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ウクライナ戦争は何から何になったのか――松里公孝著『ウクライナ動乱』を読み解く 東京大学名誉教授・和田春樹

松里公孝著『ウクライナ動乱』(ちくま新書、512㌻)

 ウクライナ戦争は核大国ロシアが隣国ウクライナに大軍を侵攻させたことであるのは間違いない。当代のウクライナ戦争解説の最高の権威小泉悠氏は『世界』10月号に「ウクライナ戦争をめぐる〈が〉について」なる一文を書き、ウクライナ戦争がロシアの侵略であったが、考えられなければならない「複雑さ」があると主張する「異論派」のすべてを斥けて、この「が」をとり、ロシアの侵略に対抗するためには「日米同盟の堅持と日本の防衛力増強」という日本の国策を支持すべきだと宣伝している。『世界』の誌面からこのように呼びかけられて私は茫然とせざるをえなかった。

 

 ロシアの行為は侵略だ、兵器をくりだして、ロシアを追い出せ、国連総会決議をふりかざして、ロシアを追い出せといっても、それはかなわなかった。戦争は1年半もつづき、現在のウクライナの総反攻も行き詰まりの様相を呈している。停戦が必要である。ロシアとウクライナは停戦会談をただちに再開しなければならない。いまや停戦を望む声はグローバル・サウスの政府からも、グローバル・ノースの市民からもあがっている。市民の声が世界大に高まれば、ロシアとウクライナは停戦会談を再開することになるだろう。

 

ソ連解体が生んだ悲劇

 

 停戦は妥協による。ロシアとウクライナはどこに軍事境界線を引くか合意しなければならない。しかし、その軍事境界線はウクライナ領内に設定されることになるほかないだろう。そのような停戦の合意を評価するためには、この戦争の原因を考えなければならない。

 

 ロシアとウクライナの戦争の原因については、①NATOの東方拡大に対するロシアの脅威意識、②ソヴィエト・ロシア解体の後遺症があげられる。このことを考えるのは、ロシアの侵攻を正当化するためではなく、停戦の合意の内容を歴史的に評価するためである。

 

 ウクライナ戦争が始まってから、メディアに学者研究者が登場し、連日のように解説した。その議論は本や論文、講演になって、世にひろめられてきた。その内容は戦争の実況中継と解説につきるものであり、歴史家が動員されるときはロシアの侵略の歴史的伝統性の説明のためである。

 

 だが、専門家、本当に深く対象を研究した学者の意見はきかれていない。そういう学者は日本にはいないのか。そんなことはない。日本にはウクライナ研究をきわめた学者がいる。東京大学名誉教授中井和夫氏(1948年生)である。東大の大学院生時代は私のゼミに属していたが、ハーヴァード大学のウクライナ研究所に行って、ウクライナ史家となり、はじめて東大教授になった。久しく病気療養中であったが、ウクライナ戦争がおこったとき、われわれはみな中井氏が何を語るかと待っていた。しかし、彼はまったく発言せず、彼の旧著『ウクライナのナショナリズム――独立のディレンマ』(東京大学出版会、1998年)の復刻を許しただけであった。私の『ウクライナ戦争即時停戦論』(平凡社新書)の中にこの本から二つの引用をしておいた。

 

 「つまりウクライナなくしてロシアは成立しなかったのである。ロシアにとってウクライナは血のつながった弟以上のものであり、ロシアそのものの一部を構成していたのである。したがってこれが切り離されるということにロシアは文字通り身を引き裂かれるようなアイデンティティの危機を感じたのである。」(176頁)
 「しかしウクライナにとってはクリミアの分離は認められないものだった。それはクリミアの分離がウクライナの国としての統合を危うくするものであるからである。」(210頁)

 

 つまりソヴィエト・ロシアの解体がうみだしたのはこの悲劇的な状況であったことを中井氏は見ており、絶望を深めていったのだろう。その悲劇的な状況がウクライナ戦争を招いたことを確認して、彼は口をつぐんだのだと私は理解した。

 

 中井氏のあとにロシア帝国史からソ連崩壊期の地方政治の研究に入り、2013年からウクライナにかよってクリミア、ドネツク人民共和国の状況を細かく観察して、ウクライナ現代史の世界的な研究者となったのが、東京大学法学部教授松里公孝氏(1960年生)である。この人はロシア糾弾のメディアの誌面にはほとんど現れなかった。最強のスぺシャリストの声には耳が傾けられず、「異論派」として扱われたようである。その人の本がついに出た。ウクライナを多年にわたり現地調査してきた世界の第一線級の専門家が書いた本が出たのである。

 

 本が出たのは、7月のことで、『読売新聞』8月27日号には松里氏の同僚遠藤乾氏の書評が出た。遠藤氏は中井和夫氏の甥である。遠藤氏はロシアに厳しく、ウクライナ寄りの議論を出して来た人である。彼はこの本の解釈につきあってみても遅くはないだろうとよびかけている。

 

焦点となったクリミア

 

 松里氏は「ウクライナ戦争」との表題をきらって、「ウクライナ動乱」という表題をえらび、第一章「ソ連末期から継続する社会運動」から出発する。この章の理解のためには、私の本の簡単な叙述、「ロシアとウクライナは一つの国だった」を読んでいただくのもいい。

 

 この章では「ソ連に死刑宣告したのはウクライナの国民投票であった。」この国民投票では、「ウクライナが独立した後にどうするかは問われなかった。」ゴルバチョフが推進する刷新連邦に参加するのか、完全にロシアとの関係から離脱し、独立するのか、は問われなかった。「これは単なる手落ちとは思えない」、悪意の作為だということが示唆されている。

 

 独立するとすれば、領土問題が浮上する。54年にロシア国からウクライナ国に移譲されたクリミア問題である。しかし、ソ連後継のCISの盟主になりたいエリツィンがウクライナの気分を損なわないために沈黙したのだろう。最後は松里氏の推測である。

 

 クリミア問題は、ロシアと独立ウクライナの間の1997年友好協力条約でセヴァストポリ軍港をロシアが有限租借することで解決され、2017年までであった租借期間は2010年に当選したヤヌコヴィチ大統領によって2042年まで25年間も延長された。松里氏はこの租借延長が黒海制海権をほぼ手中にすることができると踏んでいたオバマ大統領を怒らせ、マイダン革命をみちびいたと示唆している。ここは松里氏の推測である。

 

マイダン革命の本質

 

 第二章は「ユーロマイダン革命とその後」である。


 松里氏は2014年2月のユーロマイダン革命を2021年の最初の本、『ポスト社会主義の政治』(ちくま新書)でも「ウクライナ憲政史に拭いようのない汚点をのこした」と厳しく断罪していた。ここでくわしく全過程を追っている。その結論は、この革命の原因、本質を「ウクライナ内政の地政学化」とみるというものである(93頁)。

 

 ウクライナでは、貧困、貧富の格差などの社会問題を社会問題として解決しようとする政治勢力が争って、選挙のたびごとに政権交代がおこっていた。その間に争い合う勢力がともに弱まり、「EUに入りさえすれば経済は繁栄し、汚職もなくなる」と固く信じる階層、勢力、「地政学派」が形成された。これがマイダン派を生んだ。

 

 2013年11月30日の最初の警官隊の実力行使はウクライナ全土で運動に火をつけた。翌年2月18日、マイダン派は2004年憲法への回帰の要求を政府に求めて、議会に向けてデモをかけた。衝突の結果、デモ隊、警官側に20名ほどの死者が出た。2月20日、マイダン派約3000人が研究所通りで警官隊と衝突した時、銃撃があり、47人から77人とされる死者が出た。この銃撃は警官隊がやったという支配的な説のほかに、マイダン側が管理していたホテルから第三者が撃ったという説があると松里氏は、オタワ大学カチャノフスキー教授の説を紹介する。さらに虐殺の実行者だと自認するグルジア人特務機関員の告白ビデオも紹介する。この人物は呼び集められた中にはウクライナの国会議員、元アメリカ軍人、リトアニア人もいた、カオスをおこすため無差別に撃てと言われたと言っている。

 

 松里氏はこういう暴露情報をすぐには信じてはならないと留保を置いているが、ウクライナ政府筋の反論は弱いと確認している。2月20日の虐殺が自作自演であったことが証明されれば、マイダン政権が存続できたか、疑問になると松里氏はいう。

 

 この虐殺事件に対する憤激がヤヌコヴィチ政権に向けてたかまり、独仏ポーランドの仲介で大統領と野党との交渉がなされ、2004年憲法の復活、ヤヌコヴィチの辞任、マイダン派の武器放棄の合意が21日夕刻に結ばれたのに、武器引き渡しがなされず、21日にヤヌコヴィチ大統領は逃亡したのである。

 

 マイダン革命のこの帰結に対する松里氏の怒り、絶望は深い。彼はヤヌコヴィチにたいして、「なぜ大統領執務室にとどまり、自決しなかったのか。街頭暴力が憲法体制を覆そうとするとき、憲法に殉ずるのが大統領の任務ではないのか」と詰問している。いい加減な覚悟の外国の研究者が言える言葉ではない。松里氏はマイダン革命を完全に否定的にみているのである。

 

 2月23日、ハルキウ市で南東ウクライナ・クリミア各級代議員大会が開催された。1000人以上のマイダン派が場外から圧力をかけるなかで、大会はマイダン革命を糾弾し、ウクライナに憲法秩序と法治主義が復活するまで、地方自治体が国家権力を掌握すると決議を採択した。松里氏は「勇ましいが、内容がない」と厳しいが、いずれにしても国家分裂の始まりとなったことに代わりはない。キーウでは、2月23日に、最高会議がヤヌコヴィチを解任して、トゥルチノフを大統領代行に任命した。ユーロマイダン政権の誕生である。


 松里氏はこの変革に外部勢力、米国の介入、バイデンとヌーランドの工作があったという議論には、前章末のオバマへの言及以外はまったく触れていない。

 

住民意志に基づく分離

 

 マイダン革命はクリミアとドンバスの分離紛争を生む。まず松里氏は、第三章「『クリミアの春』とその後」でクリミアを取り扱う。クリミアは2013年からウクライナを訪問し、調査を開始した松里氏の第一の現場であったところで、叙述は詳細をきわめている。クリミアとセヴァストポリがロシア国民の国土意識にとってもつ意味については、私の『即時停戦論』をみていただきたい。

 

 松里氏は、「クリミア人の多くはソ連の1964―70年代がクリミアの黄金時代だったと考えている」と言い、ウクライナの90年代のクリミア政策は分離主義を克服するのに工夫が足りなかったのではないかと指摘している。異性を口説くなら、金を惜しんではいけないと説教しているのは笑えるところだ。

 

 1990年7月、ウクライナがソ連内での主権宣言をだすと、クリミア州は91年1月の住民投票で「ソ連の連邦主体として」クリミア自治共和国の復活を支持した。たちまちウクライナ最高会議はクリミア自治共和国の復活を認めた。

 

 ウクライナが独立すると、92年ウクライナとクリミアの権限分割条約が結ばれた。九四年にクリミアの大統領選挙が行われると、当選したのはクリミアのロシア編入を求める勢力の代表メシュコフであった。メシュコフ大統領のロシア編入運動は失敗し、ウクライナ最高会議は95年3月、クリミアの憲法と大統領職を廃止した。

 

 クリミアの最高会議選挙では、その後共産党が第一党を占めたが、2004年のオレンジ革命でウクライナの大統領になったユシチェンコは自分の息のかかったギリシア人ジャルティをクリミアに送り込み、クリミア首相にさせた。これをマケドニア人支配とよんでいる。だが、その結果、2010年からの1、2年間に「ウクライナ支配下の黄金時代」といわれる事態が出現した。その後外来の指導者の政治にたいする土着エリートの反発から、ロシア統一党のアクショーノフが台頭する。

 

 マイダン革命の前からクリミアではマイダン派は警戒されていた。マイダン革命がおこると、2月10日ごろ、コンスタンチーノフ最高会議議長とアクショーノフらはキーウのマイダン政権を打倒する他ないと決断した。
 2月19日、コンスタンチーノフ議長はモスクワを訪れ、ロシアの要人と会った。2月21日、キーウからヤヌコヴィチ大統領が逃亡すると、プーチンは側近と話して、クリミアを併合するとの意思を伝えたのである。

 

 しかしこのとき、プーチンにはクリミア併合のプランは立てられていなかった。2月24日、下院議員スルツキーを団長とする議員団がシンフェロポーリを訪問した。23日からクリミア・タタール人は集会を開き、マイダン革命の精神にしたがって、クリミア政府を改組せよと要求した。26日、コンスタンチーノフ議長は最高会議を召集した。クリミアのロシア編入に反対するモギリョフ首相を解任するつもりであった。数千人のタタール人のデモ隊はこれを許さないと圧力をかけた。コンスタンチーノフ議長は定数割れで最高会議の流会を宣言した。

 

 この結果がプーチンに報告され、プーチンは27日午後、ロシアの特殊部隊を派遣し、最高会議と政府建物を占領させた。翌日、ロシア人部隊は首相を建物に入れず、最高会議議員のみを通した。最高会議は成立し、首相は解任され、後任にアクショーノフが選ばれた。同時にクリミアとウクライナの関係を国家連合化することを問う住民投票を5月25日におこなうという決議をあげた。3月3日、最高会議幹部会は投票を3月30日に繰り上げると決定した。3日後、最高会議はさらに3月16日に繰り上げることを決定した。

 

 2014年3月16日におこなわれた住民投票を松里氏はクリミアの現地で観察した。


 「クリミア自治共和国選挙管理委員会の発表によれば…投票率は83・1%、有効票のうち『①ロシアに連邦構成主体として参加』が96・8%、『②ウクライナの連邦化を前提としてウクライナに残る』を支持した者が2・5%であった。」
 「この結果に基づき、翌17日にはクリミア最高会議がクリミア自治共和国の独立を宣言し、ロシア大統領がそれを承認する大統領令を出した。セヴァストポリ市に関しても同じプロセスが進み、3月18日、ロシア大統領とクリミア・セヴァストポリ指導者は両『国』のロシアへの編入条約に調印した。この手順は、ウクライナ憲法に定められた領土変更手続きを蹂躙している。国連も、3月16日の住民投票の法的効力は否定している。ただし、ウクライナのソ連からの独立も、ソ連の離脱法を蹂躙して行われたので、因果応報という印象は禁じえない。」(241―2頁)


 松里氏はそう書いている。つまり、クリミアの独立、ロシア編入は住民の意志にもとづいており、正当合法だと認められるべきだと言っているのである。

 

ドンバスの分離独立戦争

 

 ドンバスの状況は第四章で説明される。


 だがこの章は端的に「ドンバス戦争」と題されている。ドンバスの2州のうち、ドネツク州は松里氏がたびたび訪問調査した。クラマトルスクとマリウポリの市行政と企業との関係について書いた英文の論文はアメリカで賞をもらっている。

 

 ドネツク州は、独立当時ウクライナ共産党の支配地であったが、その後は「赤い企業長」が権力を握り、やがて地域閥やオリガーク政党が乱立した末に、ヤヌコヴィチ支持の地域党が圧倒的な支持をうるようになった。それが2004年のオレンジ革命でヤヌコヴィチが追い出されたあとも続いた。今度はドネツク最大の富豪アフメトフが登場してくるが、2010年になると、ヤヌコヴィチが復活して、ユシチェンコと争うようになる。松里氏はマイダン革命前夜のドネツク州は「閉塞感」の中にあったとみている。

 

 マイダン革命が起こり、ヤヌコヴィチが逃亡すると、この地で分離派が動き始めた。
 分離派の戦法は州議会・行政府の建物の占拠だった。建物を占拠した分離派は州議会を開き、ウクライナの連邦化を要求せよとの最後通牒をだす。しかし、指定された4月7日に議員たちは議会に出てこない。そこで集まった人々がドネツク共産党の幹部でドネツク大学助教授リトヴィノフが書いて来た「ドネツク人民共和国主権宣言」を採択したのである。

 

 松里氏は、数カ月後、あなた方はマイダン派と同じ方法で権力を組織したのではないかと最高会議議長となったリトヴィノフらに質問している。「その通りだ」という返事がかえってきたと書いている。

 

 分離派は住民投票に進もうとした。だが、プーチンが住民投票の延期を提言した。松里氏は、このころプーチンはドンバスは分離派をトップにおいたままウクライナに戻すという構想をまとめつつあったのではないかとみている(322頁)。

 

 分離派は5月11日に住民投票をおこない、ドネツク人民共和国の独立が承認されたとしたが、州内にはタルータ知事と人民共和国の二重権力状態が続いていた。事態を変えたのはウクライナ政府がおこなった5月26日ドネツク空港空爆であった。タルータ知事は州都をマリウポリに移すと、そこへ逃げて行った。

 

 松里氏は、この5月26日をもって「ドンバス戦争」の開戦日とすべきだと主張している。ウクライナ軍が火砲にたよって民間家屋を攻撃したのに、人民共和国側はウクライナ兵士への攻撃、塹壕攻撃で応じるようになった。その結果、住民は人民共和国を自分たちの庇護者だとみなすようになったと確認している。

 

 さらに第五章「ドネツク人民共和国」では、この共和国の要人たち、さまざまなポストについていた人々の横顔、意見が紹介されている。

 

 最後に松里氏は書いている。
「ドンバスの人々がパトロンとしてのロシア、いまや母国となったロシアにいろいろ不満を抱くにしても、西側が自分たちに対してやったことへの怒りが勝るうちは、彼らが地政学的志向を変えることはないように思う。」

 

欧米の援助背景に対立激化

 

 最後は第六章「ミンスク合意から露ウ戦争へ」である。

 

 この章の冒頭に「分離紛争解決の五つの処方箋」が挙げられ、説明されているが、これはとくに解明的な点がみられない。

 

 処方箋の第五に「パトロン国家による親国家の破壊」をあげ、その例としてウクライナ戦争を挙げているのは疑問である。ロシアがウクライナ国家を破壊しようとしたと言うのは正しいだろうか。

 

 本論に入って、松里氏は、ウクライナが、とくにゼレンスキー政権がミンスク合意を実行できなかったことを強調している。ミンスク合意の否定と並行して、ゼレンスキーはロシアの傀儡である人民共和国指導部は相手にしないという姿勢を鮮明にした。2019年12月のパリ首脳会談ではミンスク合意を実施する気がないということを明言した。それでもこのときの合意には捕虜交換や地雷撤去など、実務的な前進につらなる合意もなされた。これはロシア側の新大統領補佐官コザクの努力によるものと説明されている。

 

 2021年にはいると、ウクライナ政府の姿勢が再強硬化した。これはアゼルバイジャンがナゴルノ=カラバフ戦争で大勝したのを見たゼレンスキーが、分離紛争を軍事的に解決できる、無人機ドローンが有力だと思い込んだのではなかろうかとみている。このあたりで、ゼレンスキーのクリミア・フォーラムの企てに言及されてよいと思われる。

 

 ロシア側もミンスク合意に見切りをつけて、ウクライナ戦争に向かうことになるとして、説明するが、結局、2月22日の開戦演説からロシアは「ドンバスの保護国化」ではなく、「ウクライナの破壊」に移ることを決めたのだと氏は主張するが、論証不足の感は否めない。ロシアはキーウ占領・政権打倒に失敗したために、領土獲得戦争に切り替えたのだと主張されている。

 

 その中で、3月29日のイスタンブル和平交渉のことが触れられ、「停戦合意が成立しそうになったが、欧米諸国の反対で流産した」と簡単に扱われている。ここも不満である。この点は私の本を見ていただきたい。

 

 ウクライナ戦争がロシア・ウクライナ戦争とともにロシア・欧米戦争に展開していく重要な分岐点である。国際社会の反応が厳しくなったのは、体制変更戦争なら日常茶飯事だが、領土獲得戦争は許されないからだと書いているのも、受け入れがたい。

 

 終章「ウクライナ国家の統一と分裂」では、松里氏は「分離紛争」はどうなるかについて、予想を試みている。そこで松里氏があらためて批判するのが「『国家の領土は広ければ広いほどいい』、『領土を失うのは手足をもがれるのと同じ』といった情緒的な国家表象」である。松里氏はこの国家イメージをもちつづければ、分離紛争を防止解決できないと断言する。これに対置されるのは、「領土には最適規模がある」、維持するのにコストがかかりすぎる地域は放棄割譲する発想をもつことである(488―9頁)。

 

 だが、当事者がそう思っても、それを許さない力が働くと、紛争は永続化する。
 松里氏は、2015年のハルキウの社会学者が同州住民の2人に1人は「ドンバスなしのウクライナ」というスローガンを支持していると語ったと書いている。「ドンバスもクリミアもないウクライナ」という主張は実は西部ウクライナでも強い。

 

 しかし、「ドンバスもクリミアもないウクライナ」ということは2016年頃から口に出せなくなった。松里氏は、「国境線を変えられては困る欧米や国際機関が、援助をテコにウクライナを『励まして』、強硬姿勢に戻したと思う」と言いきる(490頁)。

 

 この結論は深刻であり、重要である。私たちは、ウクライナ戦争は即時停戦しなければならない、停戦できるはずだと主張するにあたって、重要な支えを松里氏の著書『ウクライナ動乱』から得ることができる。

 

(9月21日「今こそ停戦を」シンポジウム2より)

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