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新自由主義に対抗 反米の牙城となったベネズエラ 歴史的背景を見る

 ベネズエラを含むラテンアメリカは、16世紀にスペインやポルトガルによって征服され、カリブ海では先住民がほぼ全滅して、それに代わる労働力としてアフリカから黒人奴隷が連れてこられた歴史がある。19世紀以降はアメリカが米墨戦争でメキシコの半分を、米西戦争でキューバとプエルトリコを奪いとり、その後も軍事介入をくり返して「アメリカの裏庭」にしてきた。さらに1950年代からは、そのアメリカが世界最初の新自由主義の実験場にしようと策動してきた地域である。長年にわたって残酷な搾取と抑圧、軍事政権による弾圧を経験してきたラテンアメリカの人人は、アメリカからの独立と民主主義を求めて立ち上がり、2000年代には反米左翼政府を次次と誕生させた。

 

 新自由主義の実験場としての歴史は、1970年代のチリに始まる。

 

 1970年、チリの大統領選で人民連合のアジェンデが勝利し、それまでアメリカが支配していた世界一の規模の銅鉱業をはじめとして、同国の経済の主要部分を国有化する方針を打ち出した。権益の喪失を恐れたアメリカは、CIAを送り込んでチリの軍隊を訓練したうえ、1973年9月11日に将軍ピノチェットにクーデターを起こさせ、アジェンデを殺害し政権を掌握した。同時に数万人の市民を拘束し、そのうち数千人をサッカースタジアムなどでみせしめに処刑した。

 

 続いてピノチェットは、ミルトン・フリードマンらアメリカのシカゴ学派をチリに招いた。フリードマンらは、50年代からチリの留学生を教育しては新自由主義の伝道者としてラテンアメリカ全域に派遣して、政権転覆後の経済運営を周到に準備していた。

 

フリードマン

 フリードマンは「ショック療法が必要」といって、銀行をはじめ500の国営企業の民営化、外国からの輸入自由化、医療や教育を中心にした公共支出の削減、パンなど生活必需品の価格統制の撤廃などをおこなった。公立学校はバウチャーとチャーター・スクールにとってかわられ、医療費は利用の都度の現金払いに変わり、幼稚園も墓地も民営化された。軍事政権がおこなった最初の政策の一つが学校での牛乳の配給停止だったが、その結果、授業中に失神する子どもが増え、学校にまったく来なくなってしまう子どもも少なくなかったという。

 

 それでも新自由主義は「チリに奇跡をもたらした」ともてはやされ、フリードマンは1976年にノーベル経済学賞を受賞した。

 

 しかし、それから10年たった80年代半ば、チリの対外累積債務は140億㌦にまで膨れ上がり、超インフレが襲い、失業率はアジェンデ政府下の10倍となる30%に達してチリ経済は破綻した。1988年には45%の国民が貧困ライン以下の生活を強いられる一方、上位10%の富裕層の収入は83%も増大した。

 

 70年代にはチリに続いてアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルにもアメリカの支援を受けた軍事政権が成立し、新自由主義の実験場となった。アルゼンチンで軍事政権がまずおこなったのは、ストライキの禁止と雇用主に労働者を自由に解雇できる権利を与えることだった。多国籍企業を歓迎するために外資の出資制限も撤廃し、何百社もの国営企業を売却した。

 

 これらの軍事政権が民衆の反抗を押さえつけるために共通してとったのが、反体制派を拉致して「行方不明」にするやり方で、その背後ではCIAが暗躍していた。アルゼンチンの軍事政権下で行方不明になった人は3万人にのぼり、そのうち8割以上が16~18歳の若者だったといわれる。

 

 そして軍政の下で、大量の輸入製品を国内市場にあふれさせ、賃金を低く抑え、都合のいいときに労働者を解雇し、上がった利益は何の規制も受けずに本国に送金できたので、もっとも恩恵を受けたのはGMやフォード、クライスラー、メルセデス・ベンツなどの多国籍企業だった。

 

80年代の中南米 累積債務危機とIMF管理

 

 1980年代に入ると、1982年のメキシコの債務返済猶予宣言を皮切りに、ラテンアメリカでは累積債務危機が爆発した。地域全体の累積債務の総額は、1975年の685億㌦から、1982年には3184億㌦へと急膨張した。

 

 ここでIMF(国際通貨基金)や世界銀行がラテンアメリカ諸国に押しつけたのが、構造調整計画と呼ばれる新自由主義政策だった。それは債務返済を最優先にさせるため、国内産業保護、外資の規制、社会福祉政策などを撤廃させ、規制緩和、自由化、民営化を各国に強制した。公務員の削減や社会保障支出の削減、増税や公共料金引き上げがおこなわれた。公共企業の民営化・外資への売却や貿易の自由化が進められた。

 

 その結果、80年代にはほとんどの国で経済成長がマイナスになり、国民経済は破壊された。80年から89年の間に、この地域の一人当たりの所得は15%低下し、都市部での最低賃金はペルーで74%、メキシコで50%低下した。失業者の総数は全労働者の約44%に達した。

 

 「失われた10年」と呼ばれたこの80年代をへて、90年代に入って米ソ二極構造が崩壊するなか、アメリカはラテンアメリカへの新自由主義政策に拍車をかけた。1990年、米大統領ブッシュが米州イニシアチブ構想を打ち出し、94年には米州自由貿易圏構想を発表した。

 

 だが、厳しい緊縮政策と民営化によって失業者は増大する一方、対外債務は減るどころか増加の一途をたどり、ラテンアメリカ全体で7000億㌦をこえた。1999年、この地域の貧困人口は43・8%にのぼり、改革の恩恵は一握りの富裕層に偏り、植民地時代にさかのぼるきわめて不平等な社会構造があらわれた。

 

 ベネズエラを見てみると、ペレス政府(1989~1993年)は、累積債務問題の解決といってIMFと合意書を交わし、緊縮財政政策を実行した。公共料金の大幅引き上げ、各種補助金の縮小・廃止、基礎生活物資(コメ、小麦粉、粉ミルク、医薬品など)の価格統制の廃止・自由化、付加価値税の導入などが短期間に進められ、国民生活に打撃を与えた。

 

 ペレス政府は1990年、政府管理下にあった三つの銀行を売却し、91年にはVIASA航空と国営電気通信会社CANTVを民営化した。CANTVに対しては、米電機メーカーGTEや電話会社AT&Tなどが地元企業と連合をくみ、出資比率40%で経営権を獲得した。

 

 価格自由化によって物価が2~3倍に高騰する一方、所得税の最高税率や輸入自動車の関税を引き下げた。89~98年のインフレ率は年平均53%にのぼった。貧困層が1982年の33・5%から、99年の67・3%へ増大し、そのうち半数以上が極貧層だった。1989年のバス運賃の大幅引き上げをきっかけに国民の不満が爆発し、1000人をこえる犠牲者を出したといわれるカラカソ大暴動が発生した。

 

バス料金の大幅値上げを契機にしたカラカソ暴動


新自由主義反対のシンボルとなったチャベス政府

 

 こうして新自由主義に反対するたたかいがラテンアメリカ全域に広がるなかで、1999年2月のベネズエラを皮切りに、2003年にブラジル、エクアドル、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアで、2004年にはウルグアイで、新自由主義と米州自由貿易圏を支持する親米政府があいついで打倒され、反米左翼政府が誕生した。

 

 なかでもラテンアメリカにおける新自由主義反対のシンボル的な存在になったのが、1998年の大統領選で、40年続いた二大政党制を打ち破って誕生したベネズエラのチャベス政府である。

 

 チャベスは、腐敗した寡頭支配層を批判して、これまで政治から疎外されてきた大衆の政治参加を訴え、またアメリカの支配からの独立、新自由主義反対、富の平等な分配と貧困の撲滅を訴えて、広範な大衆の支持を獲得して大統領に当選した。チャベスはこの変革をスペインの植民地支配からのラテンアメリカの独立を訴えたシモン・ボリバルの名を冠して「ボリバル革命」と呼んだ。

 

 チャベスは大統領に就任すると、国民投票で憲法制定会議を設立し、ボリバル革命を掲げた新憲法を制定した。それによって政策決定の過程に国民が直接参加できるようになり、議員のリコール制が導入された。大企業や大地主の農地が農民に分配され、国民には食料、教育、医療、職業が保障された。石油資源は国家の管理下におかれ、領土内に外国軍隊が入ることは禁止された。

 

 ベネズエラの主要産業は石油であり、輸出総額の約80%、国庫収入の約50%、国内総生産の25%を占める。80年代以降、多くの基幹産業部門が民営化されるなか、ベネズエラ石油公社は国営企業として残ったものの、米多国籍企業と結びついた大企業が経営権を握っていた。チャベス政府は経営陣を刷新し、政府が管理運営権を完全に掌握した。

 

 チャベス政府は直接民主主義を制度化し、政治に国民を参加させることをめざした。全国各地に200~400世帯を単位とする共同評議会をもうけた。共同評議会は予算を持ち、条例をつくることができ、地元の事柄について決定を下すことができる。また、教育、医療、食料助成、社会サービス、土地改革、環境保護などの社会開発計画への住民参加を制度化した。低所得者向けの住宅建設や医師の派遣、安価な基礎食料品の供給、低所得者向けの無料の食堂の運営、識字教育、失業者の職業訓練などがとりくまれた。

 

 こうした改革によって、GDPは2002年の920億㌦から2006年には1700億㌦と、4年間で倍近い増加となった。財政赤字やインフレが大きく改善され、失業率も1999年の16%から2006年には9・6%へと下がった。

 

米国排除して地域的統合へ

 

 ラテンアメリカのたたかいは、アメリカがNAFTA(北米自由貿易協定)を南北アメリカ大陸に拡大しようとした米州自由貿易圏構想を各国の反対で頓挫させ、ラテンアメリカ諸国民自身の力による真の地域的統合に向けたとりくみを発展させた。

 

 チャベス政府は、加盟国がアメリカとFTA(自由貿易協定)を結んだ3国グループ(G3。他の2国はメキシコとコロンビア)やCAN(アンデス共同体。コロンビアとペルーが対米FTA調印)から脱退し、2007年に南部南米共同市場(メルコスル)に加盟した。

 

 チャベス政府は石油資金を外交の武器に使い、同盟国キューバには好条件で石油を輸出するとともに、キューバからは医師や教師などの人材を多数導入して国内改革の力にした。2006年にはブラジル、アルゼンチン、ボリビアとともに、ベネズエラの石油と、同国およびボリビアの天然ガスを南米南部まで送るパイプライン網建設計画を打ち出し、アメリカの石油メジャーに対抗してラテンアメリカのエネルギー統合をめざした。

 

 また、アメリカが牛耳る米州開発銀行に対抗して、南米開発銀行を創設する構想を打ち出した。こうしたラテンアメリカ自身の立場を内外に知らせるため、キューバ、アルゼンチン、ウルグアイなどに働きかけて、2005年7月に国際テレビ放送網「テレ・スル」を発足させた。こうしたことはアメリカの南北アメリカ大陸支配に大打撃を与えた。

 

 戦後、アメリカは主権を持つ独立国の内政に干渉し、カネと軍事力で政府を転覆させ、新自由主義政策を押しつけるというやり方をくり返してきたが、それはことごとく失敗している。独立と民主主義を求める人人のたたかいに、さまざまな紆余曲折は避けられないが、そのたびに力を増していくことを押しとどめることはできない。

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