いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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米国の介入に抗したチリの闘い 武力で導入された新自由主義 血生臭い謀略と弾圧に対峙した歴史

 

 「El Pueblo Unido Jamas Sera Vencido!」(団結した民衆は決して敗れない!)――南米チリの首都サンティアゴの中央広場に集まった数万人の大群衆の合唱がこだました。チリでは12月19日、1973年9月11日のピノチェトによる軍事クーデターによってアジェンデ人民連合政府が転覆されて以降、約半世紀の時を経て、再び左派政党の大統領が誕生した。この半世紀、チリを皮切りに南米は新自由主義経済に侵食され、米国の経済支配の実験場とされてきた。「米国の裏庭」とされ常に軍事力と経済力による直接的干渉と対峙した攻防は、謀略や暴力が入り混じる苛烈なたたかいの歴史であり、それは現在、世界を覆う新自由主義の凶暴な正体を象徴するものであった。世界に先駆けて歴史的転換点を迎えたチリをめぐる新自由主義勢力と人民大衆のたたかいの歴史的経過を振り返ってみたい。

 

アジェンデ政権転覆から半世紀

 

 1960~70年代、欧米列強諸国からの独立を希求する中南米では、親米政府を打倒したキューバ革命(1959年】後に社会主義を掲げた国家建設が始まると、その影響はボリビア、ニカラグア(サンディニスタ革命)、グアテマラ、コロンビア、エルサルバドル、ペルーなど南米全域に波及し、各国に大衆的な社会運動組織が作られ、それらが横に繋がりながら影響力を拡大していた。

 

 その急速な拡大を脅威と見なして攻撃したのがアメリカであり、各国に親米傀儡勢力をつくり、CIA(米中央情報局)が関与してそれらに膨大な秘密資金や武器を提供するなど直接的、間接的な干渉をくり返した。

 

 当時のチリでは、主要生産物である鉱物資源(銅など)の価格を米国が決め、低価格で米国が独占的に買えるとり決めがなされ、米企業が鉱山を支配下に置く一方、多くの国民は貧困状態に置かれていた。親米政権は米国の経済支配に甘んじ、米国の経済顧問をチリに招き入れ、インフレ対策と称して、労働者の賃金を上昇させないことや、公共予算の大幅削減、日用品と生活インフラに対する公的支援の停止を勧告。そのようにしてチリを長期的な不況に陥らせて国内産業を壊滅させ、先進国に低廉な原材料を提供させる植民地的従属関係を押しつけていた。

 

 チリをはじめ南米各地で高まる革命運動に対抗して米国(ケネディ政府)は、「進歩のための同盟」なる各国の反共同盟を組織し、チリをその中心に位置づけて膨大な援助資金を投入。だが、それらは利子付きの借款であり、建設業に米国企業から資材を購入するなどの条件や高い利息に縛られ、人々の生活水準は長期にわたって低いままに置かれた。

 

 1970年のチリ大統領選では、「人民連合」(左派政党連合)から出馬した、医師であり、社会主義を標榜する政治家であるサルバドール・アジェンデが圧勝した。アジェンデは、米企業に支配された銅をはじめとする鉱山や主要企業の国有化、農地改革、国営企業労組の経営参加などを公約にして社会主義体制の樹立を主張し、労働者や勤労市民に支えられていた。

 

群衆に向かって演説するアジェンデ大統領(1970年8月、サンティアゴ)

 親米右派陣営の選挙資金の大半をCIAが援助するなどの内政干渉をおこなってきた米国は、CIAを通じてメディアや出版社向けに大規模な助成金を注入し、「アジェンデが勝てば、共産主義ソ連による支配が訪れる」「彼らが提供するのは血と痛みだけだ」「必要なのは自由と民主主義だ」などのキャンペーンを新聞、ラジオ、パンフレット、ポスター、ダイレクトメール、垂れ幕や壁画などを使って大量に宣伝。とくにチリが保守的なカトリック国であることから、キリスト教徒や女性をターゲットに共産主義の恐怖心を煽る作戦を展開した。

 

ヘンリー・キッシンジャー

 それでもアジェンデ支持の勢いは収まらず、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官は、アジェンデの当選阻止のためにキリスト教民主党議員の買収とクーデターという謀略に着手。シュナイダー陸軍総司令官にクーデターを持ちかけるが拒否されたため、軍部の反シュナイダー派に秘密裏に資金と武器を提供して彼の殺害にまでおよんだ。当時、米国のコリー大使は「アジェンデ政権下では、ナットもボルトも一つとしてチリに入れるのを許さない。あらゆる手段を使ってチリを最低の貧困状態に陥れてやる」と豪語している。

 

 この米国の手段を選ばない内政干渉に対するチリ民衆の反発を背景に、アジェンデは右派候補に大差を付けて大統領に選出された。

 

 大統領に就任したアジェンデは、「帝国主義者、独占、大地主の支配に終止符を打ち、チリにおいて社会主義の建設を開始する」という人民連合の綱領に沿い、銅山など主要産業の国営化や、地主から土地を接収して国営牧場を創設するなどの農地改革を進め、労働者の権力参加、男女同一賃金、医療保障など一連の社会保障政策、大々的な住宅提供プログラム、公教育の拡充などの公約実現をおし進めた。

 

 これらの社会主義政策が南米諸国に波及することを憎悪した米国は、「我々はラテンアメリカを手放さない」(ニクソン)と宣言し、表向きは敵意を隠しながら、南米諸国に対してチリとの経済・金融上の協力関係を禁じ、経済的に追い詰めながら混乱と無秩序を作り出すための工作を強めていく。

 

 米国からの新規借款の停止や、世界銀行や米州開発銀行(IDB)による融資の停止、米国内のチリ政府の口座を閉鎖、銅の精錬所に必要な部品の輸出停止、米国の銅備蓄を放出して輸出の80%を銅が占めるチリの経済に打撃を与えるなどの経済封鎖作戦を実行し、チリに経済的従属の継続を迫った。

 

 さらに野党勢力やキリスト教民主党に資金援助をおこなって手なずけ、人民連合政権を内部から分裂・崩壊させることにも力を注いだ。

 

金融封鎖と軍部の買収  米国の制裁と干渉

 

 米国の植民地支配において、経済とともに重視したのは軍のコントロールだった。南米諸国の国軍将校に対する米国の教育・訓練プログラムは、すでに1946年からパナマ運河地帯でおこなわれ、ケネディ時代には「米国陸軍米州学校」と改名して強化された。

 

 チリに対しても、1960年代に「軍の近代化」の名の下に米国指揮下の訓練プログラムに組み入れ、反共産主義教育や反乱鎮圧活動の訓練を受けさせた。1950年から1969年までの間に4000名ほどのチリ人将校が米軍の訓練を受けており、米国はここで育成した親米将校らをチリの内政干渉において最大限駆使した。

 

 また米国は軍事援助顧問団(MAAG)をチリに派遣し、事務局をチリ国防省内に設置。1973年のクーデターを機に樹立されたピノチェト軍事政権の要職に就いた者の6名が、この米国陸軍米州学校の卒業生であった。アジェンデ政府への経済制裁のなかでも、チリの軍に対する経済支援は強化され、その額は4500万㌦にのぼっていた。

 

 その間にもアジェンデ政府は、公約実現に力を注ぎ、銅山や通信施設だけでなく、銀行、流通、石炭や鉄鋼の原材料、繊維などの重要産業を国営化の対象とし、そこでの労働者の権限を強め、公共の富を生み出すことによってより多くの公的資金を社会福祉に振り向けた。当時のチリでは、50万人以上の児童が栄養不足を原因に肉体的、精神的発達が遅れる状態にあり、アジェンデ政府は児童1人あたり1日半㍑の牛乳を支給し、政府補助金によって電気などの公共料金も半分以下に値下がりした。農地改革でも大規模農場を国が接収し、小作農の共同組合組織に託され、地主には公正な補償金制度で代償が支払われた。

 

 米国の経済制裁の下でも1971年のチリの工業生産は14%の伸びを示し、GDPは8・5%増加。失業率は8%以上から4%前後にまで低下し、インフレ率も36%から22%にまで下がった。だが、発足後1年後から、銅産業に対する米国による妨害や、米国主導の国際金融機関による金融封鎖によって経済情勢は徐々に悪化を始める。

 

 当時、社会主義国の支柱であったソ連が、ラテンアメリカを米国の所有物と非公式に認めていたこともあり、「自主独立」路線をとってチリの支援に対して消極的であったことも経済的苦難の背景にあった。「自由選挙によって民主的に生まれた初の社会主義政権」という評価が世界的に振りまかれる一方で、アジェンデ政権の転覆を目論む米国が背後で糸を引く血生臭い暴力的介入は過熱していった。

 

1973年の軍事クーデター 米国を背後に動いたピノチェト

 

ドキュメンタリー映画「チリの闘い」

 アジェンデ政権の発足から1973年のピノチェトによる軍事クーデターに至る過程は、それを克明に記録した長編ドキュメント映画『チリの闘い』(2016年公開、パトリシオ・グスマン監督)に詳しい。同監督は、この映画撮影のためにピノチェト独裁政権から政治犯として連行され、フィルムを守るためフランスへの亡命を余儀なくされた。

 

 地方選挙や国政議会選挙でも躍進する人民連合の勢いを押しとどめられないことを悟った米国と親米右派勢力は、国民投票での転覆を諦め、街頭闘争へと転換する。チリの政治的危機を作り出すためには手段を選ばず、謀略は多岐にわたった。

 

 経済封鎖によって慢性的な物不足にあるなかで、米国資金の支援を受けた業者による生活必需品の買い占めと闇市がそれをさらに深刻化させた。CIAなどの米国機関は、チリ国内の右派組織「祖国と自由」に70万㌦、同じく「エル・メルクリオ」に70万㌦を提供して、食料不足をもたらした政府を非難する「から鍋デモ」をくり広げさせた。

 

 さらに、米国で研修を受けた輸送業経営者ら百数十名が反政府集会を開催。その後、米国からのスペア部品の輸入が絶たれたために輸送手段の大半が機能不全になったことを理由に、全国4万の輸送業経営者が無期限ストライキに突入した。攻撃の矛先を、企業の国有化や反米的な政策をとるアジェンデ政権に向けたもので、同様のストライキは銅山でもおこなわれた。

 

 当時米国務長官だったキッシンジャーは自著の中で、CIAが運送業者のストに1日に1800㌦を提供したことを認めている。またニューヨークタイムズ紙の報道によれば、CIAからのスト参加者への支援金は総額500万㌦にのぼっていた。

 

 これに対して、アジェンデを支持する労働者たちは、「産業コルドン(地域労働者連絡会)」を組織して数百におよぶ工場や企業、鉱山や農業関係施設を管理下に置き、工場のトラックを人員輸送手段に使うことで交通網の麻痺を回避し、大多数の労働者が政府の呼びかけに呼応して生産に従事した。右派団体は街頭でストに参加しないバスやトラック運転手の襲撃をくり返したため、街頭では50万人規模の人民連合派のデモがおこなわれ、反政府ストはようやく終息を迎える。

 

 この過程では、政府主導の変革をこえて、現場の労働者、主婦、学生、農民たちが「Poderpopular(人民勢力)」といわれる地域部隊を組織し、雇用主などの右派に対抗する基盤となった。買い占めによる物不足を解消するために業者を介さずに各家庭に必需品を送り届ける直接供給制度を確立したり、経済封鎖で原料や部品が不足した工場では、輸入に頼っていた部品の自国生産に着手するなど、現場からの変革が全土に広がった。米国からの暴力的干渉のなかででも、合法的手続きや議会内の多数派工作にとらわれて膠着する政府と、徹底した変革要求が渦巻く現場との対比を、グスマン監督の映画は映し出している。

 

 議会内では、キッシンジャーが莫大な援助資金を投じたキリスト教民主党が反旗を翻し、アジェンデ政権を違憲とする決議案を下院で可決させた。その政情不安に乗じて米国は攻勢を強め、国政選挙でアジェンデの弾劾に失敗すると、1973年6月にクーデター未遂事件を引き起こした。戦車6台と輸送車が大統領府(モネダ宮殿)を砲撃した。反乱軍の主謀者は米国の資金援助を受けていた陸軍の一部であり、選挙で選出された政権に対して国軍が攻撃を仕掛けた42年ぶりの事件となった。

 

 それでもアジェンデ政権の支持率は依然として高く、同年9月には史上最多となる約100万人の国民が首都サンティアゴに集結した。クーデター失敗を喜ぶ無数の市民で街頭が埋め尽くされるなか、人々は未遂事件を知りながら黙認していた(ピノチェトを含む)将校らを退役させる処分を求めたが、アジェンデは強権的措置をとることは現政権の合法性を脅かすとして将校らの処分を拒否。かわりに自らの政権の信任を国民投票で問うことを発表した。

 

 ところがそれが仇となった。国民投票実施日であった1973年9月11日、新たに陸軍司令官に就任したピノチェトを中心にした軍上層部がクーデターを実行。米国から提供された武器によって軍は制圧され、明け方には空軍の戦闘機が首都上空を飛び、大統領府を包囲した反乱軍はアジェンデに辞任と国外退去を要求した。このときすでにチリ沿岸には米国の駆逐艦4隻が、反乱軍との合同作戦に参加するために接近していた。

 

クーデターによる砲撃を受けるチリ大統領府・モネダ宮殿(1973年9月11日)

 アジェンデは、反乱軍の要求を最後まで拒否して大統領府に立てこもったが、空からはロケット弾による空爆、地上では砲撃や銃撃が入り混じる総攻撃を受け、燃えさかる大統領府の中でアジェンデは命を絶った。

 

 同時に、米国政府に追従したピノチェト率いる軍によってチリ国内の大衆運動は徹底的に弾圧され、街や鉱山、農地での武装抵抗はまたたく間に制圧された。数千人にのぼる市民や活動家が拘束され、チリ・スタジアム(サッカー場)に集められ、見せしめの如く銃殺された。
 中南米では現在でも「9・11」といえば、2001年の米同時多発テロではなく、民主主義が踏みにじられた1973年のチリ・クーデターのことを指す場合が多い。

 

米国と協調した反乱軍はアジェンデの側近や多くの市民を拘束・投獄した(1970年9月11日)

反乱軍が数千人の市民や活動家を強制的に収用したチリ・スタジアム(1970年9月)

 グスマン監督は、この日から民主勢力が再組織され、多様な形態の抵抗が始まったことにも触れ、「チリの闘いはまだ終わっていない」と強調している。

 

 アジェンデは死の間際、唯一残ったラジオ放送局から最後の演説をおこなった。

 

 「我々のまいた種は、数千のチリ人民の誇り高き良心に引き継がれ、決して刈り取られることはないと確信する。軍部は武器を持ってわれわれを屈服させるだろうが、犯罪や武器をもってしても歴史の進歩を押しとどめることはできない。歴史は我々のものであり、人民がそれをつくるのだ。…我が国においては、ファシズムによるテロが以前から存在している。彼らは、行動する義務を負う者たちが沈黙している前で、橋を吹き飛ばし、鉄道を寸断し、石油とガスのパイプラインを破壊し、我が国を損なってきた。歴史は彼らを裁くだろう。…
 人民は、破壊され、蜂の巣にされたままであってはならない。屈服したままであってはならない。我が祖国の労働者たちよ! 私は、チリと、その運命を信じている。私に続く者たちが、裏切りが支配するこの灰色で苦い時代を乗り越えていくだろう。遅かれ早かれ、よりよい社会を築くために、人々が自由に歩くポプラ並木(大通り)が再び開かれるだろう。
 チリ万歳!
 人民万歳!
 労働者万歳!」

 

受継がれる闘いの歴史  諦めない民衆の力

 

 かくして共産主義を「暴力的」と非難する自由主義国家・米国と、それに従った親米右派勢力の残忍極まる暴力によって、チリの民主主義は徹底的に破壊された。

 

 そのもとでピノチェトは軍事独裁政権を樹立し、それを支援する米国から、新自由主義の提唱者であるミルトン・フリードマンを中心としたシカゴ学派の経済学者たち――いわゆる「シカゴボーイズ」を経済顧問団として招き入れ、政治、経済、芸術、文化、教育に至るまで利益至上主義の価値観による国家運営を推進した。

 

 チリは新自由主義の実験場に位置づけられ、国営企業を次々に多国籍企業に売り渡し、外国からの輸入自由化、医療や教育を中心にした公共支出の削減、食料などの生活必需品の価格統制を撤廃した。フリードマンはこれを「チリの奇跡」と呼び、米国は同様の手法でアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルにも軍事独裁政権を成立させ、多国籍企業の草刈り場にした。

 

独裁政権を敷いたピノチェト(左)と握手するキッシンジャー米国務長官(1976年)

 それによって80年代半ばには、チリの対外累積債務は140億㌦にまで膨れ上がり、超インフレが襲い、失業率はアジェンデ政権下の10倍・30%に達してチリ経済は破綻した。1988年には45%の国民が貧困ライン以下の生活を強いられる一方、上位10%の富裕層の収入は83%も増大するなど、貧富の格差が極限にまで拡大した。同時にCIAが暗躍する反政府運動の弾圧は続き、チリでは90年の民政復帰までに、3000人をこえる人々が死亡や「行方不明」になり、拷問や投獄などの被害者は7万人をこえたとされる。国外に避難した人は100人あたり2人程度と見積もられている。

 

 『ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)』の著者として知られるナオミ・クラインは、自著の中で、フリードマンの「ショック療法」は経済の健全化ではなく、一握りの富裕層をさらに富ませ、中間層をも消滅させ、大多数を貧困化して社会を荒廃させただけで、その恩恵を受けたのは多国籍企業と「ピラニア」と呼ばれる投資家の小集団だけだったと指摘している。このような暴力(ショック)を起爆剤にした構造改革による野蛮な搾取、弾圧、公共の破壊は、9・11テロ後の米国内やイラクに至るまで実行された。だが、いまや南米をはじめ世界的に幾多の犠牲をともなってくり広げられた新自由主義の壮大な実験は、その失敗が明白になり、米国の支配は行き詰まりを迎えている。

 

 あれから半世紀の時をこえて、2021年12月、チリで「新自由主義の墓場にする」ことを宣言する新大統領が誕生した。35歳の新大統領ガブリエル・ボリッチ氏を含む若い世代にも「団結した民衆は決して敗れない!」の歌声とともに、このような苛烈なたたかいの歴史が受け継がれ、南米において狂気に満ちた軍事的、経済的謀略や内政干渉をともなう新自由主義を乗りこえた新しい歴史の端緒がひらかれたことを意味している。独立と民主主義を求める人々のたたかいは、激しい弾圧と紆余曲折は避けられないが、そのたびに増していく民衆の力を押しとどめることはできないことをチリ人民のたたかいは教えている。

 

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この記事へのコメント

  1. 佐々木 のり子 says:

    素晴らしい記事をありがとうございます。チリの戦いの歴史が理解できてきました。また、何故ブラジルが軍事政権であったかも、

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