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イランってどんな国? 相互理解の為に何ができるか 大使館レセプションで聞いた実像

 アメリカ・トランプ政府が1月3日、イラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を殺害したことを契機に、中東をめぐって軍事的緊張が高まっている。あわや第三次世界大戦かという事態は一旦回避されたものの、基本的な矛盾関係は変わっておらず、そこに安倍政府は米軍の下請軍隊として自衛隊を派遣した。そんななか、イラン・イスラム革命41周年記念祝賀会が10日、東京都港区のイラン大使公邸でおこなわれ、本紙も招待を受けたので記者を派遣した。そこでイランに詳しい研究者や文化人の人たちと出会い、今の中東情勢をどう見るか、日本はこれからどうかかわっていくべきかをめぐって貴重な話を聞くことができた。その内容とあわせて中東情勢について、記者座談会で論議した。

 

ソレイマニ司令官殺害 米軍出ていけのうねり

 

  祝賀会当日はどんな様子だっただろうか。

 

  大使公邸は河野防衛大臣をはじめ防衛省や外務省などの官僚、自衛隊の幹部、国会議員、各国駐日大使、イランと交流のある財界人や研究者、文化人など400人ぐらいの人でごった返していた。

 

 ラフマーニ・モヴァッへド駐日イラン大使の挨拶は、要旨次のようなものだった。「1979年2月11日、イラン国民は王制に対して蜂起し、国民の意志にもとづいて共和制を打ち立てた。以来41年間、科学技術、産業、保健医療の分野で大きく発展してきた。外交政策は西にも東にも依存せず、建設的対話、平等と相互尊重の原則にもとづいておこなってきた。ペルシャ湾岸地域においては、地域内諸国の協力こそが平和のためのもっとも優れた選択だと考えており、域外諸国の駐留軍の存在はペルシャ湾の平和と安全を保障しないと考えている。テロとの戦いで重要な役割を果たしたソレイマニ司令官の暗殺は、国際社会から強く非難されている。イランと日本の両国民は長い歴史のなかで友好的な関係を培ってきたし、今後の発展を願っている」。会場にはソレイマニ司令官の遺影が飾られていた。

 

会場にはソレイマニ司令官の遺影が掲げられていた

 

歓談する参加者

 

 その後は長粒米にカレーをかけたものやケバブ(串焼き羊肉)を味わったり、豊富な果物に舌鼓を打ちつつ、参加していた研究者や文化人と交流を深めることができた。研究者も文化人も「日本のメディアはイランについて偏った報道しかしない」「ジャーナリズムとしての矜持はどこへ行ったのか」と口々に語っていたことが印象に残っている。

 

 ある研究者は、イラン革命防衛隊のソレイマニ司令官をアメリカがドローンで暗殺したことについて、「イラクという主権国家の国際空港という場所で、イランの軍隊の司令官を殺害したことは、明確な国際法違反であり、テロ行為そのものだ」という。そのときロシアや中国は国際法違反だとアメリカを非難したし、中東やヨーロッパ諸国も批判的だった。だが、安倍政府はこの事件を国際法違反だといえなかったし、日本のメディアもそれを指摘しなかった。

 

 もう一つこの研究者が指摘したのは、「IS(「イスラム国」)を支援しているのはサウジアラビアだが、それを日本のメディアはいわない」という点だ。ISはサウジアラビア・スンナ派のラディカリズムを引き継ぐとともに、スンナ派以外のイスラムを背教者とみなす、イスラム原理主義の極みのような曲がった思想を抱いている。しかしISはシーア派(イラン)を否定しているので、サウジにとっては支援対象だ。ISが接収した石油施設の原油はサウジが買っていたという。そしてサウジは石油輸出で外貨を稼ぎ、そのカネで米国製兵器を爆買いするので、そのサウジをアメリカが支えている。日本では「ISを掃討したのはアメリカ」というような報道をしているが、ISを焚きつけたのはサウジで、その後ろにはアメリカがいるわけだから、壮大なるマッチポンプにほかならない。

 

  9・11ニューヨーク・テロ事件のときもそうだった。1980年代、米軍とCIAはアフガニスタンに侵攻したソ連に対抗するために、現地で武装ゲリラを組織し、資金や武器の提供だけでなく軍事訓練までやったが、そのなかにオサマ・ビン・ラディンのアルカイダがいた。彼が反米に転じるなかで、アメリカは「9・11の実行犯はアルカイダで、それをかくまったのがアフガニスタンのタリバンだ」といってアフガン戦争を始めた。

 

  そしてISがイラクやシリアで支配地域を広げ、住民を斬首したりと蛮行をくり広げるなかで、ISは許容できない、被害を受ける住民を救おうと派遣されたのが、ソレイマニ司令官をトップとするイランの革命防衛隊だったようだ。1000人規模の部隊だが、イラクやシリアの国軍を指導し、住民のなかから民兵を育てて、一致してIS掃討で行動していった。それが非常に功を奏したがゆえに、影響力を強めるイランを恐れたアメリカはソレイマニ司令官を「テロリスト」と呼んで爆殺したのだ、とその研究者はいっていた。

 

  ソレイマニ司令官の葬列に数百万人の住民が参加しているのを見たが、それだけ信頼が厚かったのだろう。イラクやシリアの国民も彼の活動を高く評価しており、イラクでは「アメリカ出ていけ」という巨大なデモが起こっている。

 

  ある研究者は「ソレイマニ司令官の殺害が中東地域においてどれだけのインパクトを及ぼしたのかをトランプは理解していない。今回の事件は今後100年以上にわたってアメリカの中東政策の大失策として語り継がれるだろう。アメリカが中東地域からたたき出される一大転換点になったのかもしれない」と語っていた。

 

農業も工業も生産増 女性の社会進出もすすむ

 

  もう一つ感じたことは、日本では「イランは悪の枢軸」「核兵器を持とうとするテロ支援国家」という米国発の情報ばかり流され、イランがどういう国かがほとんど伝わっていないことだ。

 

 イラン大使館から日本とイランの国交樹立90周年の冊子をいただいた。歴史をさかのぼれば、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550~紀元前330年)やササン朝ペルシャ(224~651年)時代の領土は広大で、東西を結ぶシルクロードの大半を支配したといわれるが、今から1500年前の飛鳥時代にはそのペルシャ帝国からガラス碗などが日本にもたらされているというから、両国の交流の歴史は古い。奈良時代には唐(中国)の高官と一緒にペルシャ人が来日した記録があるし、苗字に「波斯」とか「胡」がある人はイラン人の遠い子孫かもしれないという。

 

 驚いたのは現在のイランの経済的な発展だ。イランはイラン革命後、大国への従属経済を脱して自立経済をめざすことを国策に掲げ、とくに農業を重視した。1997年までに農産物の自給率90%を達成し、ペルシャ湾岸諸国のニーズもまかなうまでになっている。イランはサフランやピスタチオの生産国として有名で、デーツ(ナツメヤシの実)とアンズは世界2位、アーモンド、アメリカンチェリー、きゅうり、スイカは世界3位の生産国となっている。FAO(国連食糧農業機関)の統計によれば、イランは20種類以上の主な農産物の生産で世界のトップ7カ国に入る有数の農業国になっている。

 

 日本では砂漠とラクダの国という印象だが、実際にはイランでは砂漠地帯は一部で、農業生産に適した土地が多いし、カスピ海沿岸にはまるで日本のような美しい水田が広がっているのだと、実際に行った人たちが強調していた。

 

 また、イランの原油埋蔵量は世界4位、天然ガス埋蔵量は世界1位だが、決して天然資源だけに依存した国ではない。イランは中東地域で最大の自動車製造国で、生産台数は世界16位。また、2018年には粗鋼生産量で世界10位に入った。そのほか必要な医薬品の96%が国内で生産され、ロシアなど50カ国に輸出もしているし、ナノテクノロジーの生産は世界6位だ。イラン革命の前は6歳以上の国民のうち読み書きができる人は49%にとどまっていたが、現在では識字率は89%に達しているという。

 

イラン国産車の生産現場(イラン文化センター提供)

 

学校での授業風景(イラン文化センター提供)

 

  2009年から3年半、テヘラン特派員を務めた『毎日新聞』の鵜塚健というジャーナリストが『イランの野望』という本を出している。それを読むと、イランではテヘラン大学を頂点に各州に国立大学があるが、2014年の大学入学共通試験では合格者の60%が女性だった。2013年に発足した現ロウハニ政権では、11人いる副大統領のうち3人が女性であり、女性の社会進出が進んでいる。同じ中東でも宗教戒律に厳しいサウジアラビアでは女性の自動車運転を禁じていたが、テヘランの街中で見る女性ドライバーの比率は日本より圧倒的に高いという。イランの女性がヘジャブ(スカーフ)の着用を義務づけられていることから、日本のメディアはまるで女性を抑圧する国のように描くが、それが偏見にすぎないことはこの本を読むとわかる。

 

 また、イランはサウジアラビアのような王制で議会のない国と違い、議会制民主主義の国だ。大統領は国民による直接選挙で選ばれ、連続三選は禁止。イランの国会議員(定数290)も直接、国民の秘密投票によって選出され、4年に一度改選される。イラン国会は人口が少ないキリスト教徒やユダヤ教徒、ゾロアスター教徒の声を反映させるため、あらかじめ5議席を確保し、少数者に配慮している。

 

 ソ連のアフガン侵攻とアメリカのアフガン戦争をへて、イランには100万人ものアフガン難民が生活している。イラン政府はこの難民たちを教育や医療の面で支え続けており、イランで大学や大学院を卒業して母国に戻り、復興に携わるアフガン人もいる。

 

 イランの貿易依存度は輸出が19・0%、輸入が11・2%で、食料から加工品まで幅広い分野で自給能力が高い。近隣のアラブ首長国連邦は石油と金融以外に主な産業がなく、貿易依存度は輸出が78・2%、輸入が57・3%と非常に高いのと対照的だ。だからイランはアメリカの経済制裁も、困難はともなっているにしろ乗り切ることができている。鵜塚氏はイランについて、グローバリズムから離れ、豊富な天然資源を生かして豊かさを享受する、中東では数少ない安定した大国だと結論づけている。

 

  そのような実像を知るにつけイランのイメージは変わってくる。

 

米国の経済制裁の下 自ら国益投げ捨てる日本

 

  ところが最近、長年友好関係を維持してきた日本とイランとの関係を断ち切ろうとする動きが強まっている。2015年7月に欧米など7カ国との核合意が成立し、翌年1月から経済制裁が解除されると、イランにはヨーロッパから観光客がどっと押し寄せ、観光業の発展が大いに期待された。イランは古代から文明が発達した国で、世界最初の帝国であるアケメネス朝ペルシャの遺跡ペルセポリスがあるし、サファビー朝(1501~1736年)の領土は現在のイランからイラク、シリア、トルコ、アゼルバイジャン、アフガニスタン、パキスタンなどにまたがる広大な地域に及び、世界の商人が行き来したため「世界の半分」と呼ばれたが、その首都イスファハーンには多くの遺跡が残り、町そのものがミュージアムになっている。それがトランプの核合意離脱から、日本企業はイランにまったく入れなくなったという。ある関係者は、今は将来に向けて科学技術面での人の交流を細々とやっているだけだ、と嘆いていた。

 

 A 日本とイランとの関係でいえば、1970年に三井物産が中心になってイラン・ジャパン石油化学(IJPC)を設立し、イランで最初の総合石油化学コンプレックスの建設に着手した。その当時はイランと日本の国民はビザなしで相互に観光訪問ができていたし、テヘランの日本人学校にはプラント関係や商社の子弟が500人以上いたという。IJPCは歴史に残る巨大プロジェクトだったが、イラン・イラク戦争で破壊され、日本は撤退した。それでもイランは自国の科学技術に頼りながら、プロジェクトの規模を縮小しながら再建し、今ではそこの石油化学製品はイランの主要な工業製品の一つになっている。

 

イラン・ジャパン石油化学プロジェクトが頓挫した後にイランが再建した石油化学工場(イラン文化センター提供)

 

 次に起こったのがアザデガン油田開発からの撤退だ。イラン南西部のアザデガン油田はイランとイラクの国境地帯に広がり、埋蔵量は中東最大級といわれていた。日本の国際石油開発帝石(INPEX)は、当初75%の権益を持っていたが、イランに対して経済制裁を強めるアメリカを忖度して、2010年にはイランから完全撤退した。日本をはじめ西側資本が撤退して「空白」が生まれると、中国が石油利権を確保した。

 

 B 東京で会ったある文化人は、友人がコンビナートを建設する下請の会社を経営していて、「イランは日本の技術をほしがっている。日本の経済発展の大きなチャンスだ」と会社ぐるみでイランに進出したところ、撤退が決まり、会社は倒産に追い込まれたという。また、東横インがイランに進出しようとテヘランに事務所を開設していたが、トランプになってからホテル建設が頓挫し、事務所を閉鎖して撤退した。その文化人は、なぜ長年の信頼関係があるイランを大事にしないのかと憤っていた。アメリカの顔色をうかがってみずから国益や経済的な権益を放り出すのだから、これほどもったいないことはない。日本が独立国ではなく、アメリカに隷属した植民地状態にあるという現実を突きつけている。

 

 そのことと関連してもう一つ驚いたのが、日本とイランとの友好に献身したイラン駐在日本大使の駒野欽一氏が、最近、セクハラ疑惑で起訴されたことだ。駒野氏は、1971年に外務省のペルシャ語研修生としてイランに赴任し、シラーズの大学で学んだ後、73年からイラン革命直前までテヘランの日本大使館に勤務し、83年から二度目のイラン勤務を4年間おこない、2010年から大使として三度目のイラン勤務をまっとうし2013年に退官した。ペルシャ語が堪能でイランの詩にも造詣が深いという。「そういう誠実な外交官がいるから日本のビジネスマンは安心してイランで仕事ができるんだ」という言葉が、今も耳に残っている。

 

 その駒野氏の、部下の女性職員に対するセクハラ疑惑を大手新聞が叩いたのが昨年4月だ。東京では一面で大きく扱ったという。しかもこのセクハラ疑惑は7年前の2012年のことで、外務省の内部文書が証拠だという。トランプが核合意離脱を発表した直後のことであり、きわめて政治的だ。一方で首相のお友だちのジャーナリストの準強姦は、警察を含めてもみ消しに動いている。こんなことをしていたらまともな外交官は育たないし、それこそ長期的に見れば国益を損なうことになる。駒野氏の裁判は昨年11月、事件性がないとして不起訴になった。

 

  人口8000万人という中東の大国・イランは魅力的な市場で、2016年1月の経済制裁解除後には、欧州諸国が競ってイラン詣でをしたほどだ。石油の8割を中東に依存する日本にとって、イランとの経済関係を発展させることは国益にかなうことであり、イランも歓迎するだろう。対米従属の売国政治がその障害になっていることは明らかだ。

 

イスラム的共和制へ 欧米の侵略と闘ってきた歴史

 

  イランに詳しい研究者にイランの歴史や日本との関係について教えてもらったが、その人は第一次大戦を前後して列強による中東の分割支配が始まるなか、イランがこの100年間にわたって民族の統一と独立、イスラム的な共和制と民主主義を確立するためにいかに呻吟(しんぎん)してきたかを熱く語った。

 

 産業革命をへて欧米が近代化するなか、中東地域は依然として部族社会が残っており、「三枚舌外交」といわれたイギリスをはじめ欧米列強は部族の権力者をだまし、争わせて支配するやり方をとってきた。これに対して民衆運動が起こり民族の独立をめざしたのがエジプト、トルコ、イランだった。その他の多くの中東の国はいまだに部族主義が残っている。

 

 20世紀初頭にはイギリスとロシアがガージャール朝のイランを植民地にしたが、日露戦争の直後、イランの民衆が立憲革命を起こし、ガージャール王に議会をつくらせた。共和制を模索する運動であり、ヨーロッパに対しては独立のアピールだった。そのとき、同じアジアの同胞である日本が、自分たちを痛めつけてきたロシアに勝ったとのニュースが飛び込み、それが民衆レベルで親日感情が生まれる最初のきっかけだったという。

 

  第二次大戦時には、イランが中立宣言をしたにもかかわらず、チャーチルとルーズベルトとスターリンが結託して攻め込んで分割支配した。戦後の1951年にイランのモサデク政権が石油の国有化を断行すると、イギリスはイラン産原油の禁輸措置で対抗し、モサデクはアメリカに調停支援を頼むが、アメリカは仲介ではなく、イギリスと結託して、CIAとMI6が連携し軍事クーデターを起こしモサデクを追放した。その後、イランのパーレビ朝は親米路線を突き進み、アメリカから最新兵器を買い続け、アメリカが操る「ペルシャ湾の憲兵」といわれた。これに対してパーレビ朝の腐敗と抑圧される庶民の救済を訴えたのがホメイニ師で、大規模な民衆運動が起きパーレビは国外に逃亡。アメリカを叩き出してイラン革命が勝利した。

 

  その研究者は、民主主義とかナショナリズムというのは西欧が持ち込んできた概念だが、それをイラン独自のイスラム共和制という形で自分たちの血肉にしていったのがこの100年だったといっていた。ペルシャ語にはMELLT(メンラット)という言葉がある。それは元々部族社会を緩やかにつなぐ「宗教共同体」という意味しかなかった。それが100年かけて「国民」という意味を持つ言葉に変わる。そのような意識の変化があったという。

 

 また、被爆国である日本に対する同情心は非常に強いものがあるようだ。そのことは幾人もの人が強調していた。イランの最高指導者が戦争について語るときには、毎回かならず広島、長崎が出てくるほど意識している。被爆体験はイランの学校でも教えている。イスラム法では、自衛のためのたたかいは否定しないが、非戦闘員の殺傷は大罪とされる。だからイスラム法では原爆は許されざる大罪だ。

 

 また、8年間にわたるイラン・イラク戦争では両国の死者は100万人以上とされる。イラク軍による毒ガス攻撃によって、イラクに近いマルヴダシュトという町で一般市民が大量に毒ガスを浴びる事件が起きた。毒ガス兵器は第一次大戦で欧州で使われたが、その非人道性からジュネーブ議定書で使用が禁止されている。ところがアメリカはイラン革命を転覆するためにイラクを支援していたので、毒ガス使用に沈黙を決め込み、イランの被害は国際社会から無視された。そのアメリカが15年後には「化学兵器を含む大量破壊兵器の所有」を理由にイラクに戦争をしかけ政権を転覆するのだから、イランの人たちのなかにはアメリカのご都合主義に対する強い憤りがある。

 

 毒ガスによって、2010年当時で7万人が目や肺の障害に苦しんでいたとき、広島の呼吸器内科の医師たちがNPO法人を立ち上げ、継続的にイランを訪れて医療支援をおこなってきた。また同じ戦争の被害を受けた広島とマルヴダシュトをつなぐ映画祭を毎年、広島で開催しており、日本とイランとの友好に貢献しているようだ。

 

  日本が今から将来にわたって、イランをはじめ中東・アラブの人たちとどういう関係を結んでいくのか。彼らの長年月にわたる苦難の根源は、欧米の侵略支配にある。そのアメリカの求めるままに、自衛隊を緊迫している中東の最前線に送ることは、先人たちが苦労して切り結んできたイランとの友好関係をご破算にし、彼らの信頼を裏切ってアメリカの側に立ち、イランや中東・アラブの人たちと敵対することを意味する。派遣される自衛隊員にしても、米軍の弾除けになってイランと衝突することを望む者はいないはずだ。唯一の被爆国である日本が、戦争ではなく平和、友好、平等互恵の経済関係を結ぶ方向で独自外交を進めるなら、中東・アラブ諸国の人々から歓迎されることは疑いない。

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