いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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東北で原爆展キャラバン 郡山や福島で開催

 福島県で「原爆と戦争展」の街頭展示をおこなっている原爆展全国キャラバン隊(劇団はぐるま座団員で構成/長周新聞社後援)は、6日に郡山駅前で、7日には福島駅前で街頭展示をおこなった。震災後まもなく3カ月が経過しようとしているなかでマスコミ報道は後手後手で真実は知らされず、避難生活を強いられ、なんの進展もない原発問題に県民の怒りは爆発寸前に達している。参観者からは震災と原発事故後の切実な生活の実情や郡山空襲の体験が口口に話され、重ねて第2次大戦から続く戦後の政治を根本的に変えないといけないと激しく語られている。

 若い世代が真剣な参観 郡山駅前

 郡山駅前の展示では、昼休みに作業着の労働者が連れ立って参観する姿、学校帰りの高校生や大学生、また仕事帰りの会社員など若い世代の真剣な参観がめだった。
 また、昭和20年4月12日に国鉄郡山駅や商店街などが爆撃を受けた郡山空襲の体験では、軍需工場で働いていた白河高女の生徒や安積高女(現安積黎明高校)の生徒が大勢犠牲になったほか、駅のホームに列車が入り人が多く集まる時間を狙って1㌧爆弾が落とされて500人近くの犠牲者が出たこと、また、原爆の模擬爆弾を落とされたことも語られた。
 70代の郡山空襲体験者の女性は「アメリカに腹が立って仕方がない。戦争を指揮し大虐殺を犯したルメイになぜ勲章などあげたのか。日本人として仇をとりたい」とパネル冊子を買い求め、米国へ謝罪を求める署名をした。
 時間をかけてパネルを見た日和田町在住の60代の女性は、父が郡山空襲の体験者だと話し、「アメリカはなんの罪もない人人を戦争だからと当然のように殺していった。同じ人間として屈辱的なことだ。戦後60年以上が経ったが、風化させてはいけない」と話した。原発事故について「日和田町も風評被害が大きく、市場に出しても売れない。このままでは農家がつぶされるとピリピリしている状態だ。このパネルを見て一層アメリカへの憎しみが強くなったが、日本人全体で力を合わせて今の対米従属社会を変えないといけない」と力強く語った。
 幼少期に富岡町に住んでいたという62歳の女性は、「富岡町は箱物が多いが全部原発関係でできたもの。原発ができた頃、弟の友人がボーナスを100万円もらって生活していたが、命と引き換えだったんだと思う。原発事故前、渡部恒三が富岡町の土地の一部を買っていたという話を知人から聞いた。会津の人がなぜ富岡の土地を買うのかと思っていたが、東電などに土地を売ってもうけようとしていたのではないかと話されている。私たち60代の者は放射能の被害を受けても発病する頃には死も近く、あまり関係ないから復興のために力を出さなければと思う」と語った。
 また、「義援金は1円も配られず、銀行が利子で大もうけ。全国が結びついてこの国の政治を変えない限り国民が生きていけない世の中になっている」(70代女性)、「原発作業員も入れ替えが必要だと思うが、みなが生活苦になって金で命を削るようにさせようと国は考えているのではないか。原発をつくった者たちは涼しい顔をして、被害を受けた人たちが働かされる構図だ」(20代女性)と語られている。
 50代の男性は「アメリカは本当にひどい国だ。イギリスあたりで食えない者が新天地を求めてアメリカに行き、インディアンを殺して線引きして“ここは俺たちの土地だ”とやってできた。泥棒が裁判官になるような国。それに従っていたら日本の明日はない。前の戦争で財を成して涼しい顔で延命をはかっていった者たちの2世3世が今の政治家だ。原発事故後は、新聞各紙もアメリカと同じで80㌔圏内は取材に来ない。郡山に来ているのはフリーライターだけだ。御用学者も金で真実を曲げる。いつの時代も金のある者、金持ちのいうことだけ聞いて、働く人たちは一生働き蜂のように働かされるのは目に見えている。原発事故後、国会議員も市長も医療関係者なども家族はみな疎開させている。金もなくてどこにも行くことができない人たちがここで放射能を浴びている。原発立地の双葉町は箱物はいっぱい建ったが、内実は維持費でやっていけず、財政再建団体になった。国民が全国にネットワークをつくって立ち上がらないといけない」と強く語った。
 70代の女性は「みなぶつけるところがないから静かにしているが、腹の中は煮えたぎっている。若い子たちが福島の者とは結婚しないとなったらどうするのか。事態は一年ごとに厳しくなるだろう。戦争が終わり、戦後の政治がここまでの事態を引き起こした。戦争と同じで国民の命などどうでもよいという虫ケラ以下の扱いだ。戦争中でもないのに人災で人が殺され、戦時中よりも悪い。国会でみなが責任のなすくりあいをしているが、自分の金もうけしか考えず、泥棒より悪いのが政治家だ」と激しい口調で話した。
 若い世代からも「現代社会についても考えさせられた。広島、長崎の人たちの福島が復興できないわけがないという声を知り、頑張ろうと思った」(20代女性)、「戦争のことに興味があって自分なりに調べていたが、パネルを見て胸がいっぱいになった。広島や長崎の被爆者の人たちにも話を聞いて学びたい」(20代、大学生)など真剣な意見があいついだ。

 元に戻せると深く共感 福 島 駅 前

 7日の福島駅前西口広場でも、市民をはじめ構内タクシー運転手や駅内の商店関係者など多くの参観者が真剣にパネルを参観した。
 じっくりパネルを見ていた婦人は、現在南相馬市の自宅から避難し、郡山の親戚宅で暮らしていること、自身は精密機械工場で働いていたときに地震にあい、高齢の父親は1カ月後に顔がパンパンに膨れ上がった水死体で見つかったことを涙を流しながら話した。家は全壊し車も流され財産をなにもかも失ったなかで、「これからどうすればいいのかわからない。ただ今日パネルを見て広島も長崎も今よりひどい状況下から立て直している。その体験をもつ被爆者が立て直せないわけがないと語られていることには希望が持てた。南相馬市は農業や漁業など第一次産業に携わる人が多い。必ず元に戻したいし、農漁業の立て直しが一番だ」と語った。
 20代の専門学校に通う男性は、祖母が飯舘村に5月末の強制避難になるまでいた。「期限付きの避難とはいうが、いつ戻れるのか国が示さず“逃げろ、逃げろ”ばかりいう。爆発して一番危ないときに安全だといって今になって脅しているが、国のなにを信用していいのかわからない。“アメリカが守ってくれる”といわれるが、アメリカに従っているからイラク戦争に日本が行く。アメリカが守ってくれるわけがない。沖縄戦でも壕に逃げている人たちを毒ガスや火炎放射器で殺した。これに付き従っている政府に腹が立って仕方ない。飯舘村を核の最終処分場に狙っているのは住民に知らされていないし、国が国民をだまして追い出して土地をとるなど卑怯すぎる。ぜひ広く知らせたい」と本紙の宣伝紙を持ち帰った。
 20代の女性は、「子どもを持つ若い母親たちはとくに切実でパニックのような状態になっている。放射能値は下がってきてはいるが、目に見えないから今後どんなことになるのか明確なものがなく、“自分たちは実験台にされているのか”と話題が広がっている」と打ち明けた。「“被爆者はモルモットか”というパネルにABCCが検査だけしてなんの治療もなかったというのを見て、同じだと思った。みな仕事もあるし生活がある。なんの保障もないのにすべてを捨てて行ける人は少ない」と実情を語った。
 そして、復興について「逆に放射線値が下がってきているのに強制避難させているのはおかしい。広島、長崎は復興も早い。黙っていると復興ビジネスが進行するなら、私も真実を知らせていきたい」と話し、宣伝紙をたくさん持ち帰った。
 大熊町出身で実家は梨農家だという40代の女性は、町が以前からなにか起こったときのために東電に道幅を広げてくれと要請していたが放置して、強制避難になったとき大渋滞になったこと、原発立地地は戦時中飛行場だった場所で、あまり反対もさせずに建設したことなどの実情を話した。また、前の東電副社長が「低量の放射線を浴びても身体には影響ない」と主張していることに、みな怒っていると話した。「金をもらえばそれでいいのか。大熊町もお金はもらったが、それ以上の被害で、潤ったのは一部の利権や利害関係のある人たちだけ。双葉町は財政再建団体になっている。これが原発立地地域の実態だ。大熊町はもともと米と梨の地域。でも町の産業がつぶされ、原発依存型の地域に変えられた。第一次産業で生活していければやっていけるし、今からも農業をして、売れないなら東電がすべて買い取るべきだ」と語った。
 また、「県立病院の先生が福島医大から来るが“浜通りは甲状腺の病気が多い。風土病だ”と以前からいっていた」と話し、事故前から放射能が漏れていたことを指摘。「子どもたちは暑いなか半袖も着られず、プールも入れず、窓も開けない方がいいという状況。南相馬市原町区などは、緊急時避難区域のため病院は外来だけで入院はできない。学校給食が物資不足で、おにぎり二つと少しのおかず、牛乳と果物というメニューで子どもたちもお腹が空く。復興ビジネスは今も動いている。仮設住宅建設も地元企業ではない。職を失った人たちを雇用すればいいのに、そうなっていない。この福島の実情を全国の人たちに知ってほしい」と熱く語った。

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