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『東京大空襲の戦後史』 著・栗原俊雄

 米軍が戦時中に日本に対しておこなった無差別爆撃は、戦時下でも民間人を狙わないとした国際法に違反する蛮行だった。なかでも1945年3月10日未明の東京大空襲は、たった数時間で10万人以上の無抵抗の非戦闘員を虐殺した。本書は、東京大空襲の被災者たちの戦後70年以上にわたる苦しみや、国に補償を求めるたたかいを取材してきたジャーナリストが、その事実を具体的に伝えることで新しい戦争の最大の抑止力にしようと執筆したものだ。

 

 1944年夏、米軍がサイパンなどマリアナ諸島を占領したとき、すでに日本の敗戦は決定的だった。米軍は同諸島を拠点に大型爆撃機B29によって日本本土の空襲を始めた。

 

 それでも日本の支配層は戦争をやめなかった。天皇は1945年2月、重臣の意見聴取をおこなったが、吉田茂が作成した近衛文麿の上奏文では「敗戦は必至。国体(天皇制)護持のために憂うべきは共産革命」とし、天皇は「米軍を叩き、その戦果を持って講和に持ち込む」と戦争継続を主張した。

 

 米軍の日本本土空襲を、民間人も区別しない無差別爆撃に変えたのは、米陸軍航空部隊将軍のカーチス・ルメイだった。ルメイは「われわれの計算しつくしたうえでの賭けは、近代航空戦史上で画期的なできごとになった」「(民間人大量殺傷が)私の決心をなんら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ」とのべている。

 

 そして米ユタ州の砂漠に日本家屋を模した木造住宅の街をつくり、焼夷弾の効果を実験した。焼夷弾は親爆弾の中に40個近い小爆弾を入れ、空中で親爆弾が破裂すると、ガソリンが詰めてある小爆弾が着弾して燃える。東京大空襲では300機以上のB29が、東京の住宅街にこの焼夷弾を雨あられと降り注いだ。

 

 著者は当時の米陸軍第五航空軍のリポートに、「すべての男、女、子どもを含む日本国の全人口が軍隊を援護する武装予備軍となった。日本国の全人口は正式な軍事目標となった。日本に民間人はいない」と書いてあることを紹介し、それがいかに非人道的な判断かとのべている。

 

犠牲になったのは一般庶民  被害調査未だなく

 

 アメリカと日本の支配層の思惑のもとで、犠牲になったのは日本の庶民である。著者は取材の過程で知り合った東京大空襲の体験者から体験を聞きとり、何人もの事例を記している。

 これはその一例にすぎないが、江東区に住む1931年生まれの男性は、1942年の企業整備令(軍需産業以外の中小商工業を整理・統合する法律)で家業の蕎麦屋ができなくなり、同時に兄が徴兵されて中国戦線に行くことに。見送りに行った父が部隊の装備の貧弱さに驚き、「あれじゃあダメだ」といっていたと回顧している。

 

 そして3月10日。東からB29が数珠つなぎで飛んできて、低空で巨大な翼がはっきりと見えた。すぐに焼夷弾がザーッという音とともに雨あられと降ってきた。北西風が激しく、火の粉が横なぐりで舞い、はしごが空を飛んでいた。避難する人たちで身動きがとれなくなり、工場脇の空き地に多くの人と一緒にうずくまったが、夜が明けて周囲を見るとマネキン人形のような人間の遺体があちこちに横たわっていた。別の場所では真っ黒な遺体が小山のように積み上がっていた。川を見ると水死体が折り重なっていた。

 

 別の男性は工業高校の生徒だったときに東京大空襲にあい、鎮火後は遺体の始末を手伝った。現在の東京スカイツリーを見上げる川から女性の遺体を引き揚げると、2歳ぐらいの子どもが髪の毛にしがみついていた。親子だったのだろう。拾ったトタンに遺体を乗せ、仮埋葬地の公園まで運んだ。焼けた遺体から首や足が落ちたが、すべては拾えなかった。「なんの罪もない人たちが戦争でたくさん亡くなった」と訴えている。

 

 ところが天皇が同年3月18日、都内の被災地を視察するというので、昼夜兼行で巡幸路付近の死体の片付けに追われることになった。その後遺体は、遺族の元に帰されることはほとんどなく、公園や学校、寺、空き地に埋められた。当時は国民の命よりも天皇を頂点とした「国体」が大事だったのだ。

 

 敗戦後、日本がアメリカに単独占領されると、今度はGHQの命令で、空襲で親を失った何十万人という戦災孤児が「まるで野良犬のような扱いで」東京品川沖の第四台場の檻の中に収容された。1952年に講和条約と安保条約が同時に結ばれると、日本政府はアメリカに対する戦争の補償請求権を放棄した。敗戦後は国の社会福祉がほとんど機能せず、孤児たちは義務教育も十分受けられないまま、親戚を転々としていたというのに。そればかりか1964年、日本政府は虐殺を指揮したルメイに、「航空自衛隊の育成に尽力した」という理由で勲一等旭日大綬章を贈った。戦後は天皇の上にアメリカが君臨している。

 

 本書を読みながら、東京大空襲をめぐる事実は、それが過去のことではなく、今現在の日本が抱えている矛盾を浮き彫りにしていると思った。ある体験者の女性が2020年3月、衆院第二議員会館で開かれた空襲議連の総会で発言した次の言葉が印象深い。「東京大空襲の死者の多くが遺体の確認ができず、どこの誰かもわからずに、生ゴミのように処理されました。残された遺族の多くは、墓をつくることもかなわず、今でも心の拠り所がないと感じています。空襲被害について、国として統一的網羅的に調査されたことがありません。空襲で亡くなった人の名前も、数さえも不明です。この2、3年に仲間が次々と他界し、残った私たちも先が長くありません。いつ、どこで、どんな被害があったか、全国空襲実態調査を実施してください。空襲被害をなかったことにしないでください」

 

 いまだに空襲被害の統一的調査も、東京大空襲の公的な慰霊施設や記念館もない日本。対米従属下でふたたび戦争の道に進まないためにも、被爆体験や空襲体験を語り継ぎ、世界に発信するとりくみを一層大きな運動にしなければと思う。

 

 (岩波新書、214ページ、定価860円+税)

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