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子どもの言語獲得と早期英語教育の盲点  福岡大学・山田英二教授(言語学博士)に聞く

 ひとがことばを理解できるのは、お互い同じものを持っているからだ。発音や単語の組み立て方、言葉の仕組みなどに共通したものがある。その共通性に着目し、言語学者のノーム・チョムスキーという人が生成文法という理論を生み出した。言語について「人は同じシステムを遺伝子的に頭のなかに持って生まれてくる。それがあるから、人は言語を獲得(習得)できるのである。動物はそれがないから言語を獲得できない」といっている。


 日本人の親を持つ子どもでも、生まれてからすぐに英語圏で生活するようになれば、完璧な英語を話すようになる。スワヒリ語を話す地域で育てば、完全なスワヒリ語のネイティブスピーカーになる。人種などで言語が決まるのではないということだ。世界で6000から7000の言語があるが、どの子どももどの言語でも獲得できる能力を持っていて、問題はどこで育つかということだ。

 

子供が言語を獲得する仕組み
    

 人間はどうして3~5歳ぐらいまでの短期間に言語を獲得することができるのだろうか。まだ算数もできない、走ることも十分にはできない幼少期の子どもがなぜ言語を獲得することができるのだろうか。子どもは周囲が話す言葉を聞いて覚えているだけだという見方もある。耳にする言葉を聞きながら規則的な何かを探り出して文法をつくっているのではないかという考え方がある。だが日本語を覚えて日本語の文法をつくる、英語を覚えて英語の文法をつくるという考え方では説明できないことがたくさんある。子どもたちは、日本語や英語、スワヒリ語の個別言語を耳にしながら、その言葉のなかには表面的には出現しない情報を感知し、それを自分のことばに組み入れ、話せるようになることが知られている。


 これを説明するには、人間は脳のなかに遺伝子的に言語の種のようなものを持っていると考えるしかない。普通、植物の種ならば同じ芽が出てくるが、言語の種は、環境により芽の出方や枝の分かれ方が違ってくる。その違いが、英語になり、スワヒリ語、日本語になる。そう考えるとそれぞれの言語の根っこは共通であり、そういう意味で共通するところがたくさんあるといえる。この言語の種を普遍文法と呼んでいる。


 簡単に説明しよう。すべての言語には動詞、名詞、前置詞、副詞的なものがあり、語順がある。これは当然のようだが不思議なことで、仮に宇宙人がいるとして、地球の言語を見ると「地球の言語は共通しているな」と考えるだろう。


 だが多くの人は「英語と日本語は全然違う。中学から大学まで勉強しても外国人の前では話せないではないか」と言うだろう。もちろん日本語と英語は違う。では何が共通しているのだろうか。


 例えば「私はボールを蹴る」という日本文がある。これを二つに分けると、「私は」と「ボールを蹴る」になるだろう。「ボールを蹴る」という部分を、動詞を中心とした「動詞句」と呼ぶ。英文の場合は「I kick a ball」になる。これも「I(私)」と「kick a ball(ボールを蹴る)」に分かれ、「kick a ball(ボールを蹴る)」が動詞句だ。この場合、主語が先にくる語の並び方は同じだ。

 

       

 ところが大きく違うのは、動詞句の中で、日本語では、目的語になる「ボール(を)」が先に来ている。「蹴る」という動詞が右側にくる。英語は「kick a ball」で、動詞の部分が左側に来る。英語の場合は、動詞句をつくっている主要な部分である「動詞」は左側になる。日本語は動詞が右側になる。この右か左が大きく関わってくる。


 枝の出方をどちらにするのか、それを決めるのが「主要部」という考え方だ。子どもは「この言語は主要部をどちらに置くのか」を考えながら言葉を聞く。いくつかの日本語に接すると「主要部は右側だな」と考え、そのように設定する。英語では「主要部は左側だな」と考え、そう設定する。そうすると、それ以外の文法の各部もそれに従い、自動的に決まってくる。


 前(後)置詞句も同じだ。例えば「東京で」の後置詞句の主要な要素は「で」で右側になる。英語でいえばそれを表す前置詞句は「in Tokyo」になり、主要部の「in」が左側になる。だから主要部が右側と決まれば、その文法全体の各部の主要部の位置が右側になる。左側と決まれば、各部も左側になる。このような仕組みをわれわれはパラメーターという。動詞句の主要部を左に選ぶか右に選ぶか、その一カ所が決まれば、動詞句以外のその他の部分もほぼ決まってしまう。子どもはそれを設定しながら文法を獲得していく。このような「仕組み」がどの言語にも共通なのだ。


 子どもは頭のなかにあるこのようなもともとの仕組みを使って、右に入れるか、左に入れるかの「スイッチを入れる」作業をしているということだ。比喩的な言い方をすると、コンピューターをつくっているマザーボード内にいくつかのスイッチがあり、そのスイッチを入れていくといえる。そうすると基盤は同じだから言語の共通性はそれで説明できる。違うところはスイッチの入れ方といえる。このような仕組みを調べるのが生成文法であり、そのなかの中心に普遍文法というものがある。だがそれだけでは言語は獲得できない。単語自体の意味と形はそれぞれ覚えていく必要がある。


 さて、このような仕組みは、ことばの「音の世界」にもあり、私は強勢(アクセント)の位置を決める仕組みもこれと同じような方法で説明できるのではないかと考えている。私は音の分野で生成文法の考え方が当てはまるかを研究している。

 

  「ネイティブスピーカーになるには幼少期から英語をやろう」という宣伝が出てきているが、生成文法の考え方から見たらどうだろうか。


  日本語の環境で暮らす子どもの場合、獲得される第一言語は日本語になるが、そのスイッチ入れの作業の大部分は5、6歳までにほぼ終わってしまう。仮に幼少期に1時間、2時間の英会話をやったとしても、親や地域の人たちが日本語で話す環境であるならば、英会話の時間だけでは英語スイッチが入ることにはならない。だからそのような方法で英語のネイティブスピーカーにしようとするのは無理ではないだろうか。


  今、小・中学校で話す英語、耳で聞く英語をやっているが、それだけでは意味がなく、逆にいえば言語には法則があるから、それをつかめば英語も理解できるということか。


  今の小学校からの英語教育に反対している人たちは、ことばの仕組み、論理的な仕組みに「気づく」ことが大事であるといっている。もっといえば、その「気づき」があれば、日本語もきちんと話せるし外国語も英語も学ぶことができる。それがないと言語を本当には獲得することはできない。単純会話の応答レベルでとどまっている限り、外国語で議論もできないし、深い内容については理解することができない。だから小学校からの英語教育より、むしろ日本語教育の方が大事ではないかと主張している。

 

「使用人」英語教育でよいか
    

  他の国の言葉の仕組みを知る前に、自分の国の言葉を使って、ことばへの「気づき」を得ることが大事ということか。


  そうだ。母語であれば、その言葉の仕組みや論理性についてはそれほど深く考えることはないだろう。自然に獲得した母語の仕組みについて通常は意識することはない。だからこそ、小学校で、ことばの仕組みや論理性に気づけるようにしておけば、中学になって、日本語とは違う仕組みを持つ言語を学ぶとき、それがおもしろいと感じるだろう。それを抜きにして、話すための英語だけをすることは本当に危うい。


 これほど国が力を入れている英語教育の目的を「東京オリンピックで海外の人から英語で道を聞かれて対応するため、グローバルな人材を育てるため」などという人がいる。しかし、今おこなわれようとしている英語教育は、いわゆる「使用人」英語でしかない。相手(ご主人)がいったことに従って行動できる程度のものだ。


 本当に反論する力、思考する力は、母語としての日本語で文学や小説などを読むことから生まれてくる。今、文科省を中心に国をあげて「文系廃止」といっている。高校の国語教科書から文学作品をなくすといい、マニュアル文を読むような内容が国語教育になろうとしている。


 文学を読むことは、どう生きるかなど思想的な物事を考える機会にもなる。そのために文学は必要だが、生き方や国のあり方を考える人間がいない方がいいのだろう。極論をいえば、外国語教育の目的を上滑りの英語教育にしようとしていること、文系廃止、文学はいらないといっていることはつながっている。


 しかも現在の英語教育改革論議で問題なのは、これまでの英語教育がダメだったから変えるといっていることである。今、日本人はノーベル賞を比較的多く受賞している。彼らは英語で論文を書いてきた。しかも、彼らは30、40年前の英語教育を受けてきた人たちだ。それで成果が出ている。今後、20、30年後に日本から同じようにノーベル賞をとる人たちが出てくるだろうか。現時点でいって、非英語圏でのノーベル賞受賞数を見ると日本はかなり多い。そのことからしても、「日本の英語教育は失敗だった」とは断言はできないのではないか。


 「英語教育は失敗だった」という人たちは、6年間勉強しても話せないということをその根拠にしているが、そもそも「教育」自体が、実用を主目的としているのかどうかという問題もある。その辺りの議論はなされずに、なんとなくで英語教育改革が推し進められてきた。その中身は、「なんとなく聞ける、話せる」レベルであり、それは「使用人」レベルの英語である。それではノーベル賞は出ない。(文責・編集部)

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