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第17回広島「原爆と戦争展」が開幕 かつてなく充実した市民提供の資料 

市民提供の資料に見入る参観者(7月29日、広島市)

 毎年広島市民の手によってとりくまれる広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、同長崎の会、下関原爆被害者の会)が7月29日、広島市中区袋町の合人社ウェンディひと・まちプラザ北棟4階ギャラリーで開幕した。今年で17回目を数える同展は、被爆から73年目の夏に向けて約200人の賛同者をはじめとする市民の協力で準備され、市内では約10万枚のチラシ、2000枚のポスターによる宣伝がおこなわれた。被爆者、戦争体験者、被爆二世、現役世代や学生など世代をこえた全市民的なとりくみとなり、被爆地の体験と願いを全国、世界に発信していく場としての期待を集めながら開幕を迎えた。

 

 会場には、第2次世界大戦前夜の恐慌と国民の窮乏生活から始まり、満州事変、日中戦争、真珠湾攻撃から始まる南方の激戦地での体験、各戦線での玉砕、学徒出陣など、日中戦争の敗北から負けると分かっていた日米戦争に突入していった経過を体験者の証言をもとに描いた「第2次世界大戦の真実」、広島・長崎の被爆体験を写真や詩で描写した「原爆と峠三吉の詩」、沖縄戦、東京大空襲、全国都市空襲などの体験、戦後の米軍占領から現代まで時系列に繋げたパネル約200点に加え、被爆や戦争に関する体験記や写真、絵、生活用品など300点をこえる資料が展示されている。

 

 資料は、年間を通じて市内各地で開催されてきた展示会を参観した市民から「親の遺品があるので提供したい」「家族が保管してきた資料があるのでたくさんの人に見てもらいたい」「軍隊の資料なので資料館でも受け付けられず、これまで持って行き場がなかった」と提供されたもので、戦地で使用していた軍服や軍靴、軍隊手帳、飯ごう、勲章、戦時国債、軍票、召集令状などが新たに加わり、被爆前後の広島市内の写真、地図、戦記、学校や個人の体験記などの膨大な量が一堂に会した。これら当時の市民生活を伝える資料や体験記を丹念に読み込む参観者は多く、「これまでわからなかった亡くなった親族の経験を初めて知ることができた」「被爆だけでなく戦地の苦労について初めて知った」と強い関心を集めている。

 

 初日は、今月はじめの豪雨災害に続いて到来した台風12号の通過により、やむなく開幕セレモニーは割愛することとなったが、風雨がおさまった時間帯から次第に市民や旅行者などが連れだって来場し、会場で体験を語る被爆者や市民と熱のこもった交流がおこなわれた。

 

 夫婦で参観した90代の男性は、「家族8人を原爆で殺された。大量の一般市民をこれほど無残に殺戮した罪は未来永劫消えるものではない」と噛みしめるように語った。自宅は、爆心地から500㍍の左官町(現在の本川町)にあり、母親や兄弟7人は自宅とともに焼かれ、父親は隣の本川小学校の校舎内で焼死した。後日、田舎から探しに来た叔父が焼け跡に行くと、自宅の台所でちゃぶ台を囲むように並んだ家族七人の骨が見つかり、判別が着かないほど焼け焦げた父親は名札でかろうじて判別できたという。

 

 「私は16歳で陸軍砲兵隊に志願して台湾に派遣されていたが、現地で捕虜になって昭和21年1月に鹿児島に帰還し、汽車で己斐駅(現在の西広島駅)に着いたとき、なにもかも消え去った広島の光景を見て目を疑った。家もなく、生き残っていたのは三菱観音工場に学徒動員されていた中学生の弟1人だけだった。それからは食べ物もなく、収入を得る働き口もなく、鉄くずを拾い集めて売ってその日を食いつなぐ乞食のような生活だった。罪のない人間を何十万人も焼き殺して何が平和か。家族を殺された遺族や被爆者にとっては、何の報いもなく苦難の連続だった。唯一残った弟もガンで早くに亡くなった。70年たとうが100年たとうが、この恨み、苦しみは絶対に忘れることなどできない」とくり返し語った。

 

 古市の工場で被爆した夫人も「祇園の女学校から学徒動員で派遣されていたが、工場の中まで爆風が押し寄せ、友人も多く亡くした。小学校では廊下にもズラッと負傷者が寝かせられ、傷口にはウジが湧き、亡くなった人からトラックに山積みにされて運ばれていった」と語り、今も毎年8月6日には夫婦で供養塔への参拝を続けているという。

 

 続けて男性は「19歳で敗戦を迎えたとき、上官が少尉(将校)だった自分を退官させて予備役扱いにした。捕虜になると、将校は戦犯として軍事裁判にかけられて処刑されていたからだった。上官は“死ぬのは俺たちだけでいい。まだ19歳のお前を殺すわけにはいかない。壊滅した日本の復興のために生きて日本に帰れ”といって送り出してくれた。その言葉を胸に戦後を生きてきたが、今の政治家や官僚を見ていると私利私欲にまみれてウソを平気でいい、犯罪を犯罪とも思っていない。災害から復興でお金がいることがわかっていながら自分の懐や地位の心配ばかりしている。これほどの国民を殺されながら、米国にも一言もいえない政治家に国が守れるわけがない」と語り、賛同者として協力すると申し出た。

 

 娘と一緒に参観した88歳の婦人は「広島の二部隊に召集された兄を探すため、原爆投下翌日に島根県から広島市内に入った。まだ市内中心部は燃えて熱く、川の中にも死体が折り重なって浮かんでいた。練兵場は焼け野原で兄の行方は分からずじまいだったので、誰のものかわからない骨を受けとって帰った。6月に召集されて2カ月後に原爆で帰らぬ人となったので、家族にとっては青天の霹靂だった。島根の温泉街でもたくさんの被爆者が運び込まれ、傷口に湧くウジ虫をとってあげた。この展示を見ると当時を昨日のことのように思い出す。ぜひ多くの人に見てもらいたい」と涙を浮かべて語り、娘とともにチラシを持ち帰った。

 

 父親の実家が材木町(現在の原爆資料館付近)にあったという男性は、「当時25歳だった父は船舶司令部で働いていたので、宇品から金輪島にわたる船の上で原爆の光を感じて瞬時に海に飛び込み、それを船の上から見て驚いていた乗員たちが直後の爆風で海上に投げ出されたと聞いている。自宅に向かう途中の御幸橋では欄干が将棋倒しになって倒れており、当時の奥さんは材木町の自宅もろとも焼け死んだという。材木町は全滅して、今は平和公園の一角に案内板だけが残っている。この展示を見て、父が伝えようとしたことがわかった気がする。この展示ではマッカーサーと天皇陛下の関係も暴露されており、日米上層部の癒着関係をはじめて知った。2度とこのような悲劇を生まないように活動を続けてもらいたい」とのべて賛同者となった。

 

 神奈川県から小学生の娘をつれて参観した母親は「地元でも平和についてのとりくみをしているが、現地の実際を学ぶために家族で広島に来た。原爆投下と東京大空襲の共通点や三菱や皇居が狙われなかったことなど初めて知り、日米安保がある限り、日本に本当の平和は来ないことを再認識できた。ここで知ったことを地元でも伝えていきたい」とパネル冊子を求めていった。

 

 市内をはじめ、関東や関西など他県からの観光客、米国や中国などの外国人旅行者も訪れ、パネルに添付された英訳を熱心に読んでいった。

 

 トルコで暮らしている広島出身の女性は「トルコではヒロシマという言葉は誰もが知っており、広島から来たことを知ると強く同情される。なかには“今もヒロシマは人が暮らしているのか?”と質問してくる人もいる。広島出身者として子どもたちにも原爆の実相を伝えていきたい」と語り、パネル冊子を求めた。

 

 被爆伝承者として活動している女性は「この展示からは表面的でない被爆と戦争の真実を知ることができ、当事者の痛みが原爆資料館以上に伝わってくる。部分的な事実だけでは原爆や戦争は伝えられず、伝承者の人にこそこの展示を見てもらいたい」と話した。

 

 「原爆と戦争展」は8月7日までおこなわれる。会場では被爆者や被爆二世が体験を伝え、5日には全国からの参観者やスタッフとして参加する学生をまじえて交流会がおこなわれる。

 

会場で被爆者から体験を聞く親子

パネルや遺品を見る親子連れの姿も

参観者のアンケートより

 

 ▼原爆が投下される裏側の事情を初めて知って驚いた。財閥がすでに先を読んで交渉していたのにも驚いた。もう少し事実を世に広めるべきだと感じた。(千葉県・66歳男性・鑑定人)

 

 ▼戦争ほど恐ろしいことはない。人を狂わせ、殺人鬼にしてしまう。これからの未来の子どもたちに絶対に伝えていかなければならないことだと強く感じた。(東京都・女性・保育士)

 

 ▼被爆者が年年少なくなっている今、このような活動にとりくみ、未来へつないでいくことは大切だと感じる。しかし、このような行動をおこなう人がずっと年配の方ばかりであるのではまだまだ未来へこの原爆、戦争をつないでいけているとはいえないであろう。もうあと5年もすればほとんどの戦争体験者はいなくなってしまう。広島に住んでいるからという理由だけではなく、若い世代がこの悲惨な過去を未来へ伝えていくことは逃れることのできない使命であると感じる。実際に体験していないと分からない苦しみであるからこそ、2度と日本でおこなってはならないし、世界からなくさなければならないと思う。(広島市・20代男性)

 

 ▼たくさんの資料に圧倒された。学校では空襲、原爆のことなど習ったが、満州やサイパンやビルマや、いろいろなことがつながっていっての戦争なんだと感じた。当時の子どもたちの詩のなかに「骨も見つからなかった」という表現があったが、こんなことを子どもに書かせてしまった戦争の怖さを感じた。(広島市・41歳女性)

 

 ▼会場で展示を見て一番先に思い出すのは、原爆で父母や従兄弟ら八人が亡くなった当時のつらい、情けない思いだけ。昨日のように思い出し戦争の惨さと情けなさ、罪のない一般市民がこんなに酷い殺され方をしたのかと残念でならない。私は家で7人、本川小学校の校庭で父を、計8人を亡くしている。私と弟の2人が残り、どうして生きていくのかという大変な時代を生きてきたことだけは現実である。(広島市・92歳男性)

 

 ▼とても緻密で整理された資料展示で、戦争、原爆の実態を知ることができる。私も史実としていろいろ知ってはいるが、追体験するようで反戦、反権力の思いが強くなった。峠三吉さんの詩の展示コーナーがとても心に訴えられた。すばらしい言葉の力だと思った。戦争は誰が起こすのか……教育のなかで教えられることを願っている。(広島市・67歳女性・主婦)

 

 ▼私にとって、新たな方法で戦争観や知識を得ることができるすばらしい展示だった。そして、とくに日本の市民についての情報を得る非常に良い機会だった。日本もまた戦争の犠牲者だ。日本でこれほど反米国的な主張を展示しているのを初めてみて驚いている。全体的に良い展示だった。(中国人・21歳男性・大学生)

 

 ▼展示に非常に衝撃を受けた。広島平和資料館にも行ってきたが、それ以上にこの展示からは現実感を覚えた。広島における惨めな市民の体験を知り、「アメリカの戦争勝利は、最低限人道的でフェアなものだったのか?」という疑問を抱いた。私たちは日本が中国におこなった侵略を忘れることはできないが、私たちもアメリカが日本に対しておこなった残虐行為についての認識をたださなければならない。(中国人・21歳男性・大学生)

 

 ▼学びの機会をいただき、感謝する。私は医師なので、原爆症の実態などが興味深く、また非常に悲しく感じた。私たちの国の指導者たちが共感を抱いていないこと、いまだに核兵器を保持していることも悲しいことだ。展示を見て愛情と同情を抱いた。アメリカがおこなった戦争での破壊行為や罪のない多くの人人を殺害したことについて申し訳なく思う。私は邪悪な私たちの今のリーダーを心配している。だが、アメリカのほとんどの人人は良い人である。(アメリカ人・女性)

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