いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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井上清(京都大学名誉教授)の元号制批判から見た歴史的背景

 新しい元号が「令和」に決まった。商業マスコミは競ってこれを賛美し、元号制が「日本の美しい伝統」であり、天皇代替わりとそれにともなう元号の制定によって「新しい時代」が到来するかのように宣伝している。普段何気なく使っている元号だが、ちまたでは、「明治」「大正」「昭和」から「平成」に続く新たな年号が加わり、「西暦との換算がさらにややこしくなった」「改修実務がわずらわしい」などの声が飛び交っている。そもそも元号とは何だったのか、なぜ政府・マスコミがこれほど「元号フィーバー」を演出するのか。歴史を遡(さかのぼ)って冷静に検証する必要があるだろう。

 

 テレビや大手商業紙は元号問題を時間と紙面を割いて連日大きく扱い、中国古典ではなく日本の万葉集から採った「令和」がいかに美しい響きを持つか、どのように極秘で選定されたのか、元号制が世界で日本だけの誇るべき伝統でいかに国民から歓迎されているかなど、統一された報道に終始している。

 

 安倍首相は閣議決定後の談話で「万葉集は天皇や皇族・貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで幅広い階層の人人が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書だ」と強調した。さらに、「元号は皇室の長い伝統と、国家の安泰と国民の幸福への深い願いとともに1400年近くにわたるわが国の歴史を紡いできた。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものともなっている。新しい元号も広く国民に受け入れられ、日本人の生活のなかに深く根差していくことを心から願っている」と語った。元号は「皇室の長い伝統」と「日本国民の精神的な一体感」を支えてきたのだから、新元号をもっと国民の生活に深く根ざすものにしたいという、はやる思いをにじませている。

 

 だが日本の歴史をたどるなら、元号と国民の関係がまるでそのようなものではなかったことを教えている。以下、歴史学者である井上清・京都大学名誉教授(故人)の著書をもとに、史実を整理してみた。

 

中国を真似た元号制 律令制制定時に輸入

 

元号を創始した漢の武帝

 元号の起源は、古代中国・漢の武帝(在位、紀元前141~87年)が定めた年を表記する方法に行き着く。中国古代の専制君主制のもとでは、皇帝は天の子(=天子)とされた。皇帝は国土(空間)を支配するのみでなく、時間をも支配するという思想にもとづき、皇帝自身が年を表記する起点(=元)を定めそれに名号をつけた年号が元号と呼ばれた。

 

 以後、歴代皇帝が即位すれば新たに元号を制定する時代が清朝まで続いた。元号は災害や革命に関する当時の迷信にもとづいて頻繁に改元されたが、それも時間を支配する皇帝を権威づける手段であった。中国で一代の皇帝につき一つの元号とする「一世一元制」となったのは、明朝からである。そのことで、皇帝を権威づけ被支配者にその年号を使用させ、服従を表明させるという元号制本来の機能は飛躍的に高まった。

 

 日本の元号制が公式には大宝律令(701年)以来、1300年ほど続いてきたことは確かである。しかし、それは古代統一国家の律令制を定めたもとで、天皇の権威を全国に知らしめ統合する目的をもって、中国の王朝(当時は唐)の専制君主制の思想理論をそっくりそのまま輸入、模倣したものであった。このことは、年号が中国の古典に根拠を持つ文字に限られてきたことに端的に示されている。

 

 ちなみに、「令和」が万葉集の序文(漢文)を根拠にした初の「和風元号」とされるが、多くの漢学者が指摘するように、その箇所も元をさぐれば中国の古典である詩文集「文選(もんぜん)」の一句「仲春令月、時和気清」にたどり着く。

 

元号の存在知らぬ庶民 江戸時代まで干支中心

 

 日本の元号制はしたがって、中国の専制君主制を真似た天皇・宮廷、さらにはその権威を利用した幕府も交えた伝統として続いたが、1000年以上の歴史のなかで日本人の心情や精神的一体感を支えてきたというものではまったくなかった。事実、近代統一国家への革命をとげた「明治」まで、一般の民衆は元号の存在すら知らなかったのである。

 

 奈良・平安時代には、元号は天皇とそのまわりの貴族、そこから任命された地方官など、古代天皇制為政者の間の公文書で用いられただけである。それが次第に僧侶や知識人の間にも伝わり、使われるようになった。元号はもともと、時を記録する手段としては役に立たない。日本の国民に歴史的に根付いてきた紀年法は元号ではなく、日常生活では干支(えと)で年をあらわしてきた。庚午、戊辰など十干十二支(甲乙丙丁……、子丑寅卯……)の組み合わせで、その年が特定できたからである。

 

 実際に歴史を認識するうえでも、志士たちも含めて癸丑の黒船来航。庚午の戦争、戊午の大獄、戊辰の役などといっていた。嘉永6年、安政5年、元治元年、慶応4年などといえば、それぞれの大事件のどれが先でどれが後かさえわからず、ましてやこの四つの事件の間に何年たっているのかわからない。干支でいえば当時はすぐわかった。

 

 日本の元号制でも、政治的混乱や飢饉や天災、その他さまざまな理由をつけては頻繁に改元があった。しかしそのことが、元号が天皇の権威と結び付けて一般に広まるのとは逆方向に作用したといえる。江戸時代の事例としてあげられるのが、1772(明和9)年のことである。この年、浅間山の噴火や東北の大飢饉などが頻繁に起こったことから、「明和九」(めいわく)という年号が悪いとして、「安永」と改元された。江戸の人人はこれを、「年号は安く永しとかわれども諸式高直(物価が上がること)いまに迷惑」とからかうほどであった。

 

 それが、今日では日本人の生活のなかで元号が大きな位置を占めるようになっている。現代の日本人は天皇と結びついた年号を意識することなしに社会生活を営むことはできない。役所の公文書は元号を使うし、各個人も自分の生年月日から学業過程など元号とともに育ってきた。

 

 さらに結婚、子どもの出生、親族の死亡などの戸籍届けや納税、登記などあらゆる手続きが元号なしには受け付けられない。一般の書類でも、男(M)・女(W)の区別とともに、生年月日を記す部分には「明治」(M)、「大正」(T)、「昭和」(S)、「平成」(H)のいずれかにマルをするようになっている。

 

 また、「明治の気骨」「大正デモクラシー」「昭和歌謡」「平成世代」など、元号が時代をあらわす区分としてあたりまえのように流布されてきた。元号が代わったから社会が激変したわけではないし、「昭和」のように一つの元号の期間に社会の断絶があったにもかかわらずである。

 

 そのうえに、昨今の「新元号予想」など、若い世代をターゲットにした劇場型の「元号狂騒曲」への誘導がやられている。

 

明治以後一世一元制に 国民を天皇の下に統合

 

 元号がこのように民衆の生活に浸透する決定的な転換点となったのは、「明治」以後の近代天皇制国家の確立と「一世一元制」の制度化であった。それを機に、「明治」「大正」「昭和」「平成」は日本人の日常生活と不可分なものとして定着するようになっていった。それは自然にそうなったのではなく国家の権力によって、元号を使わなければ生活ができないようになったからである。

 

 明治維新による近代統一国家への道は日本の封建制の特殊な条件のもとで、下級武士たちが指導して「尊王攘夷」を掲げた倒幕戦争を通じてなし遂げられた。それは天皇を「玉」としてその宗教的権威を利用するものであった。明治新政府は1868年4月11日(太陽暦1868年5月3日)、政府軍が江戸城入城を果たした時点で、天皇の即位礼をおこない、「慶応」から「明治」へ改元した。

 

 そのとき、副総理的地位にあった岩倉具視が中心になって早早と「一世一元制」を定めた。それは、天皇の権威を絶対化して国民を統合することで、富国強兵へと向かう最大の保証として位置づけられた。

 

 「一世一元」への元号制の変更も日本の伝統ではなく、中国(明朝)の後を追うもので、特定の天皇と特定の年号の関係を簡単明白にし、その年号の使用を国民に強制するためであった。国民が天皇と結びつけないでは時間を意識し表現することができず、したがって、自覚しないでも天皇から一日も離れていられないようにしていくことに、その狙いがあった。

 

 同一天皇の代に改元が頻繁におこなわれたのでは、特定の年号と特定の天皇とは誰にもすぐ結び付けて意識されるということはありえない。「慶応」以前は「元治」「文久」「万延」「安政」「嘉永」「弘化」とさかのぼるが、この七つの年号がみな孝明天皇の年号であることはわからない。しかし、「一世一元」なら「明治」「大正」「昭和」「平成」「令和」を特定の天皇と結びつけて年を数えることができる。

 

 明治天皇は「改元の詔」(漢文)で、朕は皇位を受け継ぎ万機を親しくおこなう、よって元を改め、全国民とともにすべてを更始一新しようと欲する、という趣旨をのべた。それは最後に「其レ慶応四年ヲ改メテ明治元年ト為ス、今ヨリ以後、旧制を革易シテ一制一元、以テ永式ト為セ。主者(担当官)施行セヨ」と締めくくられたように、「一世一元制」を永久の制度として、全国民を天皇のもとに統合するよう命じるものであった。

 

 しかし、当時の民衆は天皇の存在すら知らなかった。将軍よりも雲の上の存在として天子様、お内裏様と呼ばれる方がいるぐらいの認識が一般的であった。新政府はそこから中央や地方の政府機関に対して、「天子様は天照皇太神宮さまの御子孫であり、日本の真のご主人様である」「土地も水もみな天子様のもの、そこに成長する稲ももともとは天子様がくださったもの」などと、民衆に教え込むよう命じた。

 

 たとえば九州地方の幕府の直轄領長崎を接収し、九州地方の大名を新政権の味方に引きつけていくために九州鎮撫総督が民衆に出したおふれは、「この日本国には天照皇太神宮様からおつぎあそばされたところの天子様というものがござって、これが昔からちっともかわらぬ日本国のご主人様じゃ。どうだおそれいったか」という書き出しで始まっていた。

 

 明治政府はそれとともに、全国民を日常生活において常に天皇と結びつけるよう、祝祭日制度、神社制度をつくった。また、教育勅語による教育、「日の丸」「君が代」の強制、皇国史観の強要を通して、日本国民を天皇の臣民として統合する制度を固めていった。

 

 井上清は「新年号制は、これらの新祝祭日制、新神社制と一体となり、またすみからすみまで天皇主義の学校教育、軍隊教育、教育勅語等々と一体になり、天皇による国民統合が世界中に例のないほど強力に行われた。この中でも一世一元の年号制は、まったく目立たないで、また何ら強圧的な感じをいだかせないで、しかしきわめて強力に、国民を天皇にしばりつけていった」「この一連の制度改革の最初のそしてみごと成功したのが年号制度を一世一元としたことである」(『元号制批判』、1989年)と指摘している。

 

米国の間接支配に利用された戦後の象徴天皇制

 

 第二次世界大戦における敗戦によって天皇制は危機に陥った。だが、「天皇は100万の軍隊に匹敵する」(マッカーサー)と見たアメリカに「象徴天皇」として庇護され、間接支配に利用されることになった。新しい日本国憲法と新皇室典範によって「昭和」という元号の法的根拠は消滅した。しかしアメリカは、元号をそのまま残すことを許し、売国的な為政者が国民に強制し続けることを保証した。

 

米軍に守られて巡幸する占領下の昭和天皇

 そのもとで、「昭和」という戦争責任を免れた天皇の在位期間が戦前、戦後何の問題もなくつながった「時代」であるかのような欺瞞的な雰囲気を大大的につくり出してきたといえる。新憲法のもとで天皇大権から国民主権となったが、「昭和」という年号を連続させたことは、昭和天皇が最初から平和主義者であったという見せかけをはびこらせる重要な条件となった。

 

 ここに、元号制が歴史の理解、認識を破壊する最大の実例を見ることができる。戦後の一時期、天皇退位論とともに不合理な元号を廃止すべきだという民主主義の世論が高揚した。日本学術会議は1950年、「学術上の立場から元号を廃止し、西暦を採用すること」を決議した。

 

 元号制の不合理性については、歴史学者をはじめ近年では地震学者からも指摘、批判されてきた。東日本大震災では、「昭和三陸地震」や「貞観津波」という言葉が歴史的な警告として出されていたが、それが西暦の1933年、869年にあたることはすぐにはわからず、周年単位でくり返す意味が科学的に伝えにくいことが問題になった。それは、「1968年十勝沖地震」と公的に命名されていたものを、当時の佐藤首相が「昭和四三年十勝沖地震」と改めさせたことと重なってくる。

 

 それに続くアメリカの戦争の下請、日本の不沈空母化を推進する勢力が元号法制定の策動を続け、1979年に元号法を成立させて、天皇代替わりには政府が新元号を制定することを定めた。安倍政府の「皇室の長い伝統」に日本国民の精神を統合したいという思惑は、このたびの新元号制定にあたって神秘的権威を醸しつつ極秘のうちに選定するという進め方にも示されている。それが近年の、皇国史観や教育勅語の導入騒ぎと一つにつながっている。

 

 今年は平成31年というのと、2019年というのとは大きな違いがある。後者の西暦表記は国家や政治とは何の関連なく世界中に通用する単純な紀年だが、前者は平成天皇即位の第31年という政治・イデオロギー的意味のある日本にだけしか通用しない表記である。

 

 中国では2000年以上も続いた元号制も、孫文らの辛亥革命(1911年)によって中国最後の専制君主制・清朝の滅亡とともに廃止された。そうした専制君主制の名残が日本でまだ続いていることを「日本独自の美しい伝統」などといっているのである。

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