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野村萩市政の詐欺・略奪  東行記念館から高杉史料持出し

高杉晋作を顕彰する東行記念館(下関市吉田)から約270点の高杉史料が持ち出された事件から2年近くがたつ。その結果は、高杉記念館を裏切って史料持ち出しで役割をはたした一坂太郎元学芸員が萩市に雇われ、マスコミにもとりたてられる一方、最近開館した萩市博物館に貧相な展示がされている。一坂氏は、二井知事の側近で県公安委員長をしていた末永弁護士らの弁護で、居直り強盗のように東行庵の責任者を相手とした損害賠償を求める裁判をしている。ところがこの裁判で、当時、萩市が東行記念館から史料を持ち出すため、早くから日本通運山口支店に運搬を手配していたことが判明した。これまで萩市・野村市長は「高杉記念館の閉館を報道ではじめて知った」とシラを切っていたが、そのまえから日通に手配していたし、その後も人人を欺きつづけてきていたのである。高杉晋作と明治維新への冒涜(とく)にたいして県民の憤激が強まらざるをえない。

 全国からの寄贈品まで持ち出す
 今回、東行記念館からの高杉史料持ち出しをめぐって新たに発覚した事実関係はつぎのようなものである。
 高杉晋作のひ孫にあたる高杉勝氏から突然、「遺品の整理、補修のため」として東行記念館に史料の返還を求める話がきたのは、2003年1月15日であった。返還期日を2月28日までとしていたため、東行庵側は責任役員会を開き対応を検討。2月15日をもって記念館の一時休館を決め、31日に記者会見にのぞんだ。東行庵側が翌2月1日に搬出するのを知ったのは、同日の夜であった。すでに早くから持ち出す史料をまとめていたのは一坂氏であった。
 その日の夕方に萩・野村市長は「東行記念館が閉館され、高杉晋作史料が高杉勝氏に返還されるという情報」を知り、2月3日に高杉氏に史料の寄託を申し入れ、一坂氏には萩市への招へいを要請したとしていた。
 ところが日本通運山口支店の法廷証言によると、1月17日から23日のあいだに萩市郷土博物館の館長から、「東行記念館から高杉晋作史料の梱包、運搬依頼」を受けていた。そして史料が運び出された2月1日は、一坂氏の指図のもとで作業をおこない、撤収作業がすむと、防府通運(株)山口営業所にもどり、2月10日まで史料を車両に積んだまま保管していた。その後、同社のトランクルームに移動し、五月四日まで保管していたことが明らかとなった。
 当初、高杉勝氏は山口新聞に「遺品は東京で補修したあと、しかるべき場所で保管し、運営団体がしっかりしているところに貸したい」(2月1日付)と語っていた。また撤収作業を終えた2日付の朝日新聞には「わたしは閉館発表を知らされていなかった。遺品はしばらく自宅に引きとる」とコメントしていた。
 その後1カ月して、高杉氏から3月5日に文書で萩市への寄託依頼があったとして、萩市は6日に正式に高杉史料の寄託を受け入れたと発表した。野村市長は7日の記者会見で「これで県外に流出することはない。責任の重大さを感じている」とのべたうえで、「下関市民の気持ちを思うと一概に喜べない」とし「(東行記念館の)保存・管理状態が悪く、総代会で追い出しが決まったと聞き、それではということで手をあげた」とのべている。
 しかし萩市側は2月11日に、日通にたいして運搬料について、萩市宛の請求書を、一職員の個人宅に送りつけるよう指示していた。その後、日通は29日付で東行庵から美術品倉庫までかかった運送費として、萩市に19万7505円を請求した。萩市が日通に支払った日は、高杉家の寄託が正式に決まった翌日の3月7日で、萩市収入役が払っている。
 その後、5月4日には日通山口営業所の美術品倉庫から萩市郷土博物館へ史料を搬入しており、日通はそれまでの保管料として10万9725円を15日付で萩市に請求。21日には萩市収入役が支払いを済ませている。
 しかし、萩市は7月31日になって「7月27日に、高杉史料が高杉家から萩市へ搬入された」とこれまたウソの発表をした。28日には一坂氏に持ち出し史料の情報処理を委託している。

 下関・江島市長の動向も不可解
 またこの間の下関・江島市長の動向も不可解で、みずからが発起人となって史料の展示継続を求める署名を起こし、市民に10万人の署名を集めさせておきながら、萩市が正式寄託を表明すると「残念でならない。萩と協力しながら、署名の熱意をむだにしないよう、新しい形の顕彰をさぐりたい」と芝居をうった。このころ、萩市役所の幹部は「市長は下関市長との合意のうえで決めたことだ」と明かしている。
 こうした一連の事実で明らかになったのは、東行記念館の高杉晋作史料を、高杉顕彰を嫌う連中が寄ってたかって、山口県民、下関市民をはじめ地元・吉田住民をだまして略奪したことである。

 騒動を煽ったマスコミ
 史料が持ち出される直前には、マスコミが一坂氏をかついで、東行庵側と高杉勝氏との対立をあおり、地元を混乱させ、そのどさくさに史料のほとんどを持ち出すという騒動を演じた。その後も「記念館老朽化で史料引き揚げ」「高杉の顕彰ではなく、分譲目的の墓地製造に奔走し始めた東行庵」などと報じ、東行庵の運営責任者に問題があるとヤンヤと報道した。
 懲戒免職にあたる一坂元学芸員が「不当解雇だ」として東行庵責任役員の個人を裁判に訴えると、元県公安委員長の末永汎本氏をふくむ四人の弁護団が加担し、1000万円の慰謝料を請求するなどの脅しをかけた。
 「高杉史料は持ち出される3、4年まえからすでに話がついていた」と関係者のあいだでは話されているが、持ち出し騒動のころ、野村市長自身が質問された知人にたいし「高杉勝さんとはまえから念書をかわしていたんだ」と認めている。
 騒動が起こる1年まえには、県が明治維新館の基本計画策定委員会を立ち上げているが、その以前に集めた懇話会には、野村市長、一坂氏の2人もメンバーにふくまれていた。山口県は萩市を明治維新の観光ターゲットとして重点をおいており、「県も、河村建夫元大臣も関与している」と話されている。
 こうした一連の動きからはっきりいえることは、行政が詐欺横領に走っているという事実である。金丸信の不正摘発を指揮した国税庁の正義派という看板の野村市長が、裁判所でも偽証しているのである。
 さらに持ち出された史料については、一坂氏も高杉勝氏もどこの所有かわからないものが多く、下関でも自分が東行庵に預けたものも持っていかれているという例もあり、全国から寄せられた寄贈品もあり、先代から引きつがれた東行庵のハンコがつかれた遺品や、所有権不明の遺品が多い。高杉勝氏の財産相続といっても、相続税を払った形跡はなく、東行庵の所有としてあつかわれてきたことも明らかで、問題はまだまだ深刻である。
 地元・吉田の住民たちが怒っているのは、高杉晋作を顕彰する東行庵に雇われていながら、明治維新を敗者の側からとりあげたり、高杉の彦島での講和談判の事実はなかったとか、俗論党の復権をはかるようなことをして史実のねじ曲げをし、ついには、東行庵から史料を持ち出し高杉記念館をつぶすことに加担した一坂太郎氏の行動である。「かれは高杉攻撃をするために入りこんできた人物だ」ともっぱらの評判で、抹殺する役割をはたしてきたことが、あらためてふり返られている。
 これら一連の詐欺横領は、高杉晋作にたいする冒涜であり、外国からの侵略をはねのけ、日本の独立のために決起し幕府を倒した高杉晋作と明治維新の父祖たちの偉業を嫌う連中の仕業である。

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