いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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日本の学術の地位 急激に低下 大学法人化後の惨憺たる崩壊 借金地獄で研究者育たず

 2004年の小泉純一郎政権のもとでの国立大学法人化以降、声高に「大学改革」なるものが叫ばれ、「社会に開かれた大学」などという耳に心地良いフレーズとともに各大学で文字通り「改革」が断行されてきた。そして17年が経過した今、国公立大学では東大でも京大でも法人化を契機として国による財政的支配が強まり、学長選考や大学運営を巡るすべてにおいて教授会の意志(学内民主主義)が否定されたり、「私物化」ともつながったトップダウン型の支配が強まっていることが問題になっている。政治及び大企業・資本による権力・金力をともなった学問領域への介入によって、大学は新自由主義路線のお先棒を担ぐ道具のように扱われ、一方では理系偏重はじめ軍事研究へと誘っていくようなやり方があらわとなっている。こうした国家機構や巨大な資本に奉仕させる「大学改革」の結果として、日本の学術は発展したのか? である。近年の趨勢や大学教員及び研究者をはじめとした現場の人々への取材や明らかになっている統計から、記者たちで議論してみた。

 

世界大学ランキングTop20に中国2校、東大は35位

 

  イギリスの教育情報誌である『タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(通称THE)』が毎年発表する、世界の大学の教育研究活動に関するさまざまな項目を評価する「世界大学ランキング」というものがある。最新の2022年版では、世界99カ国にある1600以上の大学を対象として、論文引用数や教育・学習環境、研究、国際性などを評価してランキングが発表されている。いわゆる偏差値を比べたものではなく、大学の教育研究機関としての一定の指標として注目されているものだ。

 

 このなかでアジアに拠点を置く大学としてトップ20入りしたのは、16位だった中国の北京大学、o同じく16位の清華大学のみで、他はみなアメリカ、イギリスの大学だった。日本国内の最高学府と見なされている東京大学は35位、京都大学が61位で、トップ200のなかにはこの2校のみとなった。中国の大学はトップ200以内に10校、韓国の大学は6校、そのほかにも21位のシンガポール国立大学、30位の香港大なども上位に名を連ねている。

 

 台頭する中国をはじめとしたアジアの各大学に対して、日本の大学がおしなべてこの10年来で急速に順位を下げており、この最大の要因は研究力の低下にあると指摘されている。日本の科学技術分野の論文数が近年質・量ともに停滞していることはかねてより問題になってきたが、相対的に地位が低下している。ジリ貧ともいえる状況だ。なぜなのか?

 

  教育研究機関として生命線なのが研究力で、それは必然的に学術論文の質や量に反映する。どれだけ他の論文に引用されたかは、その研究の注目度や信頼度、影響力の大きさを映し出すものでもあるが、例えば文部科学省の科学技術・学術政策研究所が発表したところでは、2017~2019年に自然科学分野の学術論文のうち、他の論文に引用された回数が上位10%に入る影響力の大きな論文の数で、日本は過去最低の世界10位に後退した。中国が米国を抜いて世界1位に上り詰めたのとは対照的なものだった。

 

 論文総数では中国が35万本超、米国が28万本超、日本は4位の6万5700本余り。論文の数そのものは世界4位だった。しかし、肝心要の世界の学術世界に影響を与えた「注目度の高い論文」となると、1位の中国が4万200本、2位の米国が3万7100本だったのに対して日本は3800本の10位であり、その国際的地位は揺らいでいることを示した。インドにも抜かれた。2007~2009年には注目度の高い論文で世界5位、さらに10年前の1997~1999年には4位だったのからすると、ジワジワと地位が低下してきているのがわかる。この10~20年来で日本の大学に何が起こったのか? を見ないわけにはいかない。

 

 これは、やれ中国に抜かれてけしからん! とかの排他的なことをいっているのではない。中国は中国で国力の豊かさを反映した爆発的な発展を示しているだけだろうし、米中の科学技術分野における覇権争奪の入れ替わりであったり、国際的にも存在感が増していることがわかる。それに対して、日本の学術レベルは中国がどうであれ、なぜこれほど劣化してきたのか? を客観的に見る必要があるのではないか。

 

  ノーベル賞を受賞した本庶佑京都大学特別教授をはじめとした研究者たちが、日本の基礎研究の停滞を危惧して基金を立ち上げたり、オプジーボの和解金も大部分を京大関係機関に寄付して注目されているが、こうした人々がこぞって日本の研究環境への危機意識から警鐘を乱打してきたことは無視できない。近年、ノーベル賞を受賞する日本人研究者はあいついでいるが、それはかつての研究が評価されているのであって、現在の日本の研究環境では、将来的にはノーベル賞受賞者などいなくなるのではないかと危惧されている。開発研究や応用研究ばかりに目を奪われて基礎研究が疎かになり、しかも研究者が置かれている地位も極めて低いことが問題になっている。足下で地盤崩壊ともいえる状況が深刻なものになっている。

 

 目先の成果に追われて論文の捏造もあいついでいるが、例えば「STAP細胞」でとり沙汰された小保方女史を叩けば解決するという代物ではない。そこには構造的な問題が横たわっているように思えてならない。全般として真理真実を自由に探究するゆとりや、それを保証する金銭をともなう社会的保障が乏しく、研究環境が劣化してきたことが背景にある。それは、昨今のノーベル賞受賞者たちが在籍していた時代の日本の大学の研究環境とは様変わりしており、だからこそ彼らが危機感を抱いて問題提起しているのだ。

 

  大学関係者たちの多くが指摘しているのは、やはり2004年の国立大学法人化以降にくり広げられてきた「大学改革」なるものの犯罪性だ。大学はこの10~20年のケチ臭い「大学改革」で大きく変貌してきた。それは国が手を突っ込んで劣化させたといっても過言ではない。

 

 研究費の配分については「選択と集中」などといって、目先の成果が期待される分野や花形であろう研究分野に重点的に研究費が配分され、そうではない基礎研究などは切り捨てられてきた。国立大学は法人化にともなって国から運営費交付金をガッポリと削られ、科研費(重要研究として認められた研究のみ研究費が支給される)の争奪戦に追い込まれたり、足りない分は企業など民間から資金を引っ張ってこい! という競争世界に放り込まれた。

 

 要するに国が学術分野への投資を切り詰めたのだ。そして産学連携といって企業に奉仕させる研究や、軍産学連携で軍事研究へと誘導するなどの囲い込みも進んだ。極めて意図的な政策だ。その兵糧攻めの結果、各研究室への研究費の配分も減り、貧しい研究環境をよぎなくされたり、大学としては教員採用を抑制したり、非正規雇用に置き換えるなどして人件費を抑えたり、しわ寄せは末端にまで押し寄せた。

 

不安定な研究者 任期付雇用のポスドク

 

  こうした「大学改革」を実行した結果、世界的にも学術分野における地位を低下させているのだから、反知性主義がやることは反社会的でもあると思うのだが、2000年代以降の20年来についての大学の変化を捉えないことには問題の解明には至らない。

 

  研究費がなく出張や資材購入も自腹とかは大学教員からもよく聞く話だ。年間数十万円の研究費でなにができるのかという話だ。そのくせ論文数が評価にも直結することから追いまくられている。論文も数が多ければ良いというものではなく、やはり質や社会的有用性がともなってなんぼのはずなのに、数値だけに追われるという本末転倒がある。ゆとりがなければ研究に没頭もできないが、まず第一に安心して研究できる環境にないことがあげられる。これではいくら尻を叩いても日本の学術の世界における地位復権などとてもではないがおぼつかない。

 

  現役の大学教員たちも大変だが、その卵たちになるとさらに劣悪な環境に晒されている。ポストドクター(通称ポスドク)問題といって、博士課程を終えて学位を取得したものの、任期付きでしか雇用してもらえず、若手研究者が極めて不安定な状態に置かれていることも問題になっている。博士課程修了後にストレートで大学助教や公的な研究機関の研究員といった雇用期限のない安定した仕事にありつけるのはおよそ1割といわれ、それ以外の者は1年とかの契約更新で場合によっては切られる立場におかれている。研究者として安定した地位に這い上がっていくのは至難の業だ。

 

 2018年に九州大学の箱崎キャンパスの研究室で46歳の男性が焼身自殺した事件があった。常勤の研究職の道に進むために頑張っていたが、収入を得るために勤めていた専門学校の非常勤職の雇い止めにあい、経済的にも破綻して研究室暮らしがはじまり、いくつも肉体労働を掛け持ちした末に絶望しての自死だった。大学院から研究者の道に進もうとしてもポストがなく、男性と同じような境遇をよぎなくされている人は少なくない。大学職員や研究者の非正規雇用も随分と広がっている。東京大学でも非常勤職員の雇い止め争議が起きたが、雇用の調整弁としての非正規化が各大学で進んでいる。それもこれも、元を正せば独立行政法人化以後の運営費交付金の削減が発端であり、大学という学術研究の足場を崩壊させている原因だ。行財政改革などといって国の未来とも関わった学術研究への投資をケチり、自国の学問レベルを劣化させているのだ。

 

  頑張って博士号の学位を取得したところでポスドクが関の山なら、あえて研究者になろうとは思わない。というか、大学の4年間学問に励むだけでもすこぶるカネがかかり、大学生はみな奨学金という名のローン地獄に叩き込まれている。国公立大学の授業料だけ見ても1970年代には年間7万円前後だったのがいまや53万円。そのために多くの学生が有利子の奨学金を借りて、社会に巣立つ際にはスタートラインから300万~500万円とかの借金を背負わされる。もっと大きな金額を背負っている若者もいる。

 

 研究者にならなくとも、その返済のために結婚や子育てが制約されて手足が縛られる。その数は580万人にもなるというから、社会的にも大変な問題だ。奨学金チャラの徳政令を実施せよと叫ぶ政党も出現しているが、580万人にとっては切実な問題なのだ。

 

  研究者の立場も不安定だが、学生そのものも不安定。みんなが安定した状況から追いやられている。これで学問に打ち込める環境なのかだ。先程からのポスドクの問題とも関わって、修士課程から博士課程に進学する学生の数も近年はめっきり減っている。

 

 博士課程に進学する学生の数は、ピーク時の平成15年度に1万1600人いたのが減り続け、昨年度は6000人を割っている。独立行政法人化以後に半減したということだ。博士課程を終えても大学や研究機関で働ける保証などないのだから、当たり前だ。大学4年間だけでも経済的負担は大きいのに、博士課程まで終える9年間に必要な学費・生活費は平均値で1779万円にのぼると日本学生支援機構の調べでも明らかになっている。

 

 アメリカでは学費免除などもあり、中国でも院生への手厚い支援が施されているが、日本では奨学金という名のローン地獄の餌食みたいな状況に追いやられている。これでどうして「学問を究めたい」と思えるのかだろう。それは日本社会から次第に科学者がいなくなることを暗示している。

 

学問の自由を抑圧 横行する非民主的運営

 

 B 大企業や資本にとっては、大学とはハイスペックな人材を供給するための育成機関にすぎず、自企業で育てるのではなく大学で即戦力を育成せよ! が要求だ。新自由主義路線のもとでますます露骨な要求になっている。TOEICなど英語能力がことのほか重要視されるようにもなったが、グローバル人材育成のアウトソーシングみたいなものだ。そうした人材が新卒で借金を山ほど抱えておれば、雇う側としてはカゴの鳥みたいなもので、サラリーに縛り付けるのにも最適という関係にほかならない。いわゆる社畜にならざるを得ないような環境に端から追い込まれている。ただでさえ少子化で学生も少ないのに、経済的にも過酷な状況がある。

 

  昨今の大学崩壊は「独立行政法人化が契機になった」と大学関係者たちは異口同音に指摘するが、それ以後の新自由主義路線による「大学改革」とはなんだったのかが問われなければならない。学術レベルの後退は既に結果としても出ている。その崩壊も歴然だ。

 

 理系では軍産学協同の母体として大学を研究開発に組み込み、人文社会系は切り捨てていく。目先の経済的利益をもたらさない文系は切り捨て、理系を中心とした軍産学によるグローバル競争に資する大学へと変貌させることが狙いだった。大学はそのための道具にすぎないという扱いだ。そのような大学に変質させるためのトップダウン型であり、学長選における学内での意向投票の廃止や学部長の任命権を学長が全て掌握するなどの非民主主義的な大学運営が横行するようになった。国の統制に忠実な学長ならばその暴走は許容され、筑波大学のように軍事研究にのめり込むならなおさらだ。学者としての矜持を持って抗ってくるなど、支配を強めたい国としては言語道断という関係にほかならない。

 

 こうして一方では運営費交付金を減額して財政的に支配し、国および資本のある側に大学を従属させ、その利害のために縛り上げていくという政策がやられてきた。日本学術会議の任命を巡る問題もその延長線上にある。政治がいくらでも手を突っ込むし、学者の自由な発言や自由な行動を奪い、トップダウンによって国家権力のもとに縛っていくという力が働いている。そして、都合の良い研究には資金を与え、そうではない研究は切り捨て、ついには人文系廃止まで口にするようになった。学問と自由の関係であったり、豊かな創造性ともつながった緩さやゆとりの必要性であったり、まったく無理解なものが恣意的に従属させようとしてきて発展の芽を摘み、今日のような「劣化」「後退」「崩壊」などといわれるような状況が生み出されている。

 

  新自由主義というのは、もはや有名な表現にもなったが「今だけ、カネだけ、自分だけ」をどこまでも追求する。国家100年の計など念頭にない。目先の利害を追い求めるためには、社会がどうなろうが2の次3の次で、社会的利益とか公共性を否定する。この20年来でやられてきた「大学改革」なるものは、まさにそうした日本社会全般とも共通して新自由主義路線に身を委ねたもので、反発が強いからこそ強権的であるというのが特徴だ。しかし、結果として大学崩壊がどこでも顕在化し、質の高い論文を求めて尻を叩いたところで、いまさらどうにもならない崩壊状況が露呈している。自国の学術レベルを劣化させるなど為政者としてはバカではあるまいかと思うが、こうした状況に追い込んだ国の責任は重大だ。

 

  ただ、絶望するだけでは展望がない。独立行政法人化以後の劣化が問題なら、単純な話としてはそれ以前の状態にまずは戻すことなしには始まらないし、学長選考規定なども元に戻し、歪んだ従属構造を強いるために減らした運営費交付金も元に戻して、安心して研究に従事できる環境を整えることが必要だ。研究者の卵が減っている問題も、「日本から科学者がいなくなる」を放置するのではなく、大学院生たちが学問に集中できるような手厚い支援を他国と同様に実施することだ。それらは全て国の未来、将来がかかっているのだから、何をケチ臭いことをしておるのかという話だ。

 

  学問から自由や無駄を奪うことがいかにとぼけているのか、今日の惨憺たる大学崩壊の現実から捉えなければならないのではないか。独立行政法人化は開かれた大学を目指して人類社会のために貢献することを謳っていたが、人類社会すなわち世界から一人負けする状況に向かい、貢献するどころか相手にされなくなったことを浮き彫りにしている。世間一般には見えづらく、わかりにくい分野の話ではあるが、大学関係者たちにもできるなら学者用語の難しい感じではなくわかりやすく発信してもらって、その構造的問題についてメスを入れ、解決のために社会的運動にすることが重要だ。大学生の奨学金問題もポスドクも単体ではなく、すべてはつながっているのだ。

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