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第14回長崎原爆と戦争展が開幕 

 第14回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、同広島の会、下関原爆被害者の会)が20日、長崎市民会館で開幕した。被爆から73年目の夏を迎え、昨年の核兵器禁止条約の成立、今年の南北朝鮮の歴史的和解など、戦後史を画する国際的な原水爆禁止と平和の世論が渦巻くなかで、核兵器廃絶の起点となってきた被爆地の経験を若い世代に受け継ぎ、世界へと発信する場として、同展は全市的な期待を集めている。会場では、被爆者と若者との交流をはじめ、被爆2世、3世など次世代が多く訪れ、直接体験者の思いを継承していく強い意欲が語られている。

 

 今年の会場には、「第二次世界大戦の真実」や「原爆と峠三吉の詩」をはじめとするパネルや空襲で燃えた衣服、原爆の熱線で溶けた瓶や陶器、戦地に出征した兵士らが身につけた軍帽や鉄兜などの資料、体験記など200点が一堂に並べられている。

 

 とくに今年は、被爆者がみずからの体験を描いた絵や、被爆者が漫画家に依頼して被爆当時の経験を再現した絵などが多数加わり、凄惨な被爆体験を形に残して後世に伝えようとする市民の努力が注目を集めている。これらの展示を見て、絵や写真、体験記の提供を申し出る市民の姿もあいついでいる。

 

 また、『史上初の核兵器禁止条約を採択』『65年におよぶ朝鮮戦争の終結へ』の2枚のパネルに加え、核兵器禁止の国際的な連帯を進めるうえでアジア諸国との友好関係を広げていくことを呼びかけるスローガンが貼り出され、参観者の情勢論議の材料となっている。

 

 10時から始まった開幕式では、はじめに長崎の会の中里喜美子氏が挨拶。「多くの人たちの協力によって開幕にこぎ着けたことに感謝したい。被爆を経験した私たちは、この展示を見るたびに浦上川に積み重なった被爆者の遺体の山を思い出し、子や孫のために戦争は絶対にやってはならないという思いを強くしている。これからも長崎で頑張りたいのでよろしくお願いしたい」とのべた。

 

 共催団体として、原爆展を成功させる広島の会(眞木淳治会長代行)、下関原爆被害者の会(大松妙子会長)のメッセージが読み上げられた。

 

 眞木氏は、最近の政治動向に触れ、「これから国はどうなるのか。権力者の考えによって私たち国民の思いとはかけ離れた方向に進んでいるようで心配している」とのべ、「73年間も戦争のない国から戦争をする国に変貌しようとしている。多くの国民の声を無視した安保法制、憲法改悪の動きなど、とても民主国家とはいいがたい。だからこそ戦争反対、核兵器廃絶と平和の大切さを訴える原爆と戦争展の役割は重要だ」と確認し、広島と長崎が被爆地として力を合わせることを訴えた。

 

 大松氏は「昨年、国連で核兵器禁止条約が採択されたが、原爆の悲惨さ、戦争の愚かさを語り続けてきた被爆者の思いが、平和を願う世界の人人を動かしたと確信している」とのべた。そして、「日本国内では、岩国や沖縄の米軍基地の拡大、また唯一の被爆国である日本政府が核兵器禁止条約に反対するなど、被爆者の願いとはかけ離れた方向に進みつつある」「Jアラートを鳴らして地面に伏せたり、建物の中に逃げ込む訓練などで国民を守れるはずがない。戦時中のように政府のウソにだまされることのないよう、若い世代に真実を伝えていくことが大事になっている」と連帯の言葉を寄せた。

 

 続いて、長崎市民を代表して発言した被爆者の岩崎廣子氏は、「原爆では、長崎大学病院に勤めていた姉と両親が亡くなっている。この原爆展は、忘れてはならない経験を孫や子どものために伝えていくすばらしい展示だと思う。これからも続けていきたい」と抱負をのべた。

 

 同じく遺族の宮地孝敏氏は、「父親が出征した太平洋のタラワ島で全員自決によって玉砕した。戦後は死ぬほど貧乏し、農家なので現金収入がなく4歳の頃には電線を切られた記憶もある。叔父も満州からビルマ戦線に回されてインパールで膝に弾が貫通するケガをして帰り、叔母が最後まで介護した。叔父は亡くなる一週間前に“戦場では上官からの命令で中国人を刺し殺した”と吐き出すように語っていた。政治の都合で国民を異国に送り出し、癒えることのない憎しみを生むのが戦争だ。数日前にトランプが“宇宙軍の創設”というふざけた宣言をしていたが、宇宙はどこの国のものでもない。まるで犬猫のような侵略や略奪の時代はもう終わりにしなければならない」と力強くのべた。

 

被爆者や子連れの親、県外や海外からも参観

 

 会場には、被爆者から子連れの親たち、大学生、高校生、外国人など幅広い参観者が訪れている。

 

 近隣の町内から集団で訪れた婦人は、「被爆したのは2歳の時だから記憶はないが、5人兄弟のうち3人の兄が原爆で死んだ。長男は全身火傷で2週間後に亡くなった。私も母の背中に負ぶわれて爆心地に親戚を探しにいったので髪の毛が全部抜けたと聞いている」とのべた。

 

 一緒にいた婦人は「1歳の時、爆心地から1・5㌔の住吉付近で被爆したが、爆風で壁に叩きつけられたと聞いている。小学生になると授業中にABCC(原爆傷害調査委員会)がジープで迎えに来て、被爆した児童は授業を抜けて調査に連れて行かれた。そこでは裸になって布きれを一枚着せられて、写真を撮ったり、採血され、帰りにはチョコレートをもらえた。そのときはうれしかったが、あとから米国の実験材料になっていることがわかった」とのべた。「昨年から長崎市の上空も夜間に軍用機が低空で飛んでいく。とくに北朝鮮のミサイル問題が起きたときは頻繁に飛んでいた。被爆体験はないが、夜に飛行機の音を聞くと寝ていても目が覚めるほど体に染みついた恐怖がある。日本は被爆国として絶対に戦争をしないこと、核兵器を廃絶することを世界に訴えるべき」と語気を強めた。

 

 別の婦人被爆者は「軍や政府の中枢は、原爆が落とされることを早くから知っていたのに国民には伝えなかった。長崎でも“新型爆弾”というだけで原子爆弾であることを教えず、しかも投下直前に空襲警報を解除したので、一番効果的な状態で原爆が落とされた。戦後を見越して、裏では取引がされていたのだと思う。東条英機だけでなく、財閥も官僚も同罪なのに何の責任もとらずに生きのびたことが許せない。今も平気でウソをいって国民をだましている」と怒りを込めて語った。

 

 79歳の婦人被爆者は、「当時、川平(爆心地から3・6㌔)に家があった。山があったので爆風で傾いただけですんだが、下の方にあった叔母の家は燃えてしまった。わたしの姉は当時19歳で、動員で三菱兵器で働いているときに被爆し、下敷きになって助けだされた。姉のすぐ近くにいた人が亡くなっている。姉はその後、体のなかから何年もの間ガラスが出てきていた。姉はジープにのせられてABCCにも連れて行かれた」と話した。


 また「夫は10歳のとき、本原1丁目の家の近くの川で6歳の弟といっしょに泳いでいたので助かった。でも4歳の弟は即死だった。畑にいた両親は、生きていたのは1週間くらいだった。山里小のグラウンドで火葬した。夫の兄は三菱製鋼所で被爆し、両親の実家のある佐賀県に列車でむかっている途中で亡くなった。その後、夫はカトリック系の養護院にあずけられて辛い思いをしたようだ。でも養子になった六歳の弟は食べるものもなくて苦労したので、養護院はまだ食べ物があったのでよかったと話していた。その弟は白血病で亡くなった。夫は詳しいことはいわなかったが、辛いことを思い出したくなかったのだろう。二度と戦争を起こさないためにも伝えていくことが必要だ」と涙をこらえながら話した。

 

 当時の体験を絵に描いていることを明かす被爆者も訪れ、「後世に伝えていくためにぜひ展示に提供したい」と申し出ていった。

 

 被爆2世の来場も例年以上に多く、「これまで目を背けてきた原爆について私たちが受け継いでいかなければいけない」「病気が増え始めて、両親が被爆者であったことを最近知った。他人事や昔話ではなく、今も続いている問題として学びたい」「祖母の腕にはケロイドがあったが、体験を聞くこともできずに亡くなってしまった。孫の私たちがもっと勉強しなければいけない」などの感想を語り、賛同協力を申し出た。

 

 高校生や大学生が被爆者の話を聞きに訪れ、「これまで被爆体験を聞いたことがなかったので、次の世代に伝えるためにも学びたい」「本や教科書だけでは分からない被爆者の方の気持ちを知ることが大切だと感じた」と感想をのべていった。

 

 また、県外や海外からの参観者も多く、「経済不況から戦争に突入していった事実は、今と重なり説得力がある。日本は米国に占領され、今もその支配が続いている。日本の政治が劣化しているのはそのためだ。安倍首相の発言もすべてトランプの演説の猿まねで自分の頭では考えていない」(東京都・退職大学教員)、「情報がとても明確で理解しやすいものだった。とりわけ第2次世界大戦のはじめの段階がとても興味深い。これまで戦勝国側の論理しか聞いてこなかったので、戦争終結のためではなく、戦後の覇権のために原爆を投下したという内容は衝撃だった。世界がふたたび戦争に向かうことを危惧している。再びこの悲劇が起こるのを防ぐためにも過去に学ぶ必要がある」(イギリス人女性)とのべ、英訳冊子を求めた。

 

会場で被爆者の体験を聞く高校生

アンケートより

 

 ▼他界した母が被爆者でした。母から当時の話は聞くことなく過ごしてきました。自分より若い世代に原爆、戦争について語り継いでいける知識がほとんどないことを痛感しました。交流会等に参加したり、もっと自分で理解を深めることができればと思います。(49歳、女性会社員)

 

 ▼戦争の実際を知りました。あまりにも悲惨で、二度と起こしてはならない。このような活動をぜひ続けてもらいたい。母は西上町で被爆。叔父は三菱工場で被爆。父は少年飛行兵でした。戦争体験者ですが、みな当時のことを話すことがありませんでした。教えていただきありがたいです。(女性)

 

 ▼正直戦争は怖いし、苦しいから行くか迷いました。だけど、長崎市民として、また、平和が続いて欲しくて、行こうと決めました。展示されているものを見て、本当に心が痛みました。今まで戦争の絵や写真に目を背けてきました。しかし、戦争があった事実と向き合おうと思いました。被爆者の方のお話も聞き、私の祖父母は被爆をしていないので、貴重な経験となりました。私は将来は教師になりたいので、子どもたちに伝えたいです。二度と戦争が起こらないようにと思います。(16歳、女子高校生)

 

 ▼戦争をさせられるのは、庶民そして弱者。戦争体験者がいなくなってしまったら、遠くない将来、また戦争が起こる気がします。くだらない軍事に大金(血税)を投入するくらいなら、福祉とかに回すべきだと思う。怖いのは若い世代。危機感が欠片もなく、そして感化されやすい。若者たちが殺し殺される惨めな目に遭わないでほしいと願います。(45歳・女性会社員)

 

 ▼長崎市民でありながら、悲惨な原爆・戦争のあった歴史について目を背けてきたように思います。時には直視することができないような写真もあり、改めて平和の大切さを実感しました。(33歳、公務員男性)

 

 ▼こんなにも、ここにも、あそこにも日本国中に戦争の犠牲者が溢れている。胸が潰れそうになりました。自分の母も、昭和19年に赤紙で召集され昭和22年にルソン島に着いたとの父のハガキをもらった後、20代の未亡人として婚家先の両親と幼子3人を育て上げました。その母も今は亡く、口癖が「戦争さえなければ…」でした。時は流れて今日、大ウソつきの人をリーダーに持ち、なしくずし的に平和の有り様を壊されても、気づかないで「憲法は変えた方がよい」という国民が多いことにも胸が潰れそう。沖縄をはじめとして、理不尽な政治に腹が立つばかり。(無記名)

 

 ▼戦争を知らないものですが、絶対に人と人との殺し合いはダメ。一日も早く真の世界平和が来るように、今、生きている私たちが、子どもや孫のために平和実現を。今、世界の動きがおかしい。被爆国日本、広島、長崎がその先頭に立たなければダメだ。(70歳・男性)

被爆体験を学ぶ大学生

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