いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『縁食論 孤食と共食のあいだ』 著・藤原辰史

 FAO(国連食糧農業機関)によると、2019年の世界の飢餓人口は約8億人だという。世界の人口が78億人なので、世界の9人に1人が食べ物がないために生死の境にいることになる。

 

 これを数字だけで理解することはできない。本書の中では、日本の敗戦直後の戦災孤児の話が出てくる。その戦災孤児は空腹に耐えきれず、ある家に物乞いに来たが、その家も食べ物がなく追い返される。するとその翌日、道端で飢えと寒さのために死んでいた。左右の耳の穴にまで続く涙の跡を残して…。

 

 それは過去のことではない。本書の中では、親が子どもに弁当を持たすことができないために、子どもが水だけ飲んで我慢したり、図書室に行って空腹を抱えながら本を読んでいる話が出てくる。非正規雇用が増え、賃金も減り、食費を削らなければならない家庭が日本でも確実に増えている。

 

 だがその一方、毎日大量の食べ物が捨てられている。大量生産・大量消費・大量廃棄の異常な社会。しかもこれらの食べ物の残骸のほとんどは、人間を養うためではなく、市場経済のシステムを守るために捨てられ焼かれる商品だ。

 

 他方で、パン屋でアルバイトをする学生のある経験が紹介される。そのパン屋は路上生活者が集まって店のイメージが悪くならないように、売れ残った大量のパンをゴミ袋に詰め、ゴミ箱に入れて蓋をするようバイトに命じていた。ところがその学生は、袋を捨てに行くと見せかけて、袋をゴミ箱の上に置くようになった。

 

 また九州のある田舎では、コメとレンコンを有機農法でつくっているMさんが、できた作物を自然食の食堂に卸している。農家になるためにすさまじい勉強を重ねたというMさんは、「消費者との信頼関係があれば、有機農産物に特段のマークなんていりません」という。

 

 本書の著者は、京都大学人文科学研究所准教授。本書の中心テーマは、工業化された農業や多国籍企業によって支配された食料の生産・流通・販売のもとで固定された食のあり方に、どのようにして対抗していくかである。そのためにさまざまな現場を訪問し、問題意識をめぐらしている。

 

 そこで著者が提案するのは、人間が生きていくうえで最低限必要な「食べること」が常にできる共同的なオープンスペース、孤食のように孤独ではなく、共食のように公から押しつけられたイメージが強くない、「縁食」の充実である。

 

家族の枠こえた食のあり方 公共空間を活発化

 

 「縁食」とは、具体的には子ども食堂のような公衆食堂である。これをめぐって著者は、あるベテランの研究者から「子ども食堂は国家の手の届かないところを補完するだけであって、その原因となる貧困や労働条件の問題そのものの解決にはならない」と批判されたとのべている。これに対して著者は、子ども食堂に見られるような家族の枠をこえた食のあり方は、人と人とのまじわる公共空間を活発化し、創造していく可能性を秘めている、とのべる。子ども食堂は貧困家庭の子どものためという目的だけで成り立っているのではなく、支える側にも新しい役割を与え、地域社会における思わぬ出会いや地域のつながりをもたらす。

 

 過疎積雪寒冷地域である北海道名寄市では、大学のゼミが子ども食堂と学習支援と子どもの居場所づくりの3つの支援を同じ公共施設でおこなっている。子どもたちは勉強を学ぶだけでなく、調理や後片付けも共にする。また保護者が学生たちの不慣れな料理を手伝っている。子どもたちだけでなく、学生たちも学んでいる。

 

 もう一つの提案は、学校給食の普及と充実である。そもそも義務教育無償を憲法でうたいながら、義務教育も給食も無償でないことが問題だが、中学校ではいまだ普及率も低く、民営化の動きも各地で起こっている。著者は給食がきわめて重要な教育の時間であることに注目し、家庭科の調理の時間を増やし、調理過程に子どもたちが加わること、食材を購入しに行く経験をすること、食材を自分で育てることなどを提案している(すでに実行している地域も多い)。

 

食の脱商品化が飢餓を解決 来るべき社会は

 

 歴史的に見ると、公衆食堂や学校給食の調理場が、災害時には炊き出しの拠点となり、地域の人が生き延びる拠り所になった。また食べる場所は、文化の発信の場になるとともに、地域の仕組みの改善から国家転覆の革命まで、大小さまざまな世直しの拠点にもなった。そのような歴史の事実にも著者は思いを致している。

 

 そして著者が展望するのは、食の脱商品化である。たとえば、高級料理店には例外的にお金を払うとしても、農民も漁師もパン屋も食堂もみなが地域の税金のようなものによって運営または補助されていて、食べ物は基本的人権の当然の行使として自由に食べることができる、地域ごとに食べ物が集められ、生きている人間に平等に分配される――とすれば、それはどんな社会なのだろうか。

 

 今、先進国の食料廃棄の量は膨大なものだ。もし食べ物が商品でさえなければ、これらは世界の飢餓人口を容易に救えるはずだ。生産した食べ物の3分の1をゴミ箱に投下する日本という国は、逆説的にいえば食費無償化の萌芽がすでに生まれているといえる。

 

 そもそも世界は、食料の不足ではなく、過剰で悩んでいる。トラクター、化学肥料、農薬という農業の過剰設備が恒常的な食料の過剰をつくり出し、しかもそれによって土壌中の微生物と人間の腸内の微生物の生息を困難にし、自然と人間に害を与え続けている。

 

 こうした問題の解決のために来るべき社会での食べ物の脱商品化を展望し、そのためのウォーミングアップを子ども食堂や給食の改善から始めようというのだから、著者の構想は具体的かつ遠大だ。     

 

 (ミシマ社発行、B6判・189ページ、定価1700円+税)

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