いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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日韓の歴史的変遷から見る 植民地主義延長した戦後レジームの欺瞞とその破産 

 安倍政府は6月のG20直後の7月4日、韓国に対して半導体やスマホの製造に不可欠な三品目の輸出規制を発動したのに続き、8月2日には「ホワイト国」のリストから韓国を除外することを閣議決定した。これは28日に施行され、韓国には新たな輸出規制が課せられる。これに対して韓国政府は22日、日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を破棄すると発表した。今回の日韓関係の緊張を生んでいるきっかけは、昨年11月に韓国の最高裁が三菱重工に第二次世界大戦中に同社の軍需工場で労働を強制された韓国人の元徴用工らに対する賠償を支払うことを命じる判決を下し、三菱重工業が支払いを拒否していることである。安倍政府も三菱重工業を支持し、「1910年から1945年まで続いた朝鮮半島支配時代の請求権問題は、1965年に結ばれた日韓請求権協定により、完全かつ最終的に解決された」と主張している。安倍首相は今回の日韓関係の問題は「韓国が国と国との約束を守らないところにある」とくり返し主張している。日本と韓国のあいだには複雑で長い歴史があり、目前で起こっている事象だけをとらえても問題の本質は理解できないし、解決にはたどりつけない。日韓関係について歴史的視野に立って問題をさぐり、解決の道をみつける必要がある。

 

反安倍のプラカードを掲げた抗議集会(ソウル、15日)

 安倍首相がくり返している「国と国の約束」とは、1965年の「日韓条約」「日韓請求権協定」を指す。それは1910年の日韓併合に根源を持つものだ。第二次大戦終結までの35年間に及ぶ植民地支配とはいかなるものだったのか、それ以前、以後も含めて誰が何をしたのか歴史的な経過をはっきりさせないことには、問題の解決は遠のくばかりである。

 

明治維新後の朝鮮侵略 

 

 1868年の明治維新でうち立てられた絶対主義天皇制は、その成立当初から当時なお封建制度のもとにあって国の近代的統一をなし遂げていなかった朝鮮、中国への侵略を意図して突き進んだ。新興の資本主義国家として官製的な力によって立ち上がったものの、狭隘な市場であったために海外に植民地を求めたのが始まりだった。1869年1月に木戸孝允は「すみやかに天下の方向を一定し、使節を朝鮮に使わし、かの無礼を問い、もし服せざるときは罪をならしてその土(国土)を攻撃し、おおいに神州(日本)の威を伸長せんことを願う」と岩倉具視に建言している。天皇制政府は朝鮮侵略の口実をつくるため無理難題をおしつけ、「朝鮮の無礼な行為」をでっちあげようとした。

 

 天皇制政府は1874年2月に台湾に出兵した。75年には武力によって朝鮮に開国を迫り、76年2月仁川に6隻の軍艦を入港させ、不平等で屈辱的な修好条約の締結を迫った。朝鮮開港地に治外法権と領事裁判権を認めさせ、全港湾を日本艦船が無条件で利用できることなどを規定していた。

 

 天皇制政府は1894年2月の甲午農民戦争、いわゆる東学党の乱勃発を機に、清国の朝鮮への影響を断ち切り朝鮮を支配する好機としてとらえ、日清戦争に突き進む。日清戦争での清国の敗北は、列強による中国そのものの分割競争を激化させ、日本はさらに日露戦争で中国、朝鮮の支配をめぐって争い、1905年9月、日本政府は日露「ポーツマス条約」を締結し、朝鮮を支配する権利を認めさせた。1904年8月に第1回日韓協約により日本の顧問政治を実現した日本政府は11月に乙巳保護条約をおしつけ、特命全権大使として乗り込んだ伊藤博文は朝鮮の外交権を奪いソウルに総監府を置き、朝鮮支配を強めた。

 

 全朝鮮で反日闘争が激化し、朝鮮のいたるところで義兵闘争が噴き上がった。1907年から1911年にかけて天皇制軍隊が虐殺した義兵の数は1万7597人にもおよび、この数は日清戦争における日本兵の死者よりも数が多く、反日義兵闘争がいかに熾烈にたたかわれたか、また日本軍の弾圧がいかに残虐なものだったかを物語っている。1909年10月26日、ハルピン駅で「朝鮮万歳!」を叫び伊藤博文を狙撃し殺害した安重根は義兵の参謀中将であった。

 

 日本政府は1904年に決定した対韓施設綱領にもとづいて朝鮮併合を急いだ。銀行をおさえ、鉄道、通信、通商・貿易などの事業を独占し、鉱山開発の許可権を握り鉱山業を支配した。また土地の略奪を進めた。

 

 1909年ごろには事実上朝鮮を完全に植民地化したうえで、1910年8月20日に「日韓条約」を調印した。その第一条と第二条には、「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本帝国皇帝陛下に譲与す」「日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾しかつ全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」と明記させた。「併合」が朝鮮国王の自発的意志にもとづくものであり、日本はその申し出を受けて朝鮮を保護するために併合したかのような装いをとった。

 

 安倍首相はこれをもって現在でも「日韓併合は朝鮮側との合意にもとづくものであり、国際法に違反していない」とし、謝罪も賠償も必要ないとの態度をとっている。韓国側は「日韓併合」は武力による植民地化であり、国際法に違反しているとし、日本側に謝罪・賠償を求めている。

 

大量の軍隊派遣し支配 「日韓併合」の実態

 

 日韓併合後の初代寺内総督は、反日運動を弾圧するために憲兵警察制度を完成させ、憲兵政治を実行した。天皇制政府は陸軍二個師団、海軍二個分遣隊を朝鮮に派遣し、朝鮮のすみずみに憲兵警察を配置して支配した。1910年3月から1918年11月にかけて土地調査事業をおこない、肥沃な土地を農民からことごとく奪った。多くの農民は土地を失って小作農に転落したり、土幕民(掘っ建て小屋などに居住する貧窮民)や火田民(焼き畑=火田の耕作者)に転落した。全農家の80%近くが小作農に転落した。土地はカネと権力を持った日本人の手に集中した。山林も同様だった。さらに1910年12月には会社令を出し、民族資本の発展を抑え、日本資本を保護・育成した。当時の日本人労働者の賃金は、植民地・インド並みの低賃金であったが、朝鮮人労働者はその半分にすぎず、労働時間は12時間から16時間におよんだ。三井、三菱、住友、安田などの財閥は、朝鮮において低賃金労働者を酷使して急速に資本を拡大した。

 

 さらに1911年8月には朝鮮教育令を出し、教育勅語にもとづいて朝鮮人を「忠良なる国民――日本帝国国民」に育て上げるという「同化政策」を進めた。これは朝鮮人民の反日民族解放闘争を恐れ、それを骨抜きにするためのものであった。

 

 1929年から始まった世界恐慌のもとで1937年には中国との全面戦争、1941年には太平洋戦争に突き進んでいくなかで、朝鮮に対する支配もさらに残酷なものとなる。

 

 1938年2月には朝鮮人に対する陸軍志願兵制度を採用する。朝鮮人民の反日闘争を恐れた日本政府は、朝鮮人には武器を持たせないという方針からそれまでは朝鮮人を兵役にはつかせなかった。だが、中国や米英列強との戦争のために、朝鮮人を肉弾としてかり出すことが必要とされ、志願兵制度に踏み切り、43年8月には朝鮮人に対して徴兵制を適用した。

 

 さらに1937年末、石炭業界などに関連する三井、三菱財閥の要望を受け入れ、朝鮮人を労働力として日本に移入する方針を決定した。39年10月には国民徴用令を出し、朝鮮人強制連行を開始した。

 

 朝鮮総督は朝鮮教育令を改悪し、学校における朝鮮語教育と朝鮮語の使用を禁止した。太平洋戦争に突入すると朝鮮語の使用を禁止した。39年11月には朝鮮名を日本名に変えさせる創氏改名を強要した。

 

 朝鮮人の民族性を全面的に否定した天皇制政府は、敗戦の色が濃くなるにしたがって、朝鮮人を侵略のための肉弾、弾よけとして戦場へ、苦力として職場へ、帝国軍人のための性欲のはけ口としての慰安婦として戦場へ送り込むため、徴用、徴兵という名の「朝鮮人狩り」を組織した。そのすさまじさについて戦後関係者が「納得のうえで応募させていたのではその予定数になかなか達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲い、あるいは田畑で働いている最中にそれこそ羊か牛でも追うように棍棒を振り回し、トラックに無理矢理詰め込む」と証言している。家畜用トラックで釜山に運ばれ、釜山から荷物を運搬するように船艙に押し込められ日本へ連行され、炭鉱では坑内夫、鉄鋼所では操炉・圧延などもっとも過酷で危険な労働に従事させられた。

 

 朝鮮女性の慰安婦としての徴用もすさまじいものであった。「朝鮮人狩り」で働き手をすべて奪い、朝鮮婦人が生きていくためには売春まで含めたあらゆる仕事をしなければならないようにしておきながら、「カネもうけができる仕事を斡旋する」といって囲い込み、多くの婦人を日本軍の慰安婦として南方などの戦線へ送り込んだ。

 

 在日朝鮮人は1939年から45年にかけて約150万人が労働力として日本に連行され、そのうち約60万人が炭鉱に、約40万人が軍需工場に、約30万人が土建に、約15万人が金属鉱山に、約5万人が港湾に配属された。このほか軍人・軍属として約37万人が、従軍慰安婦として数万人が戦争に動員された。朝鮮内で強制労働に動員された数は450万人にのぼった。

 

 朝鮮併合前年の1907年には790人にすぎなかった在日朝鮮人は、こうして1946年には236万人から237万人に達した。

 

強制連行され炭鉱で働く朝鮮人坑夫

日本の敗戦後、仙崎港から引き上げる朝鮮人

米国は植民地機構を利用 韓国を間接統治

 

 日本の絶対主義天皇制の支配階級は1945年8月15日に敗北した。敗北するにあたって天皇を頭とする支配階級は、国体護持すなわち天皇と天皇制を残すことに全力をあげ、そのためにはアメリカにひれふし、アメリカの力に頼って戦後復興をはかる道をとった。

 

 1945年8月15日は朝鮮にとっては日本の植民地支配から解放された日であった。だが、今度は朝鮮に進駐したアメリカが「武装解除」すべき朝鮮総督府を利用し、朝鮮人民の自主的活動に大弾圧を加えた。アメリカは進駐に先立つ8月20日、朝鮮総督の阿部信行に対して「特例命令」を出し、南朝鮮の治安維持に全面的な責任を持つように指示した。9月8日にアメリカ第24軍が仁川に上陸し、翌9日にソウルに進駐した。アメリカは旧総督府の日本人の警察官、裁判官、官吏を解任するのではなく、米軍政庁のもとでそのまま働かせた。また日本天皇制政府が発布した植民地法をそのまま存続させた。

 

朝鮮戦争に参戦した米軍

 アメリカは1948年2月の単独選挙に反対する200万人のゼネストや済州島の武装蜂起に血の弾圧を加えた。済州島の島民の3分の1にあたる7万人あまりを虐殺した。朝鮮人民の闘争をことごとく弾圧したうえで、戒厳令状態のもとで5月10日に南朝鮮だけを切り離した単独選挙をおこない、7月20日にアメリカから45年10月につれてきた李承晩を大統領に据え、「大韓民国」をでっちあげた。李承晩はアメリカに頼って日本からの「独立」を達成しようとした根っからの親米派であった。だが、50年5月30日の総選挙で李承晩政権は惨敗した。210議席中44議席しかとれなかった。49年10月に李承晩に「北進武力統一」を宣言させたアメリカは50年6月25日、朝鮮戦争を引き起こす。

 

 朝鮮戦争は朝鮮への再侵略の機会を狙っていた日本の支配層にとって絶好の機会であった。なぜなら、朝鮮について精通している日本の支配層の協力がなければ、朝鮮についてまだあまりよく知らないアメリカが朝鮮侵略戦争を遂行することは難しかったからだ。アメリカが朝鮮南部占領支配の当初から旧総督府とその要人を協力させたのはそのためだった。

 

李承晩とマッカーサー

 第二次大戦後の初代駐日大使ロバート・マーフィは回顧録のなかで、「日本人の船舶と鉄道の専門家たちは、かれらの熟練した部下とともに朝鮮にいて、アメリカ並びに国連の司令官のもとで働いた。これは極秘のことだった。しかし、連合国軍隊は、この朝鮮をよく知っている日本人専門家たち数千人の援助がなかったならば、朝鮮に残留するのにとても困難な目にあったことであろう」と書いている。

 

 朝鮮戦争において天皇を頭とする日本の支配層は日本全土をアメリカの朝鮮侵略戦争の司令部、出撃・補給基地として提供し、戦争特需によって朝鮮人民の生き血をすすって肥え太った。それだけではなく、戦後アメリカのCIAと結びついてかつての特務機関の再編成をおこなった。「中野学校グループ」「河辺機関」「蒲田機関」「服部機関」「児玉機関」などがそれで、これらの特務機関はアメリカの方針に従って朝鮮侵略戦争の準備に狂奔するとともに、秘密裏に要員を集め戦場に送り込んだ。

 

 朝鮮戦争で朝鮮再侵略の手づるを残した日本の支配層は1952年、アメリカの指図に従って第一次日韓会談をおこなった。マッカーサー司令部渉外局長シーボルトは51年10月、「日本の韓国進出は、アメリカの極東政策の基本構想であり、朝鮮戦争に日本が公然かつ合法的に参加するために日韓会談を開き、日韓間の国交回復を図らなければならない」と日韓双方の代表に告げている。日本は朝鮮に対する統治権を放棄してアメリカの朝鮮支配を認めるかわりに、アメリカの戦略を補完することを条件に、朝鮮、台湾、フィリピンなどにふたたび侵出していく権利を得た。

 

 日本の支配層の朝鮮再侵略の野望は1965年の「日韓条約」締結によって具体化する。

 

 韓国では60年の「4・19革命」で李承晩が打倒された。アメリカは韓国人民の闘争を抑えこむために朴正煕をけしかけて軍事クーデターを引き起こし、軍事独裁政権を使って人民を徹底的に弾圧した。65年6月22日、日朝人民の反対を押し切って「日韓条約」が締結された。この条約は基本条約および、①漁業関係、②財産・請求権・経済協力関係、③在日「韓国人」の法的地位・待遇関係、④文化関係の4協定からなっている。

 

クーデターを起こした朴正煕(左)

 この条約によってアメリカは日本と韓国を政治的・経済的・軍事的に結託させ、米日韓軍事同盟を形成し、アジア戦略の遂行をはかることを目的としていた。

 

 62年2月には朴政権はベトナム派兵をおこなっていたが、この条約締結でさらに派兵を拡大した。74年のベトナムからの完全撤退までのべ32万人を派遣し、軍需利益で9億㌦を手に入れた。日本は韓国軍を国連指揮下の部隊という名目で日本に自由に出入りさせ、韓国軍に在日米軍基地で修理、燃料補給、訓練、治療などを受けさせ、ふたたびベトナムの戦場へ出撃させた。

 

 日韓条約の基本条約第二条は「1910年8月22日(日韓併合条約締結)以前に大日本帝国と大韓帝国とのあいだで締結されたすべての条約および協定はもはや無効であることが確認される」としている。朝鮮に対するかつての日本の植民地支配を合法化したばかりか朝鮮再侵略を保証したものだ。

 

 このことは、日本と韓国との「財産・請求権・経済協力」に関する協定にもみることができる。これは日本が韓国に対して協定発効後10年間で総額3億㌦に相当する物資と役務を無償で提供し、海外経済協力基金による総額2億㌦の長期低利の貸し付けをおこない、その間3億㌦(のちに5億㌦)をこえる商業借款を供与することを取り決めたものだ。

 

 この協定には日韓両国間の請求権問題が「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」との文言がもりこまれ、韓国の国内向けには日本からの8億㌦は賠償金と宣伝されたが、植民地支配を正当化する日本政府は賠償請求に応じたとの見解を否定し、あくまで「経済協力」であり、韓国に対する「独立祝い金」との政府見解を答弁している。

 

 そして日本政府は植民地支配を謝罪するどころか、逆に植民地支配を肯定し「韓国こそ日本の支配に感謝すべきだ」「賠償請求についていえば、むしろ日本側に請求する権利がある」との姿勢をとり続けた。

 

 日本が「経済協力金」として支払った8億㌦は、使い道に日本政府の承認を必要とするひも付きであった。大部分が朴政権を経由して日本の財閥に流れている。これは日本の政財界が韓国経済の命脈を握るための道具にほかならなかった。

 

 朴政権は「日韓条約」締結を契機に韓国を米日の植民地にする道を突き進んだ。日本から多くの企業を進出させて韓国の財閥を手なづけ、韓国経済が日本に依存せざるを得ない経済構造をつくりあげた。また、日本の支配層は戦後の最初から植民地時代に登用した親日派を糾合・育成した。たとえば1948年から52年の韓国の歴代閣僚の全員が日本の植民地時代の地主や資本家であった。

 

 「日韓条約」を締結した朴正煕自身も、日本陸軍士官学校57期生であり、日本国籍のまま満州軍官学校時代から上海に本拠地を置き、日本の陸軍士官学校に留学し、朝鮮独立運動を弾圧する側であった。また、ソウルに出張所を置いていた児玉機関の手先として働き、戦後は米本国の陸軍法兵学校に留学するなど、「親日」すなわち親米派として登用された。

 

 朴正煕はクーデターで権力を握ったが、軍政期間の閣僚の94%が日本の植民地統治に直接協力した「親日」勢力とその師弟であった。また民政移管後も閣僚の95%がそうした出身者であり、61年5月から78年10月までの全閣僚のうち、総理の半数が旧日本軍出身者であり、内務長官、法務長官の約半数が日本の統治に積極的に協力した者たちで、国防長官の全員が旧日本軍出身者であった。

 

日本総理官邸晩餐会での朴正煕(中央)と岸信介(左)。右は当時の池田勇人首相(1961年11月)

終焉迎えた米国代理の朝鮮支配 東アジアで彷徨う旧植民地主義の亡霊

 

 敗戦後も日韓の人的結合をつくり出し、政財界の要人を買収して目下の協力者として育成しながら、韓国への再侵略を強めてきたのが歴代の自民党政府であった。

 

 現在、安倍首相は1965年の朴政府と佐藤栄作政府が結んだ「日韓条約」を指して「国と国との約束を守れ」と韓国政府に迫っているが、それは「かつての植民地時代に戻れ」ということを意味している。「日韓条約」は締結以前から当時の韓国人民の激しい反対にあったものであり、日本の植民地支配への怒りは今なお韓国人民のなかに渦巻いている。

 

日韓条約に反対するソウル市民(1965年)

 2016年の朴槿惠(朴正煕の娘)大統領弾劾は、日本の植民地時代の尾を引く「戦後レジーム」からの脱却を目指す韓国の人民世論の歴史的な高まりを世界に示した。これは日本の支配層による朝鮮統治や介入、朝鮮半島の南北分断を利用して東アジアをコントロールしてきた米国覇権の衰退を物語っている。南北の和解と米朝交渉による朝鮮戦争終結が俎上にのぼる今、旧時代の残りカスを一掃する流れはさらに強まることが予想され、東アジアの枠組み再編が後戻りすることはない。

 

 現在目前でくり広げられている安倍政府による韓国への強硬策は、かつての植民地主義の尾を引いたものであり、それ自体が否定されていることについて認めない限り問題の解決を遠ざけるばかりで、めまぐるしいアジアの変化に対応できるものではない。

 

 日本と韓国の近代史における関係について、戦後の学校教育ではほとんど教えられず、むしろ意図的に避けられてきた。マスメディアが目前の利害だけに問題を切り縮めて対立を煽っているが、それでは問題解決の糸口は見えてこない。歴史を正しく認識し、日韓人民を苦しめてきた不幸な過去を清算し、互いの主権を尊重し合い、平等互恵とアジアの平和実現を目指す新たな日韓関係を築いていくことが求められている。

 

ソウルでのローソク集会(2016年11月)

数十万人が朴槿恵大統領の弾劾を求めたローソク集会(2016年)

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この記事へのコメント

  1. 京都のジロー says:

    終焉する米国代理の挑戦支配
    日韓関係の歴史をこちらの記事を読み始めて知りました。
    一日本人として韓国の方たちにたいへん申し訳ないです。
    安倍首相の祖父の岸信介が絡んでいますから
    安倍政権が続く間は日韓関係は良好にならないでしょう
    一人でも多く、日韓関係の真実を理解してもらいたく
    掲載記事の8月26日号と、こちらの記事を知り合いに
    送っています。大手マスコミの記者はしっかり勉強して
    真実を伝え、拡げて欲しいです。

  2. 私は韓国人からこんな話を聞きました。日本が韓国植民地時代の事です。日本軍の将校が日本刀を持って韓国人の民家の門をくぐって入って行きました。ちょうど家族そろって食事をしていました。将校は目配せで食事を催促しました。食べ終わると今度は目配せで娘を残して全員さがれと指示しました。家族は将校が日本刀をちらつかせているので仕方なくさがりました。事が終わって将校は日本刀を持って民家から去って行きました。娘に駆けつけた両親は「お前のために家族が助かった!」「お前のために家族が助かった!」と言って何度も娘を抱きしめました。ご両親の気持ちを考えると日本人として申し訳ない気持ちでいっぱいです。娘に取り返しのつかない傷を負わせてしまいました。二度とこのような事が起きないようにと祈ります。

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