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高杉晋作史料、東行庵に返還  高杉晋作抹殺の謀略覆す  一坂氏と萩市長の犯罪暴露

高杉晋作の眠る下関市吉田の東行庵に、萩市の萩博物館に強奪されていた高杉晋作史料240点が五年ぶりに返還されることになったことが市民のあいだで喜ばれている。とくに、史料の取り戻しに努力をはらってきた東行庵関係者や地元吉田の人人にとっては、喜びもひとしおである。しかし、返還を伝えるマスコミ報道が、まるで江島・下関市長と野村・萩市長の手柄であるかのように報道していることに、疑念の目を向ける人も多い。この間の事実は、高杉晋作と明治維新革命の真実を抹殺する流れのなかでしくまれた大がかりな謀略が、広範な県民世論のもとで頓挫したことを示している。
 2003三年2月1日、東行記念館から、突如として高杉史料240点が強奪された。
 高杉晋作の遺骸は、晋作自身の遺言にもとづいて、下関市吉田の清水山に葬られている。それは奇兵隊の本拠地が吉田にあったからであり、同じ場所には多数の奇兵隊士の墓もある。東行記念館にあった史料は、高杉が馬関攘夷戦争後の四国連合艦隊との講和談判に赴くとき身にまとった直垂(ひたたれ)や、功山寺決起のときに身につけた兜、吉田松陰の獄中書簡、奇兵隊旗、小倉戦争指図書、また高杉の手紙、日記、詩稿などであり、まさに明治維新の中心地・下関にとって最重要といえる歴史資料であった。
 それは長年にわたって地元吉田の人人、また広く下関市民、山口県民によって大切に守られてきた。
 ところがこれらの人人がまったく知らないうちに、突如として高杉史料が運び出された。当時東行記念館の副館長であり学芸員であった一坂太郎氏は、その前から独断で持ち出す史料を選別し荷づくりをしていた。
 2月16日、東行記念館は一時閉館となり、翌日、東行庵は一坂氏を解雇した。これに対して一坂氏は「理由のない解雇」といって、東行庵役員に1000万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。
 異常だったのは萩市の野村市長の動きで、史料持ち出し直後の2月3日、高杉史料を一坂氏とともに受け入れると発表した。そして04年11月に萩博物館がオープンすると一坂氏はそこにおさまった。
 また下関市の江島市長も、史料は東行庵に戻せというのではなく、「史料は下関の新博物館に」という唐突な発言をし、直後には市長みずから発起人になって史料引き留め署名を訴えたが、自治会関係者や文化人などの奮斗で10万人分が集まっても、それをもとに史料返還要求をすることはなにもしなかった。そればかりか3月6日に野村市長が高杉史料の正式寄託を発表すると、同日、即座にこれを認める記者会見をおこなった。
 悪質なのは山口新聞をはじめとするマスコミで、東行庵の記者会見では、「管理が悪い」などと頭から東行庵側を攻撃し、記者会見はまるで集団的な糾弾大会のようになった。とくに最大のターゲットになったのが東行庵の兼務住職であった故江村深教氏(功山寺副住職)で、高齢のうえにこの騒動によって心労がたたり、死去に追い込まれた。
 これには二井県政も深く関わっていた。一坂氏が起こした訴訟には、二井知事の選挙後援会で功労をあげて県公安委員長になり、県警側も顔色をうかがう関係の末永汎本弁護士はじめ、四人の弁護士がついた。
 また二井県政は当時、萩に県立の明治維新館を建設する計画を進めていた。
 明治維新館の基本構想懇話会には一坂氏と野村市長が名を連ね、ウィリアム・スティール国際基督教大教授(ハーバード大卒)も加えて明治維新史の見直しをおこなおうとするものであった。一坂氏は、高杉の講和談判は史料にないので作り話だと主張したり、「松陰や高杉などの偉人伝は中央でつくられたものでどうでもよい」「本物の歴史は敗者(徳川幕府や俗論派)のなかにある」などと本に書いてきたが、こうした内容は近年、明治維新史学会をはじめとする日本の歴史学会のなかではびこってきたものである。
 つまり高杉史料の持ち出しは、下関がいいか萩がいいかという問題を超えて、明治維新革命の指導者であり百姓や町人とともに討幕と民族独立を成し遂げた高杉晋作の業績を抹殺しようとする、県民の父祖たちを冒する流れのなかで引き起こされたものであった。
 その後大きな転機となったのは、昨年3月5日、一坂氏の損害賠償訴訟に山口地裁下関支部で判決が下り、一坂氏の訴えが棄却され、一坂氏解雇は正当であるとして東行庵側が勝利したことである。
 判決文から、萩の野村市長側がはじめから一坂氏と示しあわせて東行庵の高杉史料を泥棒しようと計画していたことが明らかになった。野村市長は当時、「東行記念館の閉館を報道ではじめて知った」とシラを切っていたが、それがウソであったことが暴露された。事実は、東行庵側の記者会見の前の03年1月下旬に萩市が、「史料搬出につき専門業者を押さえることができた」と連絡し、2月1日に東行庵から搬出することを一坂氏と打ち合わせていた。
 当時山口新聞などは「遺品は東京で補修したあとしかるべき場所で保管する」と報道したが、史料ははじめから東京になど行かず日通防府支店の美術倉庫に搬送されて保管され、5月4日に萩市の郷土博物館に搬送され保管された。しかもこの仕事は萩市からの発注で、日通防府支店山口輸送・引越センターはその梱包・輸送作業代を萩市に請求していた。しかし、萩市は7月31日「7月27日に高杉史料が高杉家から萩市に搬入された」とウソの報道発表をした。
 また判決文は、東行庵の高杉史料が「高杉家からの寄託ではなく寄贈」であり、「この認定を覆すだけの証拠はない」とした。そしてその証拠として、高杉勝氏も出席した1966年の高杉東行百年祭での市長発言や『関門報知』の報道や、『東行庵だより』62号のなかの一坂氏自身の文章などをあげている。

 子供の教育のために整備を
 この判決を受け高杉史料の東行庵への返還を求める世論は一層高まった。地元吉田では、史料返還のための訴訟を起こす意見もあったが、直系の末裔である勝氏との関係を尊重するところから粘り強い話しあいをおこなってきた。
 また、明治維新140年となる今年、郷土の誇りである高杉晋作と明治維新革命を現代に顕彰しようという世論が、ほうはいとして巻き起こってきた。
 東行庵は、昨年あたりから訪れる人が増えはじめており、「維新に関心を持ち、全国から10代、20代の若者が来るようになったのが特徴」だと話されている。6月21日におこなわれた劇団はぐるま座下関公演『動けば雷電の如く』は、全市的な市民自身の運動になり、昼夜1400人が参加した。
 一方、県立明治維新館の計画は、基本構想懇話会が解散となり、「土地取得を含めて白紙」となった。「日本を変えた維新の歴史と高杉の生き方を子どもたちに受け継がせよう」という世論と運動が、維新冒潮流をうち破って、今後全国的に広がっていくことは疑いない。
 今回、高杉史料の返還となったことで、これを契機に東行庵の展示内容も整備して、全国から訪れる維新ツアーの観光客、とりわけ山口県の子どもたちや全国からの修学旅行生が定期的に訪れ学ぶことができる教育の場としてより充実したものにしてほしいという要求は強い。日本の現状を変える展望が真剣に模索されている今、切望されている。
 野村市長は高杉史料の泥棒と数数の偽証のうえに、ここに至っても「維新140年記念事業のため」などといって返還を引き延ばすことはやめて、ただちに全史料の返還に応じなければならない。萩への貸し出しはそのあとの問題である。すでに高杉勝氏は6月13日付で、「萩博物館に寄託した高杉晋作に係わる資料一式の返還」と「東行記念館への搬送」を東行庵兼務住職・松野氏に委任する委任状を出している。
 江島市長も高杉史料を市が管理するなどといって新博物館の利権に利用するようなことをせず、東行記念館の整備に行政としての当然の支援をおこなうべきである。

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