いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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各地で維新の誇り蘇らせる 『動けば雷電の如く』全国公演

全国に大きな反響を広げている劇団はぐるま座『動けば雷電の如く――高杉晋作と明治維新革命』の公演は11月には福岡県志摩町(12日、約350人)、群馬県館林市(18日、750人)、栃木県佐野市(20日、200人)、熊本県山都町(23日、350人)、佐賀県伊万里市(24日、約300人)、長崎県平戸市(26日、300人)、長崎県佐々町(27日、350人)と九州を中心にとりくまれ、合計で約2600人の人人が熱心に観劇した。各地で「新しい時代を切り開いたのは百姓や町人ら無名の庶民だ」「あのときのように、世のため人のために元気を出して頑張ろう」と語りあわれる大きなうねりとなっており、舞台と同じように私利私欲なく大衆のために普及活動を続けるはぐるま座への支持と期待が大きくなっている。
 
 維新の史実表に  長崎・平戸

 26日に公演がおこなわれた長崎県平戸市では、今年4月の長崎公演を通じて明らかになった「天領長崎で振遠隊が結成され、町衆の次男、三男300人余りが倒幕の奥羽戦争に貢献した」という史実が知らされると大反響となり、これまで抹殺されてきた維新の誇りを呼び覚まし、それを現代の世直しの力にしようと意気込み高くとりくまれた。
 平戸市民のなかでは「平戸は国の玄関口。なんでも平戸から始まった」という誇りがある。また、「平戸田助の港を知らない船頭衆はいない」といわれたほどの田助港では、幕末の薩長同盟が結ばれるより前に、薩摩の西郷隆盛や長州の高杉晋作らが回船問屋の多々良孝平居宅や明石家などで明治維新を決定づける重要な会談をおこなっていたことが、公演のとりくみの過程で明らかになった。地元では「母の実家が遊郭をしており、“小さいときに高杉晋作さんにだっこしてもらっていた”“明石家には当時会談した部屋が今も復元されている”などの話をよく聞いていた」「家をといたら隣の家に抜ける通路があった。昔西郷さんや高杉さんが隠れていて逃げられるようになっていたと、父母から聞いている」「禿島で釣りを装って密会していたそうだ」ということが語り伝えられている。
 また、戊辰戦争で倒幕軍が苦戦に陥ったとき、平戸藩は401人の「奥州征討軍」を組織し、明治元(1868)年8月10日、田助港から出兵し多くの戦死者を出しながら維新に貢献したこともわかってきた。
 市内163自治会をはじめとして市内全域にポスター500枚が貼り出され、理美容店、飲食店など各種商店、老人会、文化協会、社会福祉協議会、寺や神社など幅広い層に1000枚のチケットが預けられ、運動が広がっていった。内容を紹介した紙芝居は、中野漁業漁船団の恵比寿祭りや、学校、自治会、老人会などでおこなわれた。亀岡神社のおくんちでは、おくだりの行列にはぐるま座が「長州から奇兵隊の援軍」として特別参加、「長州からありがとう」と声がかかった。このことを通じて「おくんちをきっかけにみんなが元気になれば」と頑張る商店街の人人と出会い、「奇兵隊のような団結の心が今こそ必要」と期待の声が寄せられた。
 こうしたなかで、今NHKの『龍馬伝』が騒がれているが、明治維新とは一人二人の偉い人がいたからできたものではなく、無名の庶民の力が歴史を動かす原動力であったことが大きな喜びとして受けとめられていった。とりくみを通じて市民が沸き立っていった。公演後、「平戸始まって以来の舞台だった」「平戸は明治維新発祥の地だ」と喜ばれている。

 町を元気にする取組み 長崎・佐々町 

 27日の長崎県佐々町の公演では、実行委員会は自治会や老人クラブ役員、農民や商店主など、一見すると「今まで文化と関係なかったような人たちばかり」(実行委員の婦人)だったが、「『動けば雷電の如く』の上演を通じて佐々町が元気になるようなとりくみにしていこう!」を合言葉に、お互いに学びあって大きな力を発揮していった。実行委員は50人、約100人がチケットを持って市民に観劇の声をかけて回った。
 町内各地にポスターやチラシ、チケットが届けられ、老人会やデイ・サービス、町内会、高校や専門学校、児童クラブ、地域の文化祭、おくんちなどで内容を紹介した紙芝居がおこなわれ、熊野神社のおくんち前夜祭では『雷電』の寸劇が披露された。そのなかで、「これからの佐々町をどうしていくのか、みんなが力をあわせて町づくりをしていくのにぴったりの劇だ」「佐々からもたくさん戊辰戦争に出ている。昔の人たちは世のため人のために頑張った。本当に偉かね。今の時代は自分のことばっかりで本当にだめ! なんとかせんば!」「佐々町のご先祖さんも、新しい時代をつくるために大きな貢献をしたことをはじめて知った。そういう故郷の誇りある歴史を子どもたちに伝えたい」「大型店ができて地元の店は立ちゆかなくなっているが、負けているわけにはいかない。私は友だちを誘って見にいくよ」「町内会から話は聞いている。今個人主義が強くなっているが、地域社会は個人主義では成り立たない。今の世の中に必要な劇だ」とあちこちで論議になった。
 実行委員長の松野與志晴氏(老人会副会長)は「今の日本は100年に一度といわれている世界不況のなかで、企業の倒産、失業問題に苦しみ、自殺者も増大し、また、無差別殺人や親殺し子殺しなど理解に苦しむ事件が多発している。平成の今の世は、昔は豊かだった人としての人情、思いやり、助けあい、友愛の心が貧しくなり、人の心がこれほどまでに荒廃してしまったのか、情けなく悲しいこと。『動けば雷電の如く』のなかにある“人民安堵”の旗印に感銘を受け、いつの世も人民が安心して暮らせる社会になることを切実に念じたい。佐々町の発展にとっておおいに力となる公演として、町内の多くの皆様と心を一つにしてぜひ成功させていきたい」と訴えた。
 また、実行委員のなかでもとりくみの過程で、「有名なスターはいない。でもそんなものじゃない。地道に努力を重ねてきた者にしか描けない舞台だ」「今の百姓がおかれている状況と重なった。今でさえ結束することは大変なのに、昔はもっと大変だったろうが、戊辰戦争で秋田に行き、全国で結束してやったことを考えた。それを成し遂げて今の自分たちがある。ご先祖の供養のためにも絶対に成功させないといけない」と語られた。

 望東尼ゆかりの地でも 福岡・志摩町 

 福岡県糸島郡志摩町では、小学生から年配者まで300人が観劇した。志摩町は来年1月の合併で糸島市になるが、「志摩町の姫島は、高杉との縁が深い勤皇歌人・野村望東尼が流刑されていたところ」「地域の歴史と誇りを見つめ直し、新しい市になっても素晴らしい志摩町を残そう」との思いで実行委員会がつくられた。
 野村望東尼は元治元(1864)年11月、高杉晋作が萩の俗論派の襲撃を逃れて九州を訪れた際、平尾山荘に10日間かくまい、高杉に羽織、袷、襦袢を縫って贈った。慶応元(1865)年10月、福岡藩の倒幕派は大弾圧を受け(乙丑の獄)、望東尼も高杉たち志士をかくまったことにより60歳で姫島へ流罪となった。冬から春への10カ月間の苦しい牢屋暮らしだったが、島の人たちは望東尼に対してとりわけ温かい態度で接した。姫島で『雷電』の紙芝居を見た婦人たちの間でも、「望東さんは本当に立派な人だった」「獄舎の上の方に住んでいたフジさんという女性がおにぎりを持っていってあげていたそうだ」と語りあわれていた。
 当日は、公演を楽しみにしてきた人たちが開演一時間前から座布団などを抱えて続続と入場し、準備していた客席はみるみるいっぱいになった。進藤嘉和実行委員長は「野村望東尼と志摩町は大変ゆかりが深い。この明治維新の志士たちの志を持って、自分も生涯頑張っていきたい。みなさんもともに頑張りましょう!」と挨拶。温かい拍手で舞台が始まり、終始観客と舞台が一体となって進行した。
 戦場に米俵を女たちが運んでくる場面では、熱い拍手がわき起こり、高杉が「今から総攻撃を開始する」というと、客席から「頑張って!」と小さな女の子から声がかかり、高杉晋作が二九歳で亡くなったという場面では大きなどよめきが起きた。
 終演後の見送りでは「初めて泣いた!」と感極まって声をかけていく男性や、「素晴らしかったよ! また来てね」と俳優たち一人一人に声をかけ、握手していく人が多かった。

 地域の団結強める公演 熊本県山都町 

 熊本県益城郡山都町は、はぐるま座が三十数年前からかかわり、これまでに15回も公演をしているなじみの地域である。そこからはぐるま座に対するマイナスイメージや批判も強くあった。旧来の公演のとりくみが、地区労や解放同盟などの組織に乗っかった形で、地元の実行委員会に責任をすべておっかぶせるものだったからで、今回ははぐるま座自身が圧倒的多数の市民のなかに無差別に入り、その広範な人たちに依拠して公演をとりくもうと構え直して始めた。
 これまで毎回、公演事務局で奮斗してきた男性は、「はぐるま座は芝居は下手だが、公演の意義は感じる」と、地域の啓発という社会教育的な運動としてかかわってきたが、次第に声をかける相手も少なくなり、枠が狭まることにジレンマを感じていた。ポスターも事務局まかせで、100枚つくるが、何十枚も残っていた。
 ところが今回は、はぐるま座のメンバーが町内に入って、1万8000人の町に300枚のポスターを隅隅にまで貼りめぐらせた。そのポスター行動のなかで、「実行委員になろう」「広告を出そう」という人との新たな出会いがあった。これまで労働組合中心だった実行委員会は、区長や老人クラブ役員、商店主などが参加して様変わりとなった。そしてそうした人たちが毎日夕方になれば宣伝カーをとりにきて町内を宣伝に回る姿が、事務局員を感動させた。
 事務局員が実際に宣伝カーで町内を回ると、至るところに『雷電』のポスターが貼ってあり、手を振ってくる人が多かった。手を振ってきた中学生たちは、はぐるま座が紙芝居を披露した学校の生徒だったこともわかった。その中学校では若い教師が「紙芝居で高杉晋作の生き様が学べたのはすごく大きなこと。子どもたちにもふるさとの歴史に触れさせたい」と喜び、「ふるさと再発見」の壁新聞づくりをとりくんでいた。壁新聞は公演当日、会場に貼り出された。
 そうして迎えた公演当日。幕が下りると事務局を担った男性は、開口一番「はじめて舞台で感動した。これまでは毎回、サクラになって拍手していた。でもきょうは会場が自然に盛り上がり、おばちゃんたちがかけ声までかけていた。こんな雰囲気は今までになかった」と、感動を抑えきれぬ面持ちで語った。
 そして「劇団が“変わる”とか“変わります”というのを何度も聞いてきたが、今回は本当に変わった。劇を観て本当にそう思った。最高にいい芝居だった。自分たちもこうでないといけない」と、実際の行動で様変わりとなった劇団にエールを送り、「実行委員の顔ぶれも、普段出会うことのない人たちがたくさん集まった。公演が地域の人たち自身のものになり、その人たち同士の町のための団結が生まれた。これこそ本当にやりたかった実行委員会だ」とのべた。
 「これまでの公演で、はぐるま座の手足に使われた」と腹を立てていた男性も、途中から実行委員としてとりくみに参加、閉幕後は公演の成功をたいへん喜んだ。そして劇団のオルグが「長年だれが主人公かということが転倒し、地元の人に迷惑ばかりかけてきた。しかし今回、人人のためにという立場に転換しようとやってきた」と発言すると涙ぐみ、肩をくんで励ましあった。
 公演後、教師やPTA関係者のなかで、以前中学生が同級生を切りつける事件があったことをめぐって、「舞台で描かれている内容と、今起こっていることは同じことだ」「ワルといわれる子どもにも地域としてかかわり、地域で育てていかないといけない」「高杉晋作のような誇りをもった生き方をさせたい」「まずはわれわれ一人一人が高杉にならないと」と熱く語りあわれた。
 公演を通じて、はぐるま座が私心や私利私欲を捨てて、舞台の内容と同じように「人人のため」に奮斗するなら、活動は様変わりとなり、実行委員とその後ろにいる無数の人人と結びついて現実を変える大きな力になることができること、それが実行委員自身の喜びとなっていくことが示された。ある実行委員の男性も「まるで革命がすぐにでも起きそうな感じだった」「地区労運動も解放運動もこうでないといけない。今までいったいなにをやっていたのかと教えられた思いだ」とのべている。

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