碑に刻まれた痛恨の記憶を後世に
第二次大戦中、学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されてから74年目にあたる22日、広島市南区の比治山陸軍墓地で慰霊祭がおこなわれた。同墓地にある船舶砲兵部隊の慰霊碑に「対馬丸乗船・沖縄疎開児童」と刻まれていることを知った広島経済大学の岡本貞雄教授の呼びかけによるもので、広島で同船犠牲者について単独の慰霊祭がおこなわれるのは初めてとなる。慰霊祭には遺族らでつくる「船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会」(川手房之会長)の会員や地域住民、子どもたちなど120人が参列した。
慰霊祭を呼びかけた岡本教授は「沖縄ではよく“本土の人は沖縄に慰霊碑を建てられても沖縄のことには触れられない。沖縄のことをどう思っているのだろうか”という声が聞かれる。そのなかで本土に対馬丸犠牲者の霊が刻まれた慰霊碑があることを知り驚いた。この銘板は昭和52年に掘られており、この碑を守ってこられた船舶砲兵のご遺族の方たちの手によって、陸軍墓地で唯一慰霊祭が継続されてきた。こうしてはじめて本土の思いを沖縄に向けて発信できることをうれしく思う」とのべた。
対馬丸は太平洋戦争末期、米軍の沖縄上陸を前にして沖縄県内の児童を九州各県に疎開させる行政の指示に従い、1944年8月21日に児童らを乗せて他の2隻の輸送船とともに那覇港を出港した。翌22日夜、航海の途上で米潜水艦の攻撃を受けてトカラ列島付近で沈没した。多くの小学生を含む約1600人余が船と運命をともにした。対馬丸には護衛のために船舶砲兵41人が乗船しており、唯一戦後まで生きのびた吉田薫夫氏(故人)や戦死者遺族らが陸軍船舶司令部(暁部隊)があった広島に戦死者の慰霊碑を建て、そのさい「対馬丸」の名を刻んだといわれる。
昨年8月、長年沖縄戦の記憶保存にとりくんできた岡本教授がその存在に気づき、那覇市の対馬丸記念館に知らせ、同館と広島の戦死者遺族たちとの交流がはじまった。
岡本教授は「船舶砲兵は輸送船を守ることが任務であったが、子どもたちを守ることができなかった痛恨の思いをもってこの碑に名を刻まれたものと思う。史実とともに、生き残った人たちの平和への思いをいまからを生きる子どもたちに受け継いでいきたい」と挨拶した。
船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会副会長の吉田只五郎氏は、「この碑を昭和52年に建立した当時、生存者と遺族を合わせて2800人余の会員が全国に存在した。だが41年がたち、会員数は351名にまで減っている。体験者は高齢化し、生き証人としての言葉を聞くこともできなくなった。会役員は全員、戦争で父親を亡くした遺児だ。生存者から依頼を受けてこの碑を守り続けて今日に至る。毎年10月に慰霊祭をしているが、参列者は20名ほどで細細とやっている状態だ。皆さんの力で、このような立派な慰霊祭を開いていただきありがたい」と感極まった口調で思いをのべた。
また、この慰霊祭にあわせて対馬丸記念館から生花が届けられ、広島からも同時刻におこなわれている沖縄での慰霊祭に生花を贈り、あわせて元砲兵隊員の筆による対馬丸の最期の姿を描いたパネルを同館に寄贈することを報告した。「この比治山陸軍墓地には毎年9基の慰霊碑で慰霊祭がおこなわれていたが、年月とともにそれらの会が次次に解散してなくなり、無縁仏のような状態になりつつある。そのうえ広島市が墓地一帯を公園化する計画を立てており、礼拝堂も解体され、いずれこの慰霊碑の立ち退きの話がくるかもしれない状況にある。しかし、若い人たちに戦争の怖さ、残酷さを伝えていくためにもたたかっていきたい。参列された皆さんもぜひその気持ちをくみとってもらいたい」と力を込め呼びかけた。
慰霊祭のなかで、呉海洋少年団の子どもたちが沖縄方面に向けて「平和の祈り」の文字を手旗信号で表現した。団長の竹川和登氏は「74年前に対馬丸に乗った人たちが米国の魚雷で海に消えた。何の罪も責任もない子どもたちが殺された。戦争は極限の悪であり、対馬丸の悲劇をしっかり認識し、二度とこのような悲惨なことがおこらぬように私たちは行動していかないといけない」と挨拶した。
その後、父親を沖縄戦で亡くした渡辺敞子氏が対馬丸について紙芝居で子どもたちに伝えた。慰霊祭には、同級生を対馬丸で亡くした広島在住の体験者も列席し、「父が出征するため別便で本土に渡ったため難を逃れたが、沈没した同級生のことを思うと胸が詰まる」「沖縄には多くの本土の兵隊さんも来ていたが、みんな飢えで苦み、畑のイモを生のまま食べていた。負けるような戦争に突き進み、死ななくていい人がたくさん死んだ。同級生が亡くなり、私だけ生き残ったことに負い目を感じてきたが、広島での慰霊祭に参加できてうれしい。もう二度とあのようなことをくり返してはいけない」と語り合っていた。
慰霊祭は、沖縄戦や原爆の体験継承にとりくんでいる広島経済大学の学生20人や市内の高校生たちが自主的にスタッフとして参加した。
岡本教授は「戦争体験者が減少するなかで、こんなたくさんの慰霊碑が陰に追いやられている。とくに広島では原爆慰霊碑の陰に隠れて、兵士の慰霊碑はほとんど知られていない。だがそれぞれの碑には、むざむざと消すわけにはいかない歴史が詰まっている。戦争を知ることは、命を見つめることであり、これからも体験者や遺族の方方、学生たちと一緒に埋もれている戦争の真実に光を当てるとりくみを続けていきたい」と抱負を語った。