いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『ヨーロッパ・コーリング・リターンズ』 著・ブレイディみかこ

 1996年から英国ブライトンで暮らすライターの著者は、2016年に刊行した『ヨーロッパ・コーリング』(岩波書店)のなかで、新自由主義に対抗する欧州の新しい政治潮流の台頭を報告した。本書はそのたんなる文庫化ではなく、同書刊行後から2021年までに著者が書いたコラムをあわせて収録し、この8年間の英国社会と人々の意識の激変を生活のなかから垣間見ることができるものになっている。昨年末、チリをはじめラテンアメリカで新自由主義を葬る大波が起こっていることが明らかになったが、形態や規模こそ違え、同じような思想的営みを英国の市民もおこなっている。それは日本に住むわれわれにとっても示唆的だ。

 

緊縮でNHSは機能不全に

 

 本書のなかから、2020~21年の部分に注目してみた。

 

 新型コロナウイルスのパンデミックは、新自由主義を実行してきた多くの国で、社会インフラが破産状態になっていることをむき出しにした。英国では第二次大戦後の1948年に設立された無料の医療制度NHS(国民保健サービス)が、サッチャー新自由主義のもとで細切れに民営化された。そして過去10年間の緊縮政策で保守党はNHSの病院のベッド数を削減し、病院を慢性的な人員不足状態に置いたため、緊急外来での待ち時間は史上最長になった。

 

 ロンドン大学の公衆衛生学の教授によると、過去10年間のうちに、イングランドではもっとも貧しい地域に住む人々の寿命が過去100年間で初めて延びなくなり、女性に至っては縮んだ。もっともリッチな地域と貧しい地域の住民の寿命の差は、男性で9年以上、女性で約8年だそうだ。

 経済的な格差が生む健康格差…。そこをコロナ禍が襲った。英国のコロナ感染者は欧州で最多、死者数も欧州でロシアに次いで2番目に多い。

 

 著者の友人に38年間NHSで働いてきたベテラン看護師がいる。彼女は緊縮政策で機能不全に陥っていた医療現場を目の当たりにし、「NHSはもう昔のNHSじゃない」といって退職した。その彼女らに、政府はコロナ禍の苦肉の策として復職を呼びかけた。ジョンソン首相がコロナで生死の境をさまよい、退院してNHSの医療関係者に感謝したとき、「死ぬ目にあわなきゃわからなかったのか」「それならもっと金を出せ」と国民から大ブーイングが起きたのも当然である。

 

 日本と同様、給食に頼って生きている子どもたちが増え、体育のある日は狭い更衣室の密状態を避けるため、一日中半ズボンにポロシャツ姿で寒さに震えながら過ごす(上衣がないので)子どもも多い。コロナ禍で新たに貧困に陥った英国人は約70万人。これで英国の貧困層は約1500万人と、人口の23%を占めるまでになった。ミドルクラスのオンラインで働ける人々が新たなライフスタイルに目覚めて地方に大移動し、引っ越しできない低賃金労働者(清掃作業員や交通機関職員、サンドウィッチ店の店員など)だけが大都市ロンドンにとり残されて困窮している様は、まるでダニエル・デフォーが『ペスト』で描いた中世の英国だ。

 

足下から行動する人々

 

 もう一つの問題として、新自由主義を推進する保守党に対置すべき存在であるはずの野党第一党・労働党の本質が英国民に見抜かれてきていることを、本書から見てとることができる。

 

 新自由主義で地域コミュニティが破壊され、格差が開き、家族の崩壊が進むなかで、多くの英国民は保守党の緊縮政策に猛烈な怒りを持っていたにもかかわらず2019年末の総選挙でコービンの労働党は惨敗した。

 

 著者はさまざまな要因を挙げているが、なかでも労働党をはじめとする左派が、官僚主義支配からの自由を標榜するあまり、民営化は国家の力と既得権益を減らすうえで良いものだと思い込み、「国民を守る社会の責任」をどこかに置き忘れてしまって、新自由主義の推進者になっていった――という点は重要だと思う。それだけでなく、米国に協力してイラク戦争やアフガニスタンへの侵攻を始めたのもブレア労働党だった。

 

 労働党のアフガンへの態度はいまだに不明確だ。英軍が毎年、貧困層の若者をリクルートしているというのに。政府の政策を批判するばかりでなにを支持するのか、なにが今なすべき意義あることなのかを示すことができず、政府と国民の間を右往左往している。

 

 では国民はどこに希望を見出せばいいのか? 著者は「コロナ禍で明らかになったのは、医療、教育、介護、保育、バスの運転手やごみ収集作業員などのケア階級の人々がいなければ地域社会は回らないということだった」と明確にのべている。平時のゆとりこそが緊急時の対応力になるということ、そしてどんな仕事が社会の真の屋台骨であり、しかも不当に過小評価されてきたかということに、人々は気づいたのだ、と。サッチャーは「社会というものはない」といったが、こうした労働がなければ社会そのものが成り立たず、政治家や資本家は存在することさえできない。逆に金融資本主義のマネーゲームこそ、究極のブルシットジョブ(社会にとってどうでもいい仕事)なのだ。

 

 コロナ禍のなかで、たんに誰かを批判し攻撃して勝とうとするのではなく、NHSのボランティアに志願したり(昨年4月に75万人をこえた)、子どもたちや高齢者の食事を保証するために動いたりと、現実に自分の足下で何かを変えるために行動する人たちが無数に生まれている。この経験は、小さな政府と新自由主義の時代を終わらせ、公益を守り公助を実行する新しい政治勢力を登場させる力になるはずだ。

 

 (岩波現代文庫、478ページ、定価1150円+税)

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