアメリカの弾よけだし、また若者が戦場にかり出される。それでは死んだ戦友たちにあわせる顔がない」「日本でもその気になれば侵略者を追い出すことができる」「残された時間は少ない。真実を伝えなければ」切迫感を持った体験者の言葉は深く印象を与えた。
 第二場長崎場面では「祈りの長崎」といわれた欺瞞のベールを引きはがし長崎の被爆者が「残りの人生をかけて原爆のことを語り継いでいきますよ!」と立ち上がっていく様子が描かれる。前席に座っていた長崎の被爆者たちは相づちをうちながら観劇していた。
 第三場の2009年の広島。既存団体が「オバマ賛美」のお祭り騒ぎを演じるなかで「峠三吉・原爆展」は広島市民を代表する運動として存在感を増した。労働者や教師と戦争体験者・被爆者が「貧乏になって戦争になっていく。今がその通りだ」「日本はアメリカの属国だ。それが原爆投下から始まっている。アメリカに貢ぐために日本がある。日本人は黒人奴隷と同じか」など、現代の問題が語りあわれ、「50年8・6斗争が安保斗争につながっていき、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも原爆を使用させない力になった。労働者が先頭に立って大きな政治を動かしたんですよ」「戦争も失業もない、働く者が主人公の社会をどうつくるか、みんなを率いてそれをやるのが本当の労働運動ですよ」と語りあわれる場面では「そうだ!」というかけ声も飛び、現役世代に深い共感と葛藤を与えていた。
 エピローグで、スタッフたちが10年の活動をふり返り、「体験者は生きるか死ぬかというところで現在を考えている。自分たちは相当に平和ぼけなんだ」「自分たちの側からの自己主張ではなく、大衆の側から見るというのは大違いだ」と語られ、「大衆のなかにある一つ一つの松明を集めて大きな灯台にしていく。そんな集団を全国的に結集して今度こそ戦争を阻止するたたかいに挑もう」「死んだ人の命が返らないのなら、死なないためのたたかいを命がけでやらないといけない」と厳粛に決意が語られ、『墓標』の詩が朗読されるなかで幕が下りると、緊張感の漂っていた会場から一斉に大きな拍手が湧いた。昼夜ともにカーテンコールでは下関の実行委員から花束が贈呈された。俳優が「原爆展運動発祥の地・下関で初演を盛大におこなうことができた事、非常にうれしい。はぐるま座も一層精進を重ね、この劇を持って広島・長崎をはじめ日本全国に出発します」と語ると、「よし!」「頑張れ!」などかけ声と大きな拍手が送られた。

 全国の公演に強い期待 熱気溢れる感想交流 

 昼と夜それぞれ、終演後に会場ロビーで感想交流会がおこなわれた。参加者からは深い感動とともに、劇を通じて自身の生き方と重ねた葛藤など思いが語られた。
 下関原爆被害者の会の婦人は「この前の公開稽古のときより今回の方がより感動した。私たちのいえないことを劇でいってくれることが嬉しく、今日は本当によかった」と感動を語った。
 戦地体験者の男性は、「われわれは戦争体験を持った最後の世代。女性などのなかには父を亡くし、顔を知らない人も多く、“亡くなられた父のことを偲んでください”と呼びかけた」とのべ、「今後もっと中国戦線や南方のことなど、戦地の真実を鮮明にしてほしい」と要望も語った。
 原爆展を成功させる広島の会の男性は、広島での現地稽古のさい「後半がまとまっていない」と意見したことにふれ、「今回は後半がさらによくまとまっていた」と語った。パネルの内容が芝居という形となって全国に大戦の真実が伝えられることへの期待を語り、「今後公演を重ねるにつれて進化していくのを見ていきたい」とのべた。
 全国で前作『動けば雷電の如く』公演をとりくんだ人人からも、強い感動が語られ、「うちにも早く来てほしい」という声があいついだ。
 鹿児島県から来た男性は、「今日の劇は非常に感動した」とのべた。少年時代、沖縄の次に上陸するといわれ不安ななかを過ごした経験、6月に大空襲を受け、1㌧爆弾で街が焼け野原となったこと、後世に伝えるため毎年8月15日には絵を描いて展示してきたことを語った。「今の時代にこういう演劇をすることは非常に大切だ。また戦争になり赤紙で引っ張られることのないよう、めちゃくちゃな日本にならないよう、先輩である私たちがしかと伝達していきたい」とのべ、鹿児島公演に期待を寄せた。
 同じく鹿児島から子どもとともに参観した婦人は、「教科書に載っていないことが本当に多いんだと思った」と衝撃を語った。「核は反対だが、北朝鮮の問題などが起こると、“持った方がよいのでは”と思っていた。しかし今日の劇を見て、核は絶対にいけないと強く思った」と認識の変化を語り、「本ではするっといく部分が劇になるとすべて見ないといけないから涙が止まらなかった。これが本当だったんだという衝撃が強く、今は言葉にならない」と涙ながらに語った。
 沖縄の男性は、「予想以上で、劇の始めから終わりまでずっと緊張する深い内容だった」と感動をのべた。「沖縄場面は前とくらべて非常によくなっている。これを全国でやったらすごいことになると確信した。ぜひ早く沖縄でやってもらいたい」と期待を語った。
 栃木県からかけつけた男性は、「自分もキャラバン隊のパネルを見て衝撃を受けた一人だ」とのべた。「労働運動の中堅を支える者として、運動の衰退を嘆いていたが、それは甘えだった。劇中に“戦争は今から始めますよといって始まるものではない…”というセリフがあったが、自分自身も劇に出てくる労働者と同じような衝撃を受けた。明治維新が松陰先生の教えから始まったように、この劇からなにか起こっていくのではないかと感じる。自分も灯火の一つとして協力したい」と語った。
 劇団はぐるま座からも「全国初演を原爆展運動発祥の地・下関で盛大におこなうことができたことに感謝したい。この劇をつくる過程は平和ぼけしている自分とのたたかいだった。体験者の本当の思いを劇にしていくにはまだまだ至らないところがある。今後長崎・広島と公演していくが、戦地に行かれた方は特に体験を語られていない。そうした人人の体験が語られるよう全国で公演し、本当に戦争を阻止する人人の輪を大きくしたい」と決意が語られた。

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