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『自衛隊海外派遣 隠された「戦地」の現実』 著・布施祐仁

 2016年に「南スーダンPKO日報隠蔽事件」というのがあった。同年7月、陸上自衛隊のPKO派遣部隊がいた南スーダンの首都ジュバで、政府軍と反政府勢力との大規模な戦闘が発生した。しかし稲田防衛大臣(当時)は記者会見で「散発的な発砲事案」と発表、安倍政府は派遣活動の継続を決定した。

 

 これに疑問を抱いたジャーナリストが、情報公開法にもとづいて派遣部隊がつくった「日報」を開示請求すると、防衛省は「すでに廃棄した」といって応じなかった。だがその後、日報は廃棄されず保管されていたこと、そこには「激しい銃撃戦」と記していたことが明らかになり、防衛大臣と防衛事務次官、陸上幕僚長が引責辞任した。

 

 本書はこの問題にかかわった著者が、1992年6月のPKO法成立以後30年間、自衛隊海外派遣の現場でなにが起きていたのかを、過去の内部文書を入手して検証したものだ。実際に派遣された自衛隊員たちの証言もあわせて紹介している。

 

 本書では、もっともリスクの高い活動をしてきた陸上自衛隊の、四つの国連PKO活動(カンボジア、東ティモール、ゴラン高原、南スーダン)と、ザイールでのルワンダ難民救援活動、そしてアメリカが主導する多国籍軍に加わっての「人道復興支援活動」(イラク)をとりあげ、問題点を整理している。

 

 そのうち南スーダンPKOの章にはこうある。首都ジュバで南スーダン政府軍とマシャール派(反政府勢力)との戦闘が始まったのは2016年7月7日夜のことだ。10日からは自衛隊の宿営地のある「国連トンビン地区」の50㍍先で激しい銃撃戦が起こり、銃撃戦だけでなく戦車砲、迫撃砲、ロケット弾が至近距離から撃ち込まれた。

 

 また、自衛隊と同じ国連トンビン地区に宿営地を置くルワンダ軍部隊が、南スーダン政府軍からの攻撃や暴力から逃れるために保護を求めてきた1000人以上の避難民をその宿営地内に受け入れた。すると政府軍は宿営地に迫撃砲を撃ち込んだ。政府軍はUNMISS(国連南スーダン共和国ミッション)本部も攻撃し始めた。南スーダン政府の情報大臣も国連との交戦を認めている。つまりPKOの前提となる受け入れ国の同意は崩れていた。

 

 ところが安倍政府(当時)はこれを「散発的な発砲事案」とし、「南スーダンは内戦になっておらず、PKO参加5原則も維持されている」として、陸上自衛隊の活動継続を決定。そして同年11月から派遣する陸上自衛隊に「駆け付け警護」「宿営地の共同防衛」という二つの新任務を与えると決めた。

 

銃撃戦の情報知らず現地へ 隊員らの証言

 

 実はその前年、安倍政府は国民の反対を押し切って安保法制成立を強行していた。それは米軍を支援するために、それまで違憲としていた集団的自衛権の行使を容認し、従来認めていなかった「駆け付け警護」「宿営地の共同防衛」などを実行できるようにしたものだ。それは正当防衛をこえる武器使用を可能にするものだったが、それをやらせるために現地の実際が隠された。

 

 これをめぐっての自衛隊員たちの以下の証言にはハッとさせられる。「しばらくして現地の部隊にも“戦闘”という言葉を使用しないようにとの指示が来たが、隊員の反応は冷ややかだった。旧日本軍の大本営発表と変わらないと揶揄する者もいた」「一一月にジュバに到着した次の派遣隊員たちには銃撃戦の情報は知らされていなかった。そんな重要なことをなぜ派遣前に教えてくれなかったのかと憤慨する隊員もいた。駆け付け警護というよりリスクの高い任務が与えられていたのだから、憤慨するのも当然だった」

 

 この派遣隊員の父親にインタビューすると、「現地で激しい戦闘があったなんてまったく聞いていない。それをいったら“行かない”という隊員が増えるから隠したんじゃないか。今でも、稲田はここに来て謝れ、と思うよ」と語気を強めたという。

 

 イラクに2005年に派遣され、緊急即応部隊に組織された自衛隊員も、「(出動命令を受けたとき)正直、俺はここで死ぬのかも、と思いました。ふと親の顔を思い浮かべてしまったんですよね。あ、遺書を書いてこなかったな、と。そしたら急に涙があふれてきて…」と語っている。

 

 こうした最前線にいる自衛隊員たちの命よりも政府が重視したのは、アメリカとの約束だった。

 

対中戦争に日本の戦力活用 日本守らぬ米国

 

 後半、戦後の日米関係を追うなかで、アメリカがそもそもの初めから自衛隊を米軍のコマとして戦場に引きずり出すことを狙っていたことが浮き彫りになる。

 

 マッカーサーの命令で自衛隊の前身・警察予備隊が創設された1950年8月、ブラッドレー統合参謀本部議長(当時)は「世界戦争が起きたときに、アメリカが日本の戦力を活用できることが、アメリカの戦略にとってきわめて重要」とのべ、日本の再軍備は日本を守るためではないとのべている。著者は、今後米中対立が激化したとき、アメリカは中国との戦争に日本を参戦させることを狙っているとのべているが、それは日本列島を火の海にすることを意味する。

 

 こうしてPKO法成立以来30年間、さまざまにごまかしながら政府は自衛隊の参戦を狙ってきたが、それを押しとどめてきたのは、原爆や全国空襲や、悲惨な戦地を体験した日本国民の強い戦争反対の意志である。

 

 著者は、日本の役割は軍隊を派遣することではなく、多くの紛争当事者が存在し、民族間や宗派間の対立が複雑にからみあう現場において、現地住民と信頼関係を築きつつ平和構築に貢献することを提案している。一方の手で住民を巻き添えにする空爆や掃討作戦をやりながら、もう一方の手で人道復興支援をやるというやり方では、けっして住民の信頼を得ることはできず、アフガニスタンから叩き出された米軍の二の舞いになるしかないからだ。

 

 (集英社新書、318ページ、定価940円+税)

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