この本はAI(人工知能)について書いたものではない。農学博士で長年、農業に携わってきた著者が、そこで得た感覚や考え方をもとに、科学の「学知」と百姓の伝統的な「野の知」を突き合わせながら、若い世代に「農の哲学」を語ろうとしたものだ。
著者は1973年、大学の農学部を卒業して福岡県の農業改良普及員となった。先輩たちは科学的な情報や知識を提供するだけでなく、百姓と会話することが上手だったので、著者は次第に百姓が語る世話話、雑談、思い出話の面白さにひかれ、一人一人の百姓の生き方を学ぶようになった。そこでは、自身の生き方や個性、農業観も問われたという。
農業改良普及員時代の1078年から、著者は減農薬運動にとりくんだ。それは、農薬をむやみに撒布させる行政の農業指導と、その指導に従う百姓の農業技術を変えることが運動のスローガンだった。
当時、農薬の撒布は虫がいてもいなくても、「防除ごよみ(スケジュール)」に記載してある時期に、記載してある農薬を村中に一斉に撒布させていた。この画一的な指導の体質こそ、百姓をダメにしていたと著者はいう。本来、田んぼは一枚一枚病害虫の発生が異なるだけでなく、どれくらいの発生があれば撒布すべきかの目安は、百姓自身がつかまなければならなかった。
レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で農薬パラチオンに警鐘を鳴らしたのは、1962年だった。だがこの年、日本ではまだパラチオンの撒布中に25人が死亡し、434人が自殺した。もちろん百姓はこの農薬の怖さをよく知っていたが、政府の「増産」のかけ声のなかで使わざるを得なかった。ようやく1971年になって、パラチオンやDDTなどの農薬が禁止された。しかし、今も問題は山積している。
そもそも害虫という言葉は、江戸時代にはなかったそうだ。明治時代になり、害虫を駆除・防除するという新しい学問(農学)が生まれた。農学は有用性を追求する学問であり、害虫や益虫という名称を農業に導入した。ただ、田畑の中では、害虫でも益虫でもない「ただの虫」が圧倒的に多い。生き物たちが生きている自然界は、田畑ですら、人間の有用性という尺度が届かない世界の方が圧倒的に広いわけだ。
そのほか、百姓たちのふとした言葉から、「同じ仕事を毎年変わらずにくり返すことは、人間を安堵させる。それは天地自然のくり返しに人間の生やいのちや仕事もまた合わせてくり返すからだ」とか、「百姓仕事の相手である作物を中心にして、相手の身になって考えて行動する“相手本位の考え方”」など、農の哲学が様々に展開されている。
スマート農業が奪う熟練知
さて現在、農水省はスマート農業を普及しようとし、百姓仕事をAIに任せれば生産性も上がるし、人手不足も解決すると宣伝している。それを扱ったのが第五章だ。
農水省は、無人のトラクターは自動運転で田畑を耕してくれるし、田んぼの水口に全自動の水位計を設置し、一定の水位を保つように水門を開閉させることもできるのだから、百姓は田んぼに行かず、パソコンやスマホで確認すればよい、という。また、AIを搭載したドローンを飛ばし、稲の葉のチッソ濃度を推定して追肥の量を決めたり、病害虫も診断して農薬散布が必要かどうかを決めることができる。追肥も農薬散布もドローンがやる、という。
しかし、それは百姓の心の中まで変えていくことにつながる、と著者は問題を提起する。どういうことか。
AIのセンサーは、どういう手入れをすればいいか(どういう技術を選択すればいいか)を判断するためだけのデータを収集する。作物の育ち具合も、測定できる(数値化できる)尺度だけで把握する。
一方、「百姓が“見る”ということは、目だけでなく、身体全体で、さらにそれまでの経験を呼び起こして、相手の生き物の気持ちを感じるもの」であり、そうでなければ自然界に太刀打ちできない。AIに依存すれば、作物の育ちを見ることの喜びも、病害虫にやられている姿を見ることの辛さもなくなり、百姓は充実感も挫折感も味わうことはなくなり、経験を蓄積していくこともできなくなる。百姓の幸せや生き甲斐は奪われ、経験知を伝える場も人間関係も失われて、コミュニティが成り立たなくなってしまうかもしれない。
百姓の熟練知(経験知)は、人間から人間に伝えることはできるが、それをマニュアル化してAIに覚えさせることには壁があるという。というのも、熟練知とは、言葉では表現できない世界に根ざしているからだ。「身体で感じてつかんだコツは、言葉ではなく、手取り足取り伝えてもらうか、見よう見まねで真似るしかない」。
最終章の著者の次の言葉は考えさせる。
「私たちはいつの間にか、近代化で自分の人生だけでなく、生きものの生にも効率を求めるようになっているのではないでしょうか。百姓だけでなく、現代人が“生きにくい”と感じる一番の理由はここにある、と私は感じます」
(農山漁村文化協会発行、四六判・264ページ、定価1800円+税)





















