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第7回長崎「原爆と戦争展」主催者会議 被爆地長崎の経験今に生かす時

 6月下旬に長崎市内で開催される第7回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)の第1回主催者会議が15日、長崎市中央公民館で開かれた。会議には、長崎市内の被爆者、引揚体験者、被爆二世、PTA関係者、市会議員、大学生、高校生に加え、下関原爆被害者の会、下関原爆展事務局など20名が参加。福島原発事故をはじめ日本社会をめぐる情勢が逼迫するなかで、被爆地の使命や課題、原爆展の成功に向けて論議を深め、全市的なとりくみが開始された。
 冒頭、原爆展を成功させる長崎の会の吉山昭子会長が挨拶し、「今年も待ちに待った原爆と戦争展を始める時期がやってきた。みなさんにもぜひご協力をお願いしたい。私は16歳で被爆し、女学校2年生で多くの友だちを亡くした。今度の震災の光景を見て被爆当時を思い起こし、家族や家を失った被災地の人たちの苦しさは痛いほど感じている。だが、私たちが経験した原爆はもっと惨いものだった。これを機に声を大にしていかに核兵器や戦争が恐ろしいものか、いかに平和が大事であるかを伝えていきたい」と呼びかけた。
 続いて下関原爆被害者の会の野間恵美子氏が、同会の伊東秀夫会長のメッセージを紹介。
 メッセージでは、「福島第1原発の事故を契機に、原水爆の廃絶とともに原発の廃棄を目ざして、被爆者が体験を語り継ぐことの重要性が鮮明になった」とのべ、そのなかで下関市では、市の生涯学習プラザロビーでの原爆と戦争展の開催を市当局が断るなど「県内で上関原発建設問題を抱えるなかで、原発反対につながる宣伝を恐れる」という「ある種の逆流」があることを指摘。「妨害に屈することなく、多くの市民とともに被爆体験を語り継ぐ活動を推し進めていく」と決意をあらわした。

 原発震災の特集も展示 新しいパネルも追加 

 自己紹介の後、事務局から今年の原爆と戦争展の概要、活動経過と今後のとりくみについて報告された。
 そのなかで、2005年以来6年間にわたって続けられてきた長崎「原爆と戦争展」が、今では市内外の地域、小・中学校、高校、大学に広がり、「原爆投下は戦争終結のためにやむを得なかった」という欺瞞を覆し、原子雲の下にいた市民の生活と体験、苦しみや悲しみ、怒り、願いを世代を超えて共有し、原水爆の廃絶と「二度とこのような惨劇を繰り返させない」という願いを若い世代、全国、世界へ発信していく全市的な運動に発展してきた運動の経過を報告。
 「“祈りと反省”のベールにつつまれてきた長崎市民の本当の思いを語り継ぐことを通じて、4年前の伊藤市長射殺事件、久間元防衛大臣の原爆投下容認発言など、市民の口を封じる圧力をはねのけ、全長崎市民の平和への思いを束ねる力強い運動となってきた」とのべた。
 また、被爆・敗戦から66年目を迎える今年、日本列島を襲った東日本大震災は、日本の国づくりを根幹から揺るがす大被害となり、とくに、収束のメドが立たない福島第1原発の事故について、「世界で唯一の被爆国でありながら、広島・長崎の深刻な体験を無視して地震列島に原発を五四基も建てるという戦後政治が招いた人災」「これまでアメリカのいいなりで国づくりをやってきた結果だ」と語られ、原爆投下から続いてきた戦後社会のあり方について幅広い市民の間で論議が進んでいることを報告。
 「放射能による苦しみを誰よりも知っている広島、長崎市民がその実体験を語り継いでいくことの重要性とともに、原爆による放射能の廃虚のなかから復興させてきた被爆地の教訓を伝えることは、被災地だけでなく日本復興の大きな力になるもの」とし、若い世代とともに被爆と戦争の実態を全市、全国に知らせ、平和で豊かな未来のために世代を超えた大交流の場にしていくことが提案された。
 それを踏まえ、今年の原爆と戦争展には、従来の展示に加えて、東日本大震災・福島原発事故特集として、原発事故の実相とともに広島・長崎の被爆市民が経験した放射能障害、復興にかかわる体験談などを展示して被爆地の声を発信していくこと、また、より長崎市民の体験を浮き彫りにするうえで長崎市内の被爆遺構や慰霊碑の紹介や、長崎の被爆資料コーナーをつくって被爆写真や市民提供の資料を幅広く募ることが提案された。
 現在、昨年の賛同者のうち約200名に原爆と戦争展開催の趣意書を送付し、賛同協力者が100名近く寄せられており、14日(土)からは、毎週、土日に下関から原爆展スタッフが来崎して宣伝活動をおこなっていることが報告され、市内小・中・高校へのチラシ配布とあわせて、被爆市民が各学校へ訪問して平和学習の一環としての集団参観を呼びかけていくことも確認された。

 福島事故の対応に憤り 復興できると口口に 

 参加者の質疑では、被爆を経験したものとして福島原発事故をめぐる政府対応への憤りとともに、長崎市民が経験した放射能被害、復興の教訓を全国に発信していく必要性が口口に語られた。
 15歳で川南造船所に動員されていた男性は、「急いで市内に戻ると見るも無惨な廃虚になっていた。父は仕事場から無傷で帰ってきたが、放射能を浴びていたので8月31日に島原に帰郷して倒れ、40代なのに頭はツルツルにはげてヘビのようにやせこけ、意識はあるのに言葉が出ない。1日におにぎり2つとたくあんの配給も食べきらない。最後は震える字で“あとは頼む”と書き残し、私と幼い妹を残して亡くなった」と明かし、「原発事故で新たな被爆者が生まれているなかで、原爆で生き残ったものとして復興の役に立つことが務めだ。原爆展を成功させるために頑張りたい」と決意をのべた。
 爆心地から2㌔の八千代町で被爆した80代の婦人は、「63年間は原爆のことには一切かかわりたくなかったが、3年前に原爆展に初めて行ったのが始まりだ。梅ヶ崎の長崎中央局から家に帰ったときに島原方面から敵機が来襲し、浦上方面に抜けていったと思ったらパッと光が走り、目の前の女の子の髪が燃えて一瞬で丸坊主になった。その後に、衝撃で家がつぶれて下敷きになった」と体験をのべた。
 「当時、浦上水源地の水に毒が入れられたと噂が流れたが、暑い盛りで水を飲まないわけにはいかなかった。今思えば放射能まみれの水だと思うがみんな飲んで戦後を生きてきた。今回の原発事故で加熱報道で不安を煽っているのは違和感がある。はじめは長崎でも全国から同情が注がれたが、その後は被爆者はまともな子どもはできないといわれ、最近では被爆者というだけで“医療費がタダでうらやましい”といわれる。被爆者を国が“余計なもの”扱いをして隅に追いやってきた結果だ」と原発事故対応と重ねて話した。
 西坂小5年生で被爆した男性は、「長崎では2週間で列車が動き出したので諫早に疎開し、1カ月後に長崎に帰ってきたときには米軍が進駐していた。海洋気象台付近に米軍キャンプが置かれ、米軍がニヤニヤ笑いながらチョコレートを差し出してきたが、母親は“もらうな”と嫌がっていた。アメリカは合理的に原爆や艦砲射撃で皆殺しにして上陸する。原爆投下の理由も、ソ連の影響力を排してアメリカが日本を占領するためだった」とのべた。
 「原発については、放射能についての情報がコントロールされている。しっかりと経験を伝え、いかに正当化しようとも戦争、原爆は人類を破滅を招くものであることを語り継がなければいけない」と話した。
 7歳で入市被爆した婦人は、「被爆後の長崎にはガレキもないほど焼き尽くされた。“草木も生えない”とさえいわれ、ほったらかしにされるなかで市民は自分の力で立ち上がる以外なかった。東北の被災地でも避難所にジッとしているのでは復興にならないし、働くしかない。テレビや政府は“かわいそう”といって義援金を集めるばかりで現地を復興をさせる力にはなっていない」と問題意識を語った。
 また、眼鏡橋のたもとでは毎日のように死体を山積みにして、廃材を積み重ねて火葬したが、「木材は燃えても死体は簡単に燃えないので、棒きれで死体を突きながら燃やしていた」ことや、「夏になると遺体から出たリンが火の玉になって舞い、蛍と見間違えるほどだった」ことを語り、「直接原爆を受けた長崎も10年後には立派に立ち直っている。放射能で汚染された福島県も必ず元に戻すことができるし、国はそれができるように援助するべきだ。原発事故でこれだけの大騒ぎになっているが、先進国は今も大量の原爆を持っている。こういうときこそ、原爆がどれほど悲惨なものかを若い人たちに伝えていきたい」と意気込みを語った。
 原発問題にかかわって、「政府や東電、学者たちがいう放射線量の人体への影響についての情報がバラバラで国民を混乱させている。原爆展では、放射能でどんな影響があるのか、どうすれば元に戻すことができるのかはっきり伝える必要がある」(男性被爆者)「“大丈夫だ”といって情報を隠蔽していることが逆にみんなをビクビクさせている。一方で、野菜もコメも魚も食べるな、牛乳も飲むなという制限を出しているのを見ると腹が立つ。私たちは原爆の泥まみれの野菜を食べてきた。戦後生まれの政治家は数字だけ見て命令するばかりで、人の生活がわかっていない」(婦人被爆者)など怒りに満ちた発言が相次いだ。

 居住区や学校で宣伝へ 若い世代も意欲 

 若い世代も熱心に話に聞き入り、「被爆した叔父から、“ぜひ原爆展に協力してくれ”と声をかけられ、初めは反発していたが、その叔父が亡くなり、私も被爆二世として平和のために力になりたいと思い始めた」(男性)、「長崎では原爆慰霊式典の時間が短縮され、政府の都合で慰霊行事が制限されている。被爆地の子どもたちにしっかり受け継がせる努力をするべきだ」(PTA役員男性)、「韓国から留学した友人と一緒に原爆と戦争展に行ったが、この展示は、戦争について日本人の側からとアジア人の側の両面に立った視点があって友人も納得していた。世界に向けて発信するものにしてほしい」(女子高校生)など活発な意見が語られた。
 最後に、参加者全員がポスターやチラシを持ち帰り、居住区や学校などでの宣伝を強めること、協力の輪を広げて全市的な運動に盛り上げていくことを確認し、意気込み高まるなかで散会した。

 第7回長崎「原爆と戦争展」の要項

 日時 6月26日(日)~7月3日(日) 午前10時~午後7時(最終日は5時)まで
 会場 長崎西洋館2階イベントギャラリー(長崎市川口町、浜口町電停横)
 展示内容 パネル「第二次世界大戦の真実」「原爆と峠三吉の詩」「全国空襲の記録」「沖縄戦の真実」「広島湾岸を核攻撃基地にする米軍」「在日米軍再編をめぐる全国の動き」など。長崎市内の被爆遺構・慰霊碑の紹介、長崎の被爆写真や資料の特設展示、被爆体験・戦争体験を語るコーナー、東日本大震災・福島原発事故特集
 後援 長崎県、長崎市
 入場無料

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