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震災10年の東北現地ルポ かさ上げ造成したものの…宅地の利用率25% 岩手県陸前高田市

 東日本大震災から、3月11日で10年を迎える。岩手、宮城の三陸沿岸部では、地震による被害もさることながら津波による被害が甚大で、市街地における人々の生活や、漁業、市場、加工業など海とともに生きてきた人々の生業が壊滅した。そして被災者の多くがこれまで暮らしてきた土地から離れて避難し、仮設住宅などでの暮らしをよぎなくされた。あれから10年、被災地で人々の生活や生業はどのように立て直されてきたのか。被災地のありのままの現状を見つめ、その地に暮らし働く人々の10年の経験と思いを拾い集めながら、「復興」は成し遂げられたのか、「誰のための復興なのか」をテーマに、三陸沿岸を南下しながら取材を開始した。

 

陸前高田市中心市街地の周辺には現在も広大な更地が広がっている(23日)

 取材初日は、岩手県の最南部にある陸前高田市を取材した。陸前高田市は津波による被害がとくに甚大だった地域だ。三陸地域特有のリアス式海岸のなかでもとくに大きい広田湾を津波が遡り、北上山地から流れる気仙川の三角州に位置する市街地に押し寄せた。当時構築されていた5・5㍍の堤防を優にこえる15㍍以上もの津波は市街地を飲み込み、津波浸水高は最大で17・6㍍、地震と津波による被災世帯は99・5%、行方不明者を含む犠牲者は1758人にのぼり、当時の人口の実に7・2%が犠牲となった。

 

 陸前高田市では、震災後から市街地全体をかさ上げし、同時に浸水した地域の住居を高台へと移転する「高田地区・今泉地区被災市街地復興土地区画整理事業」が進められた。この事業は、市内今泉地区にある愛宕山(海抜125㍍)を約3分の1(45㍍)の高さまで切り崩し、土砂をベルトコンベアで造成地へと直接搬出して市街地を平均約10㍍かさ上げして、その造成地に新しい街をつくるというものだ。造成地の工事はすでに完了しているが、それ以外の道路や防潮堤、地盤整備のための工事が現在も市内各所で続いている。

 

 この事業が進む間、被災した住民は高台の仮設住宅や内陸部のみなし仮設などに住まいを移した。市街地の大部分でかさ上げ工事がおこなわれていたためまとまった土地が少なく、学校のグラウンドや民間事業者の所有地を借りて仮設住宅が整備された。狭い仮設住宅へ移るということで、これまで一緒に暮らしてきた家族が分散して核家族化が進み、さらに元の町内会などのコミュニティもバラバラになっていった。

 

 その後も住民は仮設住宅から別の仮設住宅に移ったり、高台造成地に住宅を再建したり、災害公営住宅などへと転居してさらに分散していった。もともと住宅があった市街地ではかさ上げ事業が長期にわたっておこなわれていたため、造成が完了して引き渡されるまでは元の住宅地に戻れなかった。

 

 そのため待ちくたびれて高台に新居を建てたり、市外へと転出していった市民も少なくない。その結果、被災直後の2011年3月末に2万813人いた市民は、今年3月末時点で1万8618人となっている。この10年間で人口の1割にあたる市民約2000人が減少した。

 

 津波被害が甚大だった三陸地方のなかでも突出して大規模な復興事業が進められてきた陸前高田市。1月にはかさ上げ造成地の引き渡しが完了し、3月末には市内で最後の仮設住宅である「滝の里仮設団地」が解消となる。

 

陸前高田市の滝の里仮設団地。3月末で解消予定

 オリンピック開催年であり、震災10年目の節目を迎えるなかで「復興」を印象づける報道も増えているが、この10年間、そして現在、将来の陸前高田を、地域の人々はどのような思いで見つめているのだろうか。

 

コミュニティの再建へ 中心市街地は整備

 

 陸前高田市内では、被災した直後からかさ上げ工事が何年にもわたって続けられてきたが、2017年4月にようやく中心市街地の中核として地元の専門店やドラッグストア、市立図書館などが入った「アバッセたかた」がオープンした。

 

 これを皮切りに地元の飲食店や美容室、土産物屋やカフェ、衣料品店、生花店、洋菓子店、地元企業などがこの地に戻って軒を構えるようになり、少しずつだが地元住民の生活に身近な交流拠点として整備されてきた。住民のほとんどがかさ上げ造成地よりもさらに一段上の高台に暮らしており、そこから買い物や飲食のために中心市街地まで降りてくる。

 

 今から4年前の2017年に取材でこの地を訪れたときとは見違えるほど整備が進んでおり、平日といえどアバッセたかたの駐車場には多くの車が停まっている。行き交う車を見ても、以前は大型ダンプばかりで砂埃が常に舞っているような状況だったが、現在はそのほとんどが乗用車だ。夕方薄暗くなっても灯りが明々とともり、仕事帰りの市民がスーパーや個人商店に立ち寄る姿も多く見られる。

 

 この区域一帯が市民生活の拠点として機能し始めているという印象を受けた。

 

かさ上げ造成地に出店した店で買い物をする住民

 ある商店主は「昨年ようやく自分の店を建てることができた。震災で家族も亡くしたが、生き残った者としていつかは元の場所に戻って店を建て、この町の復興や、将来のために役に立ちたいと思っていた。元あった土地や店や家族が戻ってくるわけではないが、この場所こそが自分の家であり、故郷だ。借金をして店を再建したが、自分はもうけるために店をやっていくつもりはない。この地に戻ってきた店主たちはみんな歯を食いしばって腹をくくり、命をかけて商売している。震災から10年が経ったが、ようやく家も店も建ててスタート地点に立てた。自分にとっての本当の復興はこれからだ」と話していた。

 

 チャレンジショップテナントの従業員は「“震災から10年”というのが一つのわかりやすい区切りとなるかもしれないが、この地で暮らしている私たちにとっては5年経とうが10年経とうが生活がそこで変わるわけでもなく、“区切り”という実感はない。だが、この地に住み、働き続けることを選んだ者として、この街がこれからどう変わっていくかを見届けたいし、自分の子どもにも見せたい。ハード面の復旧は時間と人手さえあれば誰がやっても進む。しかしまちづくりは生活している人が関わり、主体となっていかなければ成り立たない。その一員として貢献していきたい」と語った。

 

 中心市街地の各店舗でインタビューすると、家族や家、店まですべてをなくした人もいた。それでも元の場所で商売を再開することを通じて陸前高田の街に貢献し、自分たちの手で新しい生活やコミュニティを再構築するため、将来を見据えて新たなスタートを踏み出している。

 

固定資産税 3倍の所も造成地渡されたが…

 

 しかし、様子は一変する。中心市街地から少し離れて市街地全体に目を向けると、同じ街でありながら突然殺風景で広大な造成地へと景色が切りかわる。周辺一帯の土地も同じように土をもってかさ上げをしてつくられた造成地なのだが、建っている民家はごくわずかだ。だだっ広い造成地が遠くまで見渡せ、民家は指折りで数えられるほどしかない。

 

かさ上げし宅地造成した区域は、ほとんど更地のまま

広田湾と市街地を隔てる巨大な防潮堤。高さ12.5m、全長約2kmで、市街地から海は見えない

 それもそのはず、市によると大規模かさ上げ造成をおこなった区画のうち、民有地の利用率はたったの25・2%となっている。この数字は今後利用する予定も含んだものであるため、残りの74・8%は現時点では利用の予定がない。大規模なかさ上げ造成工事が長期にわたるなかで、仮設や公営住宅に仮住まいをして元の土地に戻ろうと思っていた人たちもいた。しかし住んでいた仮設住宅が解消されて別の仮設住宅に転居しなければならなくなったりと生活拠点が定まらないなか、造成工事に待ちくたびれて復帰をあきらめる住民は年々増えていった。

 

 とくに市内でも造成が遅れたのが今泉地区だ。同地区は気仙川沿いに震災前は約560世帯あったが、津波によって流され、浸水地域ということで元の場所に家を建てることはできなくなった。今泉地区の住民は、現在土砂搬出のために切り崩した愛宕山を宅地造成した土地に自宅を再建しているが、土砂の搬出が終わってからの造成・自宅再建となったため遅れが生じた。

 

 今泉地区の高台造成地に住む女性は「私が仮設を出て自宅を再建したのは震災から7年目のことだった。それでもこの地区で再建した人のなかでは早い方だった。結局、すべての引き渡しが終わったが、戻ってきた世帯は震災前の半分弱ほどだ。それまで何人もの知り合いが市外に転出していった」と話す。離ればなれになった知り合いとはSNSで連絡をとりあい、変わっていく陸前高田の様子を写真に撮って送ったりしているという。「造成に時間がかかったのは、オリンピックも無関係ではないという人もいる。たしかにオリンピックが近づくにつれて作業員からは“人手が少ない”“資材が高くなった”“資材が足りない”という声も聞くようになった。“復興五輪”などのキャッチフレーズも聞くが、現地にいる側の自分たちは逆のイメージを抱いてしまう。本当のところ、オリンピックが足かせになったのかどうかもわからないが、これだけ時間がかかり、知り合いも一人また一人と市外へ転出していってやるせない思いもしてきたので、どうしても気持ちの片隅にそういう思いが湧いてしまう」と複雑な心境を語っていた。

 

 また、造成が完了して用地が引き渡された住民も、新たな問題に直面している。オリンピック開催年となる今年、東北の被災地ではすべての造成工事が終了し、陸前高田市では1月23日に最後の宅地引き渡しが完了した。しかし実際には、「ようやく工事が終わり宅地が住民の手に戻る」という安堵のイメージとは裏腹の課題が浮き彫りになっている。

 

 今泉地区のある住民は、津波で流された実家の震災以前の土地が、造成後に宅地として引き渡されたときには3カ所に分割されていたという。「震災前1カ所だった実家が、土地評価の結果“3カ所の合計があなたの土地です”という形で返ってきた。自宅を再建するには手狭な土地だし、3カ所に離れた土地を個人がどうやって使えば良いかもわからない。結局引き渡された土地のうちの1カ所に家を建てたが、残りの土地はそのままになっている。広い土地を持っていた人の場合はもっと細かく分割されるケースもあると聞く。使っていない土地でも固定資産税は毎年かかるし、宅地として造成して家が建っていない状況ならなおさら税金は高くとられてしまう。売りに出すにも戻ってくる人はもういないので買い手がつくことはほとんどない」と話していた。

 

 別の住民は「自分の知り合いは、震災前の土地に対して減歩率が15%で新しい造成地が引き渡されたが、もともと農地で固定資産税が安かった土地までまとめて宅地造成したおかげで、税金は震災前の約3倍にあたる年間120万~130万円まで跳ね上がったと聞いた。土地が引き渡されてから税金の上がり幅を見て驚いたが、市に問い合わせても“説明会は開いています”ということで、さらに説明会当時は土地の評価が終わっていなかったので造成後の固定資産税の額まではわからなかったということだった。かさ上げした場所などによって条件はいろいろ異なるようだが、震災から10年が経ったが、納得のいく状況とはいえない人も多いと思う」と話していた。

 

 宅地の引き渡しは完了したが、今後市内のかさ上げ造成地に新たに宅地を購入して家を建てる人があらわれる見込みはない。そのため土地をもてあまして多額の税金だけがかかって困っている住民も数多くいる。その土地を売ってほしいという企業や事業所がいても、宅地1軒分の広さでは狭すぎる。その場合、店舗を建てたい企業が、隣の土地を持っている別の住民とも交渉しなければならなくなり、こうした土地をめぐる煩雑な手続きがネックになり土地利用がなかなか進まないことも住民の間で問題になっている。

 

 大規模にかさ上げした造成地の大部分が震災から10年を経て「用なし」のまま住民の手に引き渡され、皆が「どうしたらいいのか…」と持てあましたまま時間の経過とともに固定資産税だけが吸い上げられていく……。そんな停滞感ともどかしさが渦巻いていた。

 

市庁舎等建設ラッシュ 「ワタミランド」も

 

 陸前高田市内では、造成した土地への住民の帰還が進まないなか、大規模なハコモノ事業が進んでいる。今後注目されているのが「ワタミオーガニックランド」だ。ワタミグループが有機・循環型社会をテーマに農場、牧場、養鶏、ショップ、レストラン、発電施設、宿泊施設などをもうけ、年間3億円の売上、来場者35万人を見込んだ大規模事業だ。今年3月28日に一部オープン、4月29日に完全オープンの予定だ。また、「ドーミーイン」などのホテル事業を展開する共立メンテナンスが中心市街地に六階建てのホテルを建設し、22年1月の開業を目指している。

 

 さらに、市庁舎も被災直後からプレハブの仮設だったものが七階建ての巨大な庁舎へと建て替え工事中で、5月頃の利用開始を目指している。博物館も建設中で、その他にも市民文化会館や道の駅も震災以前よりも立派なつくりで建設された。周辺に住民が暮らす住居がほとんどない市街地に建つ新設の巨大な施設は余計に目を引く。住民の地元復帰や住宅再建は目処が立ち、造成地のほとんどが空き地のまま現時点で人口増加の見込みが薄いなか、市街地でハコモノ事業だけが着々と進んで形となっていく姿に違和感を覚える地元の人々も少なくない。

 

 中心街に店を構える飲食店主は「この町の人口も事業所も少なくなっていくなかで、市の税収は減り運営はもっと大変になるはずだ。それなのに大金をかけてあれほど大きな庁舎やホールが今の陸前高田に必要なのかと思ってしまう。一方で、私たちが店を再建するときに国のグループ補助金を受けようと申請をしたら、震災前にあった機材の証拠が必要なので領収書を提出してくれといわれた。津波で何もかも流されているのに、そこまでしないと補助が受けられないのかと……。震災復興の過程で、国の補助金には間違いなく助けられたし、それがなければ今の私たちはない。それでも“復興”を名目にした税金の使い道には納得できない部分が多々ある」と語った。

 

 海産物販売店の店主は「どうして今あんなに大きな市役所を建てるのか。その他にも道の駅や博物館、市民会館など全部震災前より大規模なつくりになっている。今陸前高田に必要なのは若者が暮らしていけるための職場だ。そうでないとこの地で暮らす理由はないし、この課題を解決するための施策が必要だ。道の駅もかつては地元の農水産物が豊富で地元の住民が買い物しやすい場だったが、今は観光客相手の土産物屋のような雰囲気になり、陸前高田と関係ない品が置かれていることもある。いくら立派な建物で見栄えはよくても地元から離れていくような事業では、陸前高田のためにならない」と話していた。

 

 ゼロ歳の子どもを育てている母親は「これからのまちづくりを地元の人たちで真剣に考えていかないといけない。これまでの10年で一番の教訓は行政だけを頼っていただけではだめだということ。ワタミの農業テーマパークや、ホテル建設など、大きな事業の計画もあるが、地元の人々の仕事や暮らしとはどことなく切り離されたものになりはしないか心配だ。私たちが住む陸前高田市は1日1日をただ生活するだけなら困らない環境まで復旧している。しかし最近はそれでいいのか?と思っている」とのべた。

 

 続けて、「昨日も独居老人の孤独死があったし、高台に自宅を再建した高齢者が3年もしないうちに亡くなって新築の空き家が増えたりもしている。子どもたちにどんな街を引き継ぐのか、せっかく生き残った者たちがどんどんまちづくりに参加してなんとかしていかないといけない」と話していた。

 

 津波被害がとくに甚大だった陸前高田市。大規模かさ上げ造成事業によって住民の多くが仮設住宅や高台から造成工事が終わるのを待ち続けてきた。それまでに市外へ出て行った人もいる。10年経ってふたを開けてみれば、長年待ち望んだかさ上げ造成地に戻ってくる店や人はごくわずかで、高台から造成地を見下ろす生活に大きな変化はあらわれていなかった。今後空白の土地がどのように利用されていくか、具体的なイメージは誰も想像がつかない。商業施設や商店の出店、ハコモノ事業が進む一方で、かつて家々が立ち並んだ土地の上で再び人々が暮らす将来は見えない。それでも、今回の取材でインタビューした人たちはみんな、前を向いていた。長年待ち続けてようやく店を構え、資金的な負担も背負いながらも、「“ここ”から、ゼロからみずからの手で街のこれからを担っていく」という静かで熱く固い決意をひしひしと感じた。

 

 あの日の津波で家族を亡くしたある男性店主の言葉が胸に刺さった。「これまでのメディアは楽をしすぎていると思う。被災地のだれかがインタビューされ、熱く語る様子や印象的なエピソードが報道されると、同じテーマをなぞるように後から後から別の記者がその人のところに取材に来る姿を見てきた。でも、本当に悲惨でつらい経験をした人は、人前であんなに饒舌に話せない。そういう人ほど胸に秘めた切実な願いや意見を持っていると思う。あなたたち記者はぜひ、足を使って、そんな人たちにこそ出会い、本音で語り合って、被災者の声を届けてほしい……」と。

 

 これから三陸の沿岸部を南下しながら、人々の暮らしや生業の復興の現在地を取材する。「足を使え」――。この言葉を胸に刻み、できる限り多くの人たちの真実の思いに触れ、伝えていきたいと思う。 

 

 (つづく)

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