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『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』 著・辻山良雄

 東京・新宿から数㌔西に走ったところにある杉並区荻窪に、小さな新刊書店「Title」がある。店主は1972年兵庫県生まれで、大学卒業後大手書店チェーンに就職したが、その後独立し、2016年にこの書店を開いた。本書は店主である著者が、自分の生い立ちから書店員として働いてきたこと、コロナ禍の現在までを行きつ戻りつしながら、思うに任せぬ現実にとまどい、ときにはつまづきながら、書店店主としてどう生きていくかを追求してきた記録である。

 

 大手書店にいた頃、常に100人以上のスタッフとともに仕事をしていた著者は、ある店に慣れたと思ったらすぐ異動になり、店の閉店までも会社の都合で決められるなか、誰もが無力で、あきらめさえ身につけていることに疑問を持つ。そして誰に気兼ねすることなく地域の人たちのためにいい本を並べることができ、なにか変だと思った仕事はその場で断ることができる、そうした自分の責任だけで完結する場所をつくろうと独立した。

 

 著者は、この間急速に世の中を覆い始めた「貧しさ」に注意を喚起する。著者のいう貧しさとはお金のことではなく、たとえば「本屋で知らない本に触ろうとしない人が増えた」というようなことだ。効率最優先の社会は、人々の思考を単純化させる。本の世界に効率性が持ち込まれると、人々の情緒に触れ、読む人を根底から変えていくような本は軽視されて、即席でわかりやすい本の需要が高まるが、簡単に得た知識は忘れるのも早く、その人の内実を耕すことにはつながらない。

 

 本はもともと、こうした貧しさとは対極にあるものだ。本を読むことで、時代や国籍の異なるさまざまな人間の複雑な感情を理解することができるし、そこから他者への思いやりがはぐくまれ、その人も社会も豊かにする。

 

 だから、本屋の棚にどのような本を並べるかというところに、その書店の店主の、本を媒介にしてよりよい世界に向かおうとする、ものいわぬ意志があらわれる。すぐには売れないであろう本をわざわざ置くのは、店主がそこに何らかの気持ちを込めているからだ。売上至上主義に縛られた店にはそれが欠けている。

 

 ネット書店では、既にわかっている今読みたい本は簡単に見つけることができるが、今読む必要はないけれどこの先どこかで関わりそうな本とはなかなか出会うことができない。インターネットの利便性は、常に「今」と関わっているからだ。だがそれは今の自分をただ肯定するにすぎず、まだ芽を出していない可能性に水をやることにはならない。

 

 そして著者は、本屋には静けさがあるという。何人かで話しながら入ってきた人たちも、並んでいる本を前にするといつの間にか黙り込んでしまう。常に何かにせかされるように生きている現代人にとって、それは自分自身をとり戻す場所であるのかもしれない。人が本を手にとるとき、「そう意識しなくてもその人は、少しでもよい人間になりたいと願い、目の前の本に触れているように見える」と著者はいう。

 

 本書の後半の「コロナ禍の書店」には考えさせられた。

 

 パンデミックはSNS上に、いらだちやあきらめ、冷笑の言葉をあふれさせた。分断は分断を、憎しみは憎しみを増幅させる。その一方、著者の書店には予想以上に来店客が多く、ウェブショップからの本のまとめ買いもあいついだという。非常時には人々は、今必要な情報を求める一方で、根本から自分たちの生き方を見直そうとする志向を強める。仙台の本屋では、震災後には哲学書がよく売れたそうだ。

 

 一人一人が自分の頭で考えて行動するためには、その人に戻るための本が必要だ、と著者はいう。それは今の時代の本屋としての使命ではないか。思考を手放したちっぽけな世界がたとえ居心地よくても、その小さな殻を打ち破り、外に向けて足を踏み出さなければだめだ、と著者はいう。

 

 大きな声に流される必要はない。小さな本屋であっても、届ける相手のことを考えて一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。それが人口減少時代の新しい本屋のあり方かもしれない。

 

 いかに短期間で利潤を最大化するかを至上命題とする今の社会のなかで、高速回転する欲望。オリンピックだってそうだ。コロナ禍は、そんな社会のあり方を見直す機会を与えてくれた。以前の社会にはもう戻らない、次の新しい社会に向かって踏み出さなければ、という著者の強い決意を行間から読みとることができる。 
 


 (幻冬舎発行、A5判・238ページ、定価1600円+税

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