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友好国を敵に回す愚かな対米追従 アラブで歴史的に培われた親日感情 中東研究者が警鐘

 中東を舞台にアメリカとイランとの一触即発、全面戦争の危機が高まり、そこに安倍政府が自衛隊を派遣しようとするなか、日本とイランとの歴史的な関係を見直し、アメリカのいいなりになって突き進むことがいかに日本の国益を失う愚かな道であるかを指摘する声があがっている。


 イランをはじめとするイスラム世界の人たちは、欧米に対しては時に激しすぎるほどの敵意を示す一方で、日本に対しては親しみの感情を持っている人が多く、それは歴史的に醸成されたものだ。そのことを、現地を仕事でしばしば訪れる中東研究者や船員たちが語っている。


 というのも19世紀以降、イスラム世界はイギリスやフランスなどのヨーロッパ列強によって分割・支配され、第二次大戦後はアメリカやイスラエルによる軍事侵略を受け続けてきたからだ。一方日本は、第二次大戦でアメリカによって広島と長崎に原爆を投げつけられ、国土は焦土と化し、壊滅状態になったにもかかわらず、その後めざましい復興を遂げた。イスラムの人たちのなかにはそのことへの驚きや尊敬の気持ちがあるし、とくに広島や長崎の被爆者に対しては強い同情心を持っている。また、イスラム世界に軍事介入しない平和国家・日本への共感もあるという。

 

原爆投下で廃墟と化した広島市街(1945年8月6日)

 たとえばイランの外交官を養成する教育機関・国際関係学院では、『SADAKO』という本がイラン人のなかで広く読まれていたと、中東研究者の宮田律氏が報告している。それは2歳のときに広島で被爆し、1955年に白血病で亡くなった佐々木禎子の伝記である。1979年のイラン革命後には、アメリカの罪をあばく展示がテヘランの旧アメリカ大使館でおこなわれていたが、それは広島、長崎への原爆投下の惨状を伝える写真の紹介から始まっていた。2018年の広島原爆記念日にイランのザリーフ外相は「1945年8月6日、アメリカは、世界で初めて原子爆弾を、しかも住宅地に対して使用した国となった。あれから73年後、アメリカは自国の核兵器を大幅に開発し、NPT核兵器不拡散条約にすら署名していない。アメリカの軍国主義は、人命に対する同国の無関心ぶりと同様、今なお終わっていない」とのメッセージを発している。

 

苦難の中での援助

イランの歴史に刻まれた日本人


 そのなかで敗戦間もない時期に、イスラム世界、ひいては世界に日本人の気概を示し、イランの人人の親日感情を醸成するのに貢献したといわれるのが、1953年の日章丸事件だ。

 

日章丸

 1951年、イギリスがイランで操業していた石油施設を、民主的に選出されたイランのモサデク政府が国有化した。その後、1953年8月にCIAとイギリスの諜報機関MI6の工作によるクーデターでモサデク政府は転覆され、親米政府が樹立されることになるが、それまでの時期、イランの石油積み出し港ではタンカーの姿がまばらになる一方、生産された石油がだぶついて油田地帯の石油タンクは満杯になっていた。イギリスのアングロ・イラニアン石油会社(のちのBP)が他の国際石油メジャーと共謀して、イラン原油を国際市場から閉め出したからだ。


 続いてイギリスは中東に軍艦を派遣し、石油を買い付けにきたタンカーを撃沈することを世界に表明、経済制裁を断行した。このとき出光はタンカー日章丸を極秘でイランに差し向け、53年4月にはイランのアバダン港に到着。原油2万200㌔㍑を満載し、海上封鎖を突破して翌5月に川崎港に帰港した。イランではこれを新聞が「快挙」と大きく報道し、日本国内でも「イランと日本の友好を象徴するもの」と称賛する世論が大きく高まったと、中東研究者が書いている。アングロ・イラニアンは積荷の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴したが、後に取り下げた。

 

 また、昨年末に亡くなったペシャワール会・中村哲医師の、アフガニスタンの人たちのために全身全霊を注いだ仕事も忘れることはできない。中村哲医師は1980年代に医療支援活動でパキスタンに赴任し、2001年からはアフガニスタンで井戸を掘る灌漑事業に乗り出した。治安が著しく悪化し、国際社会の関心が薄れるなかでも、支援を継続し続けた日本人の姿が、現地の人たちの中に強い印象を残したことは、中村医師に対する国境・国域をこえた追悼行事で世界中に認知されている。

 

自主外交できず
油田開発も経済交流も放棄

 

アザガデン油田(イラン西部)

 ところが、アメリカに追随し、イランやイスラム世界との間で歴史的に培ってきたこうした友好関係をみずから投げ捨てる政策を、日本政府が実行してきた。その一つの典型が、2010年のアザデガン油田問題だ。

 

 当時、アメリカのブッシュ政府はイラン敵視政策をエスカレートさせ、イランの核開発を中止させるための経済制裁に踏み出した。それ自体、アメリカの中東支配の拠点であるイスラエルの核保有は認めつつ、アメリカに対抗する国の核開発は平和目的であっても認めないダブルスタンダードにほかならない。


 同年6月、国連安保理がイランの核開発に対して追加制裁決議をあげると、アメリカ政府はこれにもとづいてイラン制裁強化法を決定した。イランへの外国からの資金流入を抑えるため、石油資源開発に携わる企業や外国銀行を、制裁対象とする企業リストに加えることにしたのである。アメリカ政府は日本政府、さらに三菱UFJなど日本の3メガバンクに対し、アメリカ政府が指定するイランの企業・銀行との取引をしないよう要求した。イラン制裁強化法はアメリカの国内法だが、これを日本にも強引に適用しようとした。


 すると当時の民主党・菅政府はアメリカにいわれるままにこの要求を受け入れ、9月には貿易保険の制限やエネルギー関連分野の新規投資を禁止するイラン制裁案を閣議了解した。そして翌10月、国際石油開発帝石(INPEX、筆頭株主は経産相)は、イランのアザデガン油田開発から完全撤退すると発表した。推定埋蔵量260億バレル、日産26万バレルと予想された世界最大級未開発油田の開発権の75%を取得して、「和製メジャー」誕生が期待されていたその寸前で、みずからその権益を放り出してご破算にした。


 こうして日本政府はみすみす貴重な石油資源を失った。そして日本の撤退を尻目に、中国石油天然気集団(CNPC)がアザデガン油田開発権の70%を取得した。自主外交を放棄してアメリカに追随するだけなら、大事な国益を失ってしまうという事実が突きつけられた。


 今回、アメリカのいいなりになって一触即発の中東に自衛隊を派遣することは、石油開発利権を失うどころではなく、自衛隊員を米軍身代わりの肉弾として差し出すことにほかならず、日本を報復攻撃の標的にさらすことにつながる。一旦戦端が切られると戦争は泥沼に陥るほかはなく、それは日本とイランの両国民に甚大な被害をもたらす事態に発展しかねない。先人たちが苦労して築いてきた日本と中東・アラブ諸国との友好関係を無にすることになる。戦争ではなく平和的解決をはかることが求められ、そのためにも独立国としての自主外交を実行することなしに、国民の生命・財産は守れないことを浮き彫りにしている。

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