広島市中区袋町の「ひと・まちプラザ」で開催中の第17回広島「原爆と戦争展」は、広島市内をはじめ全国や海外からも参観者が訪れ、会場では熱気を帯びた交流がおこなわれている。自身や家族の戦争体験を伝えようと遺品などの資料を持参する市民や、市内外から家族連れや教師、学生、外国人たちが被爆体験を学ぶ目的をもって訪れ、世代や国境をこえて戦争や核兵器をめぐる被爆地の思いを共有する論議の輪が広がっている。
会場では、被爆二世、学生たちが会場の案内や宣伝などを担うなど、被爆者たちと連携して運営し、市民から感想を聞くなどの交流を通じて協力の輪を広げている。
賛同者としてポスターを自宅に掲示しているという84歳の男性は「貴重な写真・資料を見せてもらい、国民学校5年生だった73年前の体験が蘇ってくる。当時、私自身は田舎に疎開しており、広島に残っていた母が原爆にあい、白血病で8月28日に世を去った。待ちに待った広島に帰る前日、疎開先で先生に母の死を告げられ、妹と一緒に皆の前で号泣した。母は“死にたくない。子どもに会いたい”と言葉を残したと聞いている。8月6日と8月28日の命日は、二度と家族に会うことなく死んでいった母の無念とともに絶対に忘れることはできない」と怒りを込めて語った。
母親が中島新町(爆心地から650㍍)で爆死した男性遺族は、「直接の体験者が少なくなるなかで、原爆の被害を抽象化せずに具体的に伝え残していくことが重要になっている。今遺族会として地域の被爆者の体験を記録に残しているところだ」と明かした。男性が住む川内地区(川内村温井)は被爆当時、一家から1人ずつ国民義勇隊として広島市内中心部の建物疎開作業に動員されて全滅し、犠牲者は180人とも190人以上ともいわれ、正確な人数もわかっていないという。多くの家庭が一家の働き手を失い、戦後は「原爆未亡人」といわれる母たちが広島復興の労働力として働きながら家族を支えた。
「今も中島町に建てた慰霊碑前で慰霊行事を続けているが、世話人がいなくなり、この記憶が途絶えることを心配している。護岸工事で、本川河畔にあるたくさんの慰霊碑を移設する行政案が報道されたこともあるが、平和公園周辺はわれわれにとっては墓地と同じだ。戦後は土で埋め立てられたままで、今でも地下には多くの骨が眠っている。最近は資料館や原爆ドームなどがきれいに整備され、観光資源のように扱われていることを危惧している。無念のうちに殺された数万人の市民が眠る場所であることを伝えることが行政のやるべきことだ。このような展示会は続けてもらいたい」と強調し、賛同者に加わった。
陸軍工兵部隊の軍人として満州や中国内陸部に出征した父親が残した写真や戦時国債などの資料を提供した男性は「生前の父は戦犯に問われることを恐れて、戦争に関する資料や写真などをすべて燃やしていた。これらは仏壇の中に残っていたものだ」と話した。多くの中国人の遺体が並ぶ写真もあり、裏面には「取り扱い注意」の但し書きがある。「それも含めて戦争の現実を知らせるために保管していたのだと思う」と話した。
「父は、勝利や快進撃と伝えられていた中国戦線は、日本軍が奥地に入り込む度に中国軍に退路を断たれて孤立して撃滅され、勝ち戦ではなかったと語っていた。昭和18年に退役するとき、国から家が建つほどの戦時国債や国が価値を補償する兌換(だかん)券、勲章などを報酬としてもらったが、帰国した日本では使い物にならない紙切れ同然だった。どの店も受け付けず、それほど国の信用がなかったということだ。そして年末には真珠湾攻撃で対米戦争が始まり、すぐに軍に再召集された。そして戦争が終わると上層部は、汚れ役を負わせた現場の兵隊を戦犯としてGHQに突き出し、たくさんの兵隊がC級戦犯として処刑された。今の政治もそっくりだ。国策として戦争に駆り出しながら、自己保身のために自分たちの罪を隠し、国民にその罪をかぶせる。二度とこんなことをくり返さないために伝えなければいけない」と語り、連日多くの知人を会場に案内している。
真実伝える熱意感じた
全国各地から教師や子連れの親たちが「被爆体験を聞かせたい」「次世代が受け継がなければいけない」との強い思いをもって訪れ、被爆者との交流が終日おこなわれている。熱心にメモをとりながら聞く中学生グループや親子、高校生の姿も多く、次世代として受け継ぐ決意を語っている。
関西から同僚たちとともに訪れた女性教師は、秋の修学旅行で広島を訪れる子どもたちに被爆体験を聞かせるため、広島の会の被爆者とうち合わせをした後にパネルを参観した。「昨年も広島に来たが、この展示や被爆者の方からは、真実を伝えようとする強い熱意が伝わってくる。それは資料館などを見るだけでは得られないものだ。子どもたちもその熱意を真っ先に感じとり、学校に帰ってもその感動がずっと残っている。原爆の威力などの知識ではなく、原子雲の下にいた人たちの痛みや平和への強い願いこそ広島に来て学ぶべきだと改めて感じた」と話した。
また「昨年は北朝鮮のミサイル騒動で、子どもたちからも“広島に行けるのか?”と意見が出るほど、ミサイルが飛んでくることを前提にした報道が過熱していた。でも被爆者の方からは、国同士が対立していても一般の国民同士は理解をしあうこと、とくにアジアの人たちとは仲良くすることの大切さを冷静に教えられたことに子どもたちは心打たれていた。今も昔も、偏見や極論で真実がわからないようにされて戦争になる。真実を伝えるべき教育の現場で戸惑っていてはいけないと思った。今学校では、貧困化で制服が買えず、朝子どもを学校に送り出せないほど余裕もない家庭が多く、修学旅行も全員揃っていくことを毎年の目標にしている。でも日頃は素直に表現できない子も、このパネルにある子どもの原爆詩を読んで涙する。被爆者の熱意と同じ熱意をもって私たち教師も子どもたちに伝えていきたい」と語った。
同じく修学旅行の下見に来た滋賀県の男性教師は「修学旅行で広島の会の被爆者の話を聞いた後、宿舎で1日の感想を書かせると、日頃は騒がしい子どもたちが一時間シーンと私語ひとつせずに感想を書く。学校では考えられない光景だ。広島に来るたびに教育の原点を教えられる。今では反響が広がって、市内の数校で同じとりくみが広がっていることがうれしい」と誇らしく語った。
大阪市内から訪れた女性教師は「このような被爆者の視点に立った展示があったことに衝撃を受けた。原爆資料館は改定するたびに悲惨な現実をオブラートに包んでしまい、内容的にも子どもには難しく、どのように伝えるかを悩んでいた。被爆者の方がおられるうちに生の体験を聞かせたい」と語り、被爆者と対談を通じて修学旅行での提携を約束した。
広島の大学に勤める60代の男性教員は「展示は何度か拝見しているが、回を追うごとに充実していると感じる。戦争の問題は、戦いそのものの問題である以上に、国民を戦争に向かわせ、駆り立ててゆく権力者による民心のイデオロギー的操作の問題であることを痛感する。しかし、その時代、その社会のただ中に生きている人間にとっては、この種のイデオロギーの欺瞞性を見抜き、批判することは極めて困難なことで、それは命懸けの行動ともいえる。現代に生きる私たちも、この問題に目覚める必要があると思う。そのためには歴史を直視しなければならない」と感想を記し、賛同者に加わった。
「為政者の嘘あばく展示」 外国からの参観者の反応
通訳を兼ねた友人とともに熱心に参観し、被爆者から体験を聞いたペルー出身の男性は、「日本に来たら必ず広島で原爆について学びたいと思っていた。原爆投下が悲しいことであることは知られているが、世界中の人人は一度は広島に来て、具体的に何が起きたのかを正確に知るべきだ。平和ボケともいうべき時代だが、各国は戦争を二度と起こさないことを肝に銘じて接し合うべきであり、そのためにも広島で戦争の真実を知らなければいけない。どの国でも金もうけをしようとするものが戦争を起こそうとする。そのような人人は“死んでこい”と国民に命令をするだけだ」と語り、「このような展示をされている市民の努力に感謝したい」と被爆者やスタッフに握手を求めた。
さらに「ペルーでも広島について学ぶことは、戦争の悲劇について学ぶ基礎として教育されている。この展示を見て思うのは、米国が起こしたイラク戦争が石油の利潤を目当てにしたものだったように、権力者はその汚い目的を隠して戦争を美化しようとするし、彼らの利潤追求のために作ったバカバカしいルールを人人に押しつける。人人が母国を愛する気持ちと戦争をすることとはまったく違うものなのに、彼らの目的と勝手に結びつけて戦争をやる。米国でも日本でも、戦争をやめさせるためには国の政策決定者の倫理を転換させなければならない。この展示物は、これまで彼らが隠し、今も隠したがっているセンシティブ(鋭い)な内容を赤裸裸に暴露しており、日本の人人が置かれた境遇が米国で暮らす自分にもよく伝わる。このような活動に心から敬意を表したい」とのべて何度も握手を求め、「本国で伝えたい」と英訳冊子を求めた。
同行した千葉県出身の女性研究者も「米国が原爆の威力をより効果的に試すため、平地の多い地理的な条件に目を付けて広島を原爆の標的にしたことなど、被爆者のお話ではじめて知ることができた。米国人の友人がどうしても広島に行きたいといい、“広島市民は原爆投下に対してどのような抗議運動をしているのか?”と関心をもったり、被爆後12年間は被爆者に対してなんの公的な賠償や補償もされなかったことに憤りを語っており、国は違っても国民同士が通じ合う時代だと感じる。今安全保障問題(米軍基地)をめぐって議論になっているが、原爆投下や東京大空襲、沖縄戦という殺戮の歴史を忘れてはならないし、唯一の被爆国として世界に訴えていくべき責任がある。東京でも東京大空襲についてほとんど知らされていない。地元に戻っても勉強していきたい」と話した。
ドイツの高校で教師をしている女性2人は、パネルを見た後に被爆体験を聞き、被爆者の「これほどの被害を受けながら再び戦争のできる国にしようとしている政府の神経がわからない」という言葉に対し、「私たちも自国の政府に対して同じ気持ちを抱いている。そうさせないために、このような展示や話し合いを通じて国全体に刺激を与えていくことはとても大切なことだ。広島の人たちがどんな声を上げ、アクション(行動)を起こしているのか知りたいと思っていた。話を聞けてとても光栄だ」と話した。
感想には「第2次大戦において日本が果たした役割、戦争の背景、その原因についての記述が非常に興味深い。原爆の被害についての絵、写真、情報、そして被爆者の体験はとくに印象的だ。世界中の人が核兵器を肯定する政府に反対してたたかわなければいけない」(42歳)
「原爆や戦争の歴史について詳細にわたって印象深い方法で展示されている。生き残った人が語る場があることは非常に偉大であり貴重だ。過去におこったことについて、また原爆や戦争に反対して行動することについて論議を起こすことが必要だ」(32歳)と記した。
2人連れのオランダ人の大学生は「パネルに記された膨大な量の体験談がより戦争を身近に感じさせる。この展示運動が生まれた背景や経過、今後の展望が付け加われば、これらの体験談がより生きてくると思う。原水爆の廃絶は重要であり、それを訴え続けることはすばらしいことだ」「これまで知らなかった戦時中の日本とその周辺の背景を学ぶことができた。核兵器の放棄は人類の願いだ」と感想を記した。
アイルランドでソフトウェアの開発をしている24歳の男性は「非常に有益で衝撃的だ。展示されていた多くの情報は、決してアイルランドの学校では教えられることのないものだった。アメリカ軍部による戦争犯罪についてもっと知りたいと強く思った。このような兵器が、戦争に巻き込まれるべきでない一般市民に対して使用され、被害の規模はあまりにも大きい。原水爆禁止の運動は正しいとりくみであり、全面的に支持する」と感想を書いていった。
韓国から語学研修で訪れた大学生20人は、広島の大学講師の案内で会場を訪れ、解説を受けながらパネルを参観し、男性被爆者の体験談に耳を傾けた。
19歳の男子学生は「戦争がいかに間違っているかが知識ではなく、感情として心に突き刺さってくる。韓国では原爆について学校で学ぶことはほとんどなかった。でも日本について関心をもつ韓国人は独学で勉強しており、私たちも日本語の研修とあわせて八月に原爆文学の朗読会を予定している。朝鮮戦争についても事実は学ぶが、体験者の話は聞いたこともなかった。広島に来て初めて知ることが多く、戦争の恐ろしさを重く感じている」と感想をのべた。
また「韓国には20歳になると兵役義務があり、今回の南北和解によって軍事的な緊張が終わることを若者の多くが期待している。同じ民族で殺し合うようなことは二度とすべきではない。私は北緯38度線にある軍事境界線に近い町に住んでいるが、昨年のミサイル騒動のときもみんな平穏だったし、南北会談後は南北の交流地点になることを見越してたくさんの人が移り住んだり、土地を買ったりして活気が増している。これから日本との交流を通じて核兵器の恐ろしさをみんなが理解し、平和な関係を築いていく努力をしていきたい」と、相互交流の大切さを強調していた。
開幕から5日間で、新たに54人の参観者が賛同者として申し出ている。