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『華氏119』が捉えたアメリカ 反響呼ぶマイケル・ムーア監督の最新作をめぐって

マイケル・ムーア監督

 マイケル・ムーア監督の映画『華氏119』が11月2日から全国各地で公開され、反響を呼んでいる。同監督といえば、イラク戦争に突入したブッシュ政権を暴露した『華氏911』や米国医療の現実を告発した『シッコ』など、米国社会の本質をえぐる数数の話題作を世に送り出してきたことで知られる。その最新作は、トランプ政権の誕生に至る過程や根拠をわかりやすく描いていると同時に、エスタブリッシュメント(支配層)の欺瞞が通用しないまでに階級矛盾が先鋭化していること、そのもとで行き詰まった資本主義社会を乗りこえようと葛藤し、抗う米国の民衆のたたかいや新しい力の胎動を描いている。世界的に広がるバックラッシュ現象や、足元から民主主義を求めていく政治行動の高まりと重なるものがあり、日本国内でも強い衝撃をともなって反響が広がっている。この作品はなにを捉え、米国社会の到達と現実からなにを問題提起しているのか、鑑賞した記者たちで論議した。


  米国の中間選挙がおこなわれ、トランプ率いる共和党は、半数以上が非改選の上院でかろうじて現状(過半数)を維持したものの、真っ向勝負となった下院で大敗した。知事選でも大幅に勢力を後退させた。投票率は47・3%(推定)だが、前回比で10ポイント近くアップし、過去50年で最も高かった。投票人数が1億人をこえたのは初だという。トランプ政府にとっては足元を揺さぶられ大打撃となったが、躍進した民主党でも「造反組」といわれる新興勢力が牽引力となった。単純に「共和党vs民主党」の範疇ではとらえられない地殻変動を反映している。


 この中間選挙に向けてマイケル・ムーアが発した本作品は、米国内世論の動きを克明に伝えており、多くの日本人にとって「目から鱗」の情報に満ちている。いまの米国を知るうえで必見の映画だと思う。


 B 題名の『華氏119』は、トランプが大統領選の勝利宣言をした2016年11月9日を指している。ブッシュ政府を痛烈に暴露した旧作の『華氏911』と繋ぐ意味合いがこもっているようだが、単純なトランプ批判という代物ではない。トランプ大統領を生み出すに至った根拠を、米国の階級矛盾に焦点を当てながら考察していくドキュメンタリーだ。


 大手メディアがこぞってヒラリー・クリントンの勝利を予想し、誰もがそれを信じて疑わなかった大統領選の開票日から、映画ははじまる。著名人や芸能人の後押しを受けるヒラリー陣営が早くから祝賀ムードに沸くなか、民主党の地盤であった「ラストベルト」オハイオ州でのトランプ勝利の報が流れる。暗雲が立ち込めるなかで形勢は一気に逆転し、ついに直前まで勝率わずか15%(ニューヨーク・タイムズ)と予想されていたトランプが当選を確実にする。


 当時、日本のマスコミも含め、政治経験豊富な初の女性大統領vs政治経験ゼロで評判の悪い不動産王、ないしは既存のエリート主義vsポピュリズム(大衆迎合主義)という構図で報道し、表面上、トランプよりも「常識」をわきまえたヒラリーが選ばれるという見方が大方だった。翌年度に使う英語の教科書にはすでにヒラリーが大統領として印刷されていたといわれ、安倍首相に至っては選挙中にもかかわらずヒラリーを次期大統領と見なして陣中見舞いにまでいったほどだ。映画では、このような下馬評に高をくくっていた民主党陣営に衝撃が走る様子が、皮肉たっぷりに描写される。


  当初からトランプの勝利を予言していたムーアは、米国社会の深層で起きていた現実を挙げて、その必然性を解き明かしていく。もっとも力を込めるのが、二大政党において対極であるはずの民主党の腐敗堕落だ。労働者階級や下層大衆を代表するリベラル政党を標榜していたはずの民主党は、共和党への「譲歩」が常態化し、もはや政策や体質において両者にほとんど違いがなくなっている。映画では、90年代のクリントン政府時代から、NAFTAなど自由貿易協定による新自由主義政策に舵を切り、国内工場の海外移転に拍車をかけたことや、貧困層への救済策をうち切り、多国籍企業や富裕層だけを優遇する政策を実行してきた民主党の「功績」が列挙される。


 大統領選の民主党予備選でも、ヒラリーが大企業やウォール街と癒着して膨大な企業献金を受けることへの反発が高まり、大規模献金を拒否し、金融業界の規制(課税)や公立大学の無償化などを訴えた自称社会主義者のバーニー・サンダースが急速に支持を伸ばし、若者を中心に全米で一大旋風を巻き起こした。


 だが、リベラル紙を代表する『ニューヨーク・タイムズ』も、若者の支持が強いサンダースの主張を「年寄りには受けがいい」と報道するなど批判や妨害に明け暮れた。


 そしてウエストバージニア州の予備選では、州内の55郡すべてでサンダースが勝利したにもかかわらず、民主党中枢は「スーパー代議員制度」(古参の党員による特別投票)を使って票数を塗り替え、多数派のサンダースではなく、既定方針通りにヒラリーを大統領候補に選出した。「同じことがすべての州でおこなわれ、多くの人が党員を辞めた」とムーアは告発している。


 その結果、大統領選の本選では、投票率は史上最低レベルの55%に落ち込み、トランプに6600万人、ヒラリーに6300万人が投票し、棄権者は1億人にのぼった。有権者が示した意志と選挙での勝者はことごとく逆だ。ムーアは「大多数が望む方向に政治が進まないのは、大多数を代表するものが政治家になれないからだ」と、アメリカの選挙制度を痛烈に批判している。これが「民主主義のモデル国」の実際の姿だと。


  投票者数よりも代議員の票が重んじられる選挙制度について「200年前の奴隷制時代の都合で作られた制度が続いている」と解説していた。エスタブリッシュメント(支配層)の意に沿わないものが大統領にならないように最終段階で調整できる仕組みになっている。だから投票率も低い。その結果、全有権者のわずか4分の1程度の支持(得票)しか得ていないものが大統領になる。このようなアメリカの実態は日本ではほとんど知らされないが、日本に置き換えて見ても、全有権者の25%程度(小選挙区)の得票で自民党が衆議院の絶対安定多数を占めている。知れば知るほどウリ二つだ。民主党の裏切りやメディアの操作も含め、まるで日本のことじゃないかと映画を見ながら感じた。

 

住民の命脅かす民営化 ラストベルトの現実

 

  さらに映画は、トランプが意識的に選挙戦の舞台にした五大湖周辺の工業地帯の人人の生活に密着する。デトロイトの財政破たんが象徴的だが、ゼネラルモーターズ(GM)をはじめ自動車や鉄鋼など重工業が密集するこの地域は、自由貿易で拍車がかかった工場の国外移転やIT化による産業構造の転換のなかでとり残され、「ラストベルト(さびついた工業地帯)」といわれるまで荒廃した。


 ムーアの故郷ミシガン州フリント市もその一つだ。ミシガン州では、トランプの支援を受けていた共和党のリック・スナイダー(IT企業ゲートウェイCEO)が州知事に就任し、「企業のように州を経営する」と宣言し、大企業優遇の税制改定をし、公共サービスを次次に民営化する。財政がひっ迫したフリントの自治権を停止して州が直接統治した。


 水道も民営化のターゲットになり、州は「新公社」によって新たなパイプラインを民間資本に敷かせる事業を発案するが、高額な負担金を支払えないフリントは供給対象から除外され、水道の水源を従来のヒューロン湖から、市内を流れるフリント川に切り換えられる。川が汚染されていたうえに、水道には安価な鉛管を使ったため、家庭の蛇口から茶色く濁った水が出るようになり、鉛やバクテリア中毒による病人が続出する。子どもの知能や遺伝子に障害が生まれ、高齢者の死者まで出る。ところが、知事は権限を強化するために緊急事態宣言の管理下に置き、保健所の検査データを1年半以上も隠蔽して、水道水の安全性を主張し続けた。


 フリントはGMの創業地であり、汚染水の被害がGMの製品にも出たため、ようやく知事は対策に乗り出すが、改善されたのはGMに送る水だけだった。「私たちはGMのような大口献金者ではないからだ」と憤る市民。最も水の豊かな地域でありながら、安全な水を飲むことができず、ミネラルウォーターで凌がなければならない。外に引っ越そうにも家の買い手はない。フリントは黒人が人口の50%を占めており、汚れた水を飲んで死んでいくのはそうした貧困層の住民たちだ。


 市民は「単なる水問題ではなく住民虐殺だ!」と結束して立ち上がるが、事態は一向に動かない。ムーア自身も抗議集会に参加し、知事が「安全」というフリント市の水を知事の邸宅まで運んでホースでぶちまける。

 

フリントの水をまくマイケル・ムーア監督(映画の一場面)

 フリント市の汚染水問題が社会問題として知れ渡るなかで、2016年5月、ついにオバマ大統領がフリント市にやってくる。「やっと大統領が動いてくれる!」「私たちの大統領だ!」と市民が大きな期待を膨らませて見守るなか、演題に立ったオバマは水道水をコップについでもってこさせ「飲む芝居」をする。改善のためではなく、水の安全性をアピールしに来ただけだったのだ。市民の期待が落胆に変わる会見の一部始終をカメラは捉えている。


 その後も市民の抗議がおさまらないフリントに対し、オバマは軍隊を派遣し、事前通告無しで実弾演習を開始する。いきなり市民の頭上を砲弾が飛び、昼夜を問わず激しい銃声が鳴り響く。「空きビルが多く、市街戦を想定した訓練に最適」というのが理由だが、明らかに市民弾圧を意図したものだ。自国民に銃口を向けてまで「黙れ!」というのが、黒人の代表であったはずのオバマのメッセージだった。「この街ではテロの定義がまったく変わった」と語られる。


  日本では報道されていないし、誰も知らないことだ。同じ時期に、オバマが広島を訪問し、メディアや平和団体も「平和を希求する大統領による歴史的な一歩」などと騒いでいたのだから錯誤も甚だしい。いまだにオバマが平和主義だとか、黒人や下層大衆の味方のように報じられるが、ブッシュにも劣らぬ凶暴な権力者であることが暴露されている。


  リストラで職を失い、銀行によって家を差し押さえられ、家族は離散し、安全な水さえ奪われ、なにもかも失った人人に対して、民主党政府はなんの手も差し伸べず、大統領選ではこの地域でほとんど運動をしなかった。一方、国外移転を進める大企業経営者に「関税をかける」と脅し、ホワイトハウスをののしり、「忘れられた工業地帯を再興する」と叫ぶトランプの姿は、まるで既成の権威に投げつける「火焔瓶」のように映ったのだとムーアは語っている。かつて民主政治のモデルといわれながらヒトラーが登場したドイツと重ね、「ファシズムの台頭は、人人が希望を失い、無気力が支配したときに起きるのだ」と。その意味で、この映画の照準はトランプではなく、人人を裏切り続けた民主党にも批判の矛先が向いている。

 

立ち上がる教師や若者たち 行動は全米に波及

 

教育予算の増額を求めて全州でストライキに立ち上がった教師たち(2月、ウェストバージニア州)

銃規制を求めて行動を起こしたフロリダ州パークランドの高校生たち

  同時に映画は、そのように「同じ穴のムジナ」と化した二大政党制の外側で渦巻く大衆の直接行動に光を当てている。アメリカ国民の苦難や葛藤がこれでもかと伝わってくるし、そのなかで諦めや敗北ではなく、また個個バラバラになるのではなく、下からみんなの力をつなげて、民主主義を求めて立ち上がっていることがわかる。


 ウェストバージニア州では、教師ですらフードスタンプ(食糧配給切符)に頼らなければいけないほど教育予算が低く、しかも当局は、教師に腕時計型のデバイスを着用させて健康状態をチェックし、規定の指数をオーバーすれば年度末に500㌦(約5万8000円)もの罰金を科すシステムを導入しようとしていた。


 ときには民生委員として、ときには親がわりになって子どもとかかわってきた教師たちは、結束してストライキに立ち上がる。アメリカでも公務員のストライキは違法だ。だが、教師たちは「子どもたちの教育環境を守るため」「この行動は必ず全州に広がる。私たちが勝利すれば、他の州も後に続く」と確信し、当初は50人ほどだったストライキは州全体の学校に波及する。一日の食事を給食だけに頼っている生徒も多いため、教師たちはストライキの間も子どもの給食だけは準備するなど、生徒も保護者も一緒になってたたかう光景は感動的だ。同じく低賃金に苦しむバス労働者、給食調理員たちもストライキに合流する。


 ストが広がるなかで、組合執行部は州当局と妥協して、教師だけの賃上げでことを収めようとするが、教師たちは分断政策に妥協せず、バス運転手や調理員の賃上げを合意させるまでストライキを続け、最後には要求を勝ちとる。健康チェックのデバイス導入も潰した。これを端緒に教師のストライキは全米に広がり、中間選挙で全米で1500人もの教師たちが立候補するにまで発展する。教師たちの「団結があれば誰も潰すことはできない。だからこそ、政治家は人人の団結を分断して支配しようとするのだ」という言葉は核心を突いている。


  さらにフロリダ州パークランドの高校生たちがはじめた銃規制を求める運動も全米に波及した。今年2月14日、同州のマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で元生徒が自動小銃を乱射し、教師を含む17人の死者を出す大惨事となる。


 同級生を目の前で失った生徒たちは、スーパーで誰でも簡単に銃が買えるような野放図な銃社会にメスを入れ、銃規制を訴えて行動をはじめる。授業の一斉ボイコットには中学生たちも参加し、教師たちが「戻りなさい」といっても「全校生徒が参加しているけど、みんな退学させる気?」と意に介さない。


 共和党の上院議員とのテレビ討論でも、言い訳を並べる議員に向かって高校生は「今後NRAからの献金は受けとりませんか?」とストレートに問い詰める。全米ライフル協会(NRA)の大口献金を貰っているため政治家は動かず、いつまでたっても銃規制が実現しないことを子どももみんな知っているのだ。インチキは全部見抜かれるし、国会でくり広げられるような茶番劇は通用しない。


 この高校生たちの呼びかけで、3月にはワシントンで80万人の大行進がおこなわれ、全米700カ所で100万人が参加する行動となった。中間選挙までには選挙権を持つ18歳になる高校生たちは「NRAと癒着した政治家を選挙で落とそう」という運動をはじめ、運動の先頭に立った女子高生を「スキンヘッドのレズビアン(同性愛者)」と侮蔑した現職議員の選挙区では、急きょ出馬した新人の女性候補の支持率が一気に伸び、現職議員は出馬を断念せざるを得なくなる。SNSを駆使する生徒たちが発信する情報は瞬時に全米に行き渡る。この若者たちの動きも、今回の中間選挙を下から揺さぶっている。

 

銃規制の運動を起こした高校生たちと交流するマイケル・ムーア監督(映画の一場面)

高校生が主催し、80万人が銃規制の実現を訴えた「命のための行進」(3月、ワシントン)

次の社会を展望する人々  先鋭化する階級矛盾

 

  中間選挙で躍進した民主党だが、その原動力となったのはこのような二大政党制の外側で巻き起こる大衆の直接行動だ。単純に民主党の政策が支持されたわけではない。リーマン・ショック後、若者を中心に「ウォール街を占拠せよ」をスローガンにオキュパイ(占拠)運動が広がり、大統領予備選では社会主義を標榜するサンダースが旋風を巻き起こした。その民意を民主党中枢が裏切るなかで、大衆運動がさらに鋭い政治意識をともなって広がっている。



 中間選挙に史上最年少の28歳で民主党の下院予備選に出馬し、20年安住していた民主党現職を破って注目を集めたオカシオ・コルテスは、プエルトリコ出身の元ウェイトレスだ。2016年の大統領予備選では有権者登録簿から名前が削除され、投票権がなかった若者の一人だ。そのため彼女はサンダース陣営の運営スタッフとして運動にかかわり、今回の中間選挙でも企業献金を拒否し、自分の足で住民の家を一軒ずつ回って小口献金を集めた。サンダースと同じ「アメリカ民主社会主義者(DSA)」のメンバーでもある。


 大統領予備選の直後から政治活動組織「私たちの革命(Our Revolution)」を立ち上げ、サンダースを筆頭に、難民キャンプ出身のイスラム教徒や女性教師、一般の労働者、イラクやアフガンから帰還した軍人など150人をこえる候補者を各地に送り込み、その多くが当選を果たしている。国民皆保険制度、公立大学の無料化、移民の家族を強制的に切り離す移民税関捜査局(ICE)の廃止などの政策とともに、米国の格差社会の根源である富裕層優遇の政策とたたかい、この国で圧倒的となった貧困層の救済や公共公益のためにその富を振り分けることを主張している。


 映画の中では、一般市民による民主党の「乗っ取り運動」と呼ばれていたが、このような女性や若手による「造反組」は、既得権益に浸りきった民主党中枢の方針にも公然と異を唱え、「私たちの民主政治のたたかいは性別や人種差別に対するとりくみだけでは不十分だ。核心は、階級の問題なのだ」(コルテス)と明確に訴えている。


  映画では、実際に予備選に立候補して民主党現職を脅かすほどの支持を集める新人候補に対し、民主党幹部が選挙資金の配分権限をチラつかせ、「党の既定方針だ。降りてくれ」と全力で潰しにかかるなまなましいやりとりも明かされる。予備選は「既得権益に執着し、敗北へと導く民主党上層部とのたたかい」(ムーア)となり、この前哨戦なくして中間選挙での民主党の躍進はなかったことがわかる。これもまた日本の野党勢力の現状と重ねて「よそごと」とは思えない。

 

トランプ当選後、加盟者が5000人から5万8000人へと急伸した米民主社会主義者(DSA)

  民主党の大統領予備選でヒラリーを脅かしたサンダース現象は、拝金主義で政治を操ってきた金融資本や富裕層と、圧倒的多数の労働者、勤労人民との非和解的な矛盾を背景にしている。トランプ現象も同じく共和党の瓦解を示すもので、もはやアメリカの政局を二大政党の枠で捉えることなどできない。映画のなかでムーア自身や政治学者が「アメリカンドリームは、叶えられないからいつまでもドリーム(夢)なのだ」「アメリカ民主主義といっても、いつからが民主主義なのか。われわれが目指すのは未だ見ぬアメリカなのだ」と語っていた。


 「野党がいる、憲法がある、裁判所がある…と安心している間に、気がついたら独裁者が国の実権を握り、ひとたびミサイルが撃ち込まれたらたちまち戦争に引きずり込まれる。私たちに必要なのは漠然とした希望ではなく、行動だ」とムーアは呼びかける。日本を含む世界中が信奉していた「アメリカ民主主義」の欺瞞は崩れ、その枠をうち破る新たな政治勢力が下から突き上げている。そのようにたたかわなければ活路がないという意識は、アメリカに限らず世界的に渦巻いている。「資本主義の終わりのはじまり」にも見える。


  民主党の大会で、高校生が「私たちの世代は社会主義に抵抗はない。むしろ資本主義を受け入れることができない」というような発言をする場面もあったが、ミレニアル世代(2000年代に成人を迎える世代)といわれる若者たちには資本主義に対する幻想はない。また社会主義といっても、ソ連も中国もないわけで、外国の権威の受け売りをしたり、教条的な理論に陶酔しているわけでもない。彼らが目の当たりにしてきたのは、新自由主義のもとで1%の富裕層のぼろもうけのために大多数が貧困を強いられ、社会を利潤の具にしてきた資本主義の強欲な搾取だ。人も社会も資本の世話になるどころか、搾取の対象でしかないことを、親たちの生活や自分たちの将来を重ねて実感している。そうではなく、みんなが働いた富を社会のため、働く人人のために分配しろという現実に立脚した率直な要求だ。


  富裕層と繋がる民主党中枢も、リベラル系のメディアも、この若者たちを「急進派」「過激思想」などといって全力で弾圧するが通用しない。この点でも共和党と違いがない。そのたびに権威を失い、「リベラル」や「進歩派」といった欺瞞が剥がれていく。


 まるで既成の権威をぶっ潰すかのような装いで登場したトランプだが、このような背景を理解すれば、決して盤石な支持基盤をもっているわけでもなく、人人が「右傾化」しているわけでもないことがわかる。アメリカ国内で、民主党オバマ政権に代表されるような欺瞞が見透かされ、非常に鋭い政治意識が動いていることを確信させる。支配を維持するための「右・左」、この両刀使いによってアメリカ国内を統治してきたが、いまや保たないところまできていることを教えている。

 

世界各地で共通の変化  新しい政治勢力の台頭

 

  資本主義の総本山で政治も経済も行き詰まり、人人が下から繋がって政治の主導権をとり戻す運動がはじまっていることのインパクトは大きい。この政治的潮流は、金融資本に食い荒らされたヨーロッパでも共通しており、スペインのポデモス、イタリアの五つ星運動など、形骸化した「保守vs革新」という二大政党構図の外側から新しい政治勢力が台頭している。20代、30代の若者たちが中心を担っているのも特徴だ。


 アジアでは、歴史的な南北和解を推し進めている韓国の動きも、民族対立を生み出してきた戦時体制を終わらせ、政治や経済をコントロールしてきた異民族支配から独立を求める強力な大衆運動が主導している。沖縄における「オール沖縄」のたたかいが、いわゆる保守・革新の枠をこえたものになっているのも下からの力によるものだ。上からの号令によるものではない。既成の権威が崩れるなかで、バラバラにされていた大衆の団結が進み、政治を突き動かしている。


  この映画が伝えているものは、メディアが評するような、単純に「棄権せずに投票に行けば時代は変わる」というようなものではない。トランプの批判に終始するだけだったり、野党を無条件に応援しようというものでもなく、カリスマ性をもった特定の個人や団体を称賛しているわけでもない。無名の大衆の団結した行動こそが社会を動かしていく原動力であること、実際そのように進行している米国社会の現実をそのまま伝えている。虚像のアメリカではなく、リアルなアメリカを認識させられる。日本国内にアメリカ社会の変貌ぶりや民衆のたたかいは、情報としてもほとんど入ってこない。だからこそ、「目から鱗」なのだ。

 

  マイケル・ムーア監督の凄みは、これまでの作品群においてもそうだが、相手が軍産複合体であれ、時の権力者であれ、遠慮なしに切り込んでいくところだろう。時にはユーモアを交えて向かっていく。理不尽極まりない社会の現実に対して、批判して終わりというものではなく、なぜそのようになっているのか構造的な問題を解き明かし、歴史的、社会的に迫っていく。物事の断片だけでなく、その断片や人人の体験から出発して、客観世界や全局とつなげて提起していく技術はほかにないものがある。それは本来、ジャーナリズムの仕事だ。目前の現象のみに振り回され、「あのようになっています」「このようにのべました」と垂れ流すだけがメディアではない。


  苦難に置かれた民衆の側に確固として立脚している。この作品でも、あくまで人人の生活に密着し、そこから大胆に問題提起するマイケル・ムーア監督の卓越した力量が発揮されている。共和党なりトランプがけしからんから、「民主党がんばれ!」というようなものではなく、その民主党の裏切りにも正面からメスを入れ、アメリカ国民の苦難や葛藤を伝えている。欺瞞や虚像の世界に人人の認識を縛り付けるのではなく、解放しようとしていることがわかる。


 日本の政治風景と重ねてもそれはよそ事ではない。安倍自民がデタラメだから「野党がんばれ!」という向きもあるが、それら含めて国会を形作ってきた政党政治が腐敗堕落して信頼を失い、真に国民の受け皿となる政治勢力がいないという課題とも重なる。そこで諦めや絶望に身を委ねるのではなく、未来をかけて下から作っていくしかないのだというメッセージを映画から感じる。いわゆる左翼系や知識人のなかでも「アメリカでファッショが台頭している」「独裁者トランプが世界を破滅に導く」等等、浮き上がった世界で絶望的な評論をやり、嘆いている向きもあるが、たたかう大衆の力が見えているか? そこに確固として立脚しているのか? は重要な点だと思う。「弾圧される!」とことのほか脅えている者とか含めて、吹けば飛ぶようなことでは話にならない。マイケル・ムーアの凄みは、いつも思うが性根が据わっていることだと思う。


  映画は、北海道から沖縄まで全国の主要都市で公開されている。下関周辺では、シネプレックス小倉(チャチャタウン内)で公開中だ。ぜひ多くの人に見て貰いたいし、感想を論議してみたい。

 

※全国の上映中の劇場情報はこちら(『華氏119』公式サイト)

 

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この記事へのコメント

  1. 華氏119は、ショックの一言!
    唯一、若い生徒の民主活動にアメリカの可能性を信じたいと思いました!
    日本の生徒は、こんな行動力はないとも思います。
    その理由は、学校教育は教育ではなく支配される事を教えているからではないかと思います。
    故に、いつでも全体主義に支配される国だと思いました。

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