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ドキュメンタリー映画『飯舘村べこやの母ちゃん――それぞれの選択』 監督・古居みずえ

 「日本一美しい村」とよばれた福島県飯舘村。この村は、「までい」な村と呼ばれた。「までい」とは、この地方の言葉で「手間ひまかけて」「ていねいに」「心をこめて」といった意味がある。その言葉のとおり、村人は先祖代々田畑をたがやし、牛を飼い、村づくりをしてきた。

 

 ところが2011年3月11日の福島原発事故によって放射性物質が降りそそぎ、全村避難の指示によって村に住んでいたすべての人がふるさとを追われた。飯舘村の牛たちは牛乳の出荷も移動も牧草地の草を食べることも禁止された。酪農家たちは、家族と同じだった牛を手放すことを迫られる。そのとき飯舘村の母ちゃんたちは、どんな選択をし、どんな思いでこの10年を歩んできたのか。

 

 映画は2011年5月から2022年のあいだ、中島信子さん、原田公子さん、長谷川花子さんの3人の酪農家の女性とその家族を追った。「第一章 故郷への想い」「第二章 べことともに」「第三章 帰村」の全三章・3時間に及ぶドキュメンタリーだ。ナレーションや音楽はなく、飯舘村の人たちのありのままの姿や言葉、表情、自然の音を記録しつづけることによって、人々の10年の葛藤や苦悩、たくましさを伝えようとしている。『飯舘村の母ちゃん 土とともに』に続く古居みずえ監督による第2作目。原発事故から12年目となる今年3月11日に劇場公開された。

 

中島信子さん

 

 中島信子さんは、戦後、満州から引き揚げた両親(父親はシベリア抑留を体験)が開拓した土地で45年ものあいだ、夫婦で酪農と繁殖の仕事に携わってきた。2011年5月、愛情こめて育てた牛たちを「ごめんね、ごめんね、ありがとう」といいながら屠畜に送り出す。「悔しくてたまんない。ごめんね……。誰のせいなの」「手も足も半分そがれるような気持ち」と涙を堪えつつ語る。7月、中島家が相馬市の仮設に避難する日、夫婦は牛舎のそばに建立された「牛頭観世音」に手を合わせた。突然故郷を奪われ生業を奪われたが、故郷への想いは湧きあがる。2人は相馬市の仮設に避難したものの週の半分は飯舘村に通っていた。

 

 2014年6月には中島家の除染が始まり、2人の結婚記念で植えた木も伐採された。線量の高い飯舘村には帰ることができず、2017年11月に南相馬の一軒家に移り住んだ。そして、農家が何年も、何十年もかけてつくった「いい土」が除染によって剥ぎとられたが、2019年からその農地をもう一度耕しはじめる。

 

原田公子さん

 

 原田公子さんは、小さい時から手塩にかけて育てた牛を手放すことを考えると、夜も眠れず耳鳴りがすると不調を訴えた。そして2011年5月、牛は手放さないと決めた。「ここでやめたら東電や国に負けるような気がするから」と。その年の8月、飯舘村から100㌔離れた中島村で牛舎を確保し、夫婦でアパートに住みながら牛飼いを始める。「いじいじ考える暇はなかった」。牛の世話をすることで、自分の気持ちを保っているといい「牛が元気だと、元気なんだよね~。牛が元気ないときドキドキするんだ」と笑みを浮かべる。ときには夫婦で意見がぶつかりあいながらも、「牛飼いは二人三脚でないとできない。お互い同じ方向を向かないと」といいながら日々を重ねていく。

 

 牛の出産や子牛が自分の足で立ち上がろうとするシーンも丁寧に記録されている。

 

長谷川花子さん

 

 長谷川花子、健一さん夫婦は乳牛50頭を飼う酪農家だった。「一頭一頭全部思い出があるんだよ」(健一さん)、「うちに来たばっかりに、ごめんな。本当に情けない……」(花子さん)と泣く泣く屠畜場へ送り出す。そして飯舘村では三世代8人で暮らしてきたが長男一家は山形県へ避難、義両親、長谷川夫婦はそれぞれ仮設住宅へと3カ所に離れて暮らすことになった。「原発さえなければ家族で暮らせたのに……。飯舘で暮らせたのに。みんなで暮らしたい。ただそれだけ」と心中を語る花子さん。

 

 自分自身を鼓舞するように花子さんは、避難先の仮設住宅の管理人となって、高齢の女性たちを集めたサークルも始める。

 

 週の半分は飯舘村に帰って家の手入れをする義両親。健一さんの父親は、熊も出るような山の奥だったこの地を先代が開墾して田をつくってきたこと、「あれだけ苦労して、息子、孫に(農地を)残そうと思ってきたが、なんにもないなって……。こんな残念なことはない」と語り、母親は「ここ(飯舘)にいたい」と話す。暮らしのすべてだった田畑、生きがいの百姓仕事。避難によって、そのすべてを失い、くやしさと悲しさ、寂しさ、やるせなさが表情からにじみ出る。

 

 飯舘村で区長として村民をまとめていた健一さんは、「“村の復興”とか“村の再生”とかいう前に、村人の復興だと思う。村人がどうやって生活を成り立たせていくか、それが俺は復興だと思う」といい、避難解除の指示を区切りに国が補助をうち切ったり、仮設住宅を追われることへの疑問を語る。

 

 飯舘村に帰るかどうか悩む日々。いつ終わるかもわからない避難生活を支えるのは、「故郷に帰る」という希望だったのだろうか。8年という避難生活を終えて2019年、ようやく飯舘村に帰り畑を耕し、夫婦で蕎麦作りに精を出す。ところが軌道に乗り始めた矢先の2021年3月に健一さんが甲状腺がんを発症、がん発見からわずか8カ月で他界した。

 

 事故発生直後から飯舘村は線量が高かったが、村民にはすぐに知らされず多くの人が放射能にさらされた。子どもの甲状腺がんに怯える母親たち、家族がバラバラになり村に帰ることができない人たち。

 

 人々から多くのものを奪った原発事故のなまなましい実態を突きつけるとともに、また原発再稼働を本格化させようとすることが、いかに常軌を逸しているかを改めて思い知らされる。そして映画のなかでチラッと映る北海道から来た日雇いの除染作業員の実態もまた、飯舘村から見える日本社会の現実として考えさせられる。

 

 古居監督は「3人の母ちゃんの生き方は違うが、どんな状況下でも強く、たくましく生き抜いていく姿を描きたいと思った。3人のべこやの母ちゃんたちの人生を通して、原発事故は何だったのか、人々に何をもたらしたのか、考えるきかっけになればと思う」とのべている。

 

自主上映会を広く呼びかけ

 

 映画「飯舘村の母ちゃん」制作支援の会では、映画の自主上映会の開催を広く呼びかけている。
 連絡先は以下の通り。


電話 090-7408-5126
FAX 03-3209-8336
メール iitateka311@bb-unext01.jp

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