いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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「広島と長崎」福田正義 原爆反対切り拓いた路線

力ある平和運動結集のために


 広島、長崎への原爆投下から61年目の夏を迎える。「瞬時に街頭の3万は消え、圧(お)しつぶされた暗闇の底で、5万の悲鳴は絶え」、外傷はないのにつぎつぎに死んでいく。この史上もっとも凶悪な兵器である原爆をまともに投げつけられたのは日本人だけであり、それを投げつけたのはアメリカだけである。それから60年もたった現在、日本はますますアメリカの植民地として縛りつけられ、あろうことかアジアとこの日本の国土をまたも原水爆戦争の火の海に投げこもうというたくらみがすすんでいる。「国民保護計画」といって、原水爆攻撃を想定した訓練をやり、米兵は核シェルターに逃げ込んだり、家族ごと国外退去する訓練をやろうとしている。米軍再編といって、核攻撃態勢を強め、朝鮮、中国、ロシアなどとの原水爆戦争を挑発している。日本の政府は、アメリカの傀儡という性格を露骨にし、軍事も政治も、金融、経済、財政、行政、教育、文化も、アメリカの植民地状態となっている。そしてこのなかで、既存のいわゆる「原水禁運動」「反核運動」なるものへの批判とあわせて、「原爆と峠三吉の原爆展」が広島、長崎の本音を代表するものとしての、衝撃的な反響を広げてきた。これを導いている路線は、1950年の8・6平和斗争の路線である。広範な各界の人民を1つに結びつけ、原水爆戦争を押しとどめる力をつくるためには、さまざまなインチキ路線と一線を画して、この路線を体現した意識的で献身的な勢力を結集することが切実に求められている。当時の原爆反対のたたかいを指導・組織した福田正義本紙主幹が1962年にこのたたかいの教訓について明らかにした「広島と長崎」を再度掲載し、真に大衆を団結させて、米日反動勢力の手足を縛り上げて、原水爆の製造も貯蔵も使用も禁止させる意識的な平和の推進勢力の結集に役立てたい。

 

       ◇       ◇

広島と長崎  原爆投下について思うこと

                 福田正義 (1962年4月15日掲載)


 人類の歴史のうえで、いかなるものよりも凶悪な兵器は、原水爆である。この原爆が、人類史上最初に投下されたのは広島と長崎である。そしてそれだけである。つまり日本人だけが、日本の幾十万の非戦斗の老若男女だけが、この凶悪兵器をまともに投げつけられ、一瞬にして幾十万が命をうばわれ、さらに、幾十万がいえることのない傷痕(しょうこん)をうけて、つぎつぎに命をちぢめていっているのである。


 1,原爆による人民虐殺の暴露


 原爆をうけた広島の詩人・峠三吉は「8月6日」と題して、つぎのようにうたっている。

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の3万は消え
圧しつぶされた暗闇の底 で
5万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯(はて)しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿(のうしょう)を踏み
焼け焦げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏(いかだ)へ這いより折り重った河岸の群も
灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり
兵器廠の床の糞尿のうえに
のがれ横たわった女学生らの

太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ1群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで
金ダライにとぶ蝿の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂(せいじやく)が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!

 この情景は、広島も長崎もおなじであろう。

 ところで、峠三吉のこの詩は、広島のアカハタ中国総局が発行していた新聞『平和戦線』の特集号にのせられたもので、このとき、日本ではじめて原爆の残虐さが6枚の写真グラフによって公然と発表され、峠の詩はこのグラフに組みこまれたものである。1950年6月9日付である。これと同時に、この新聞は「市内八丁堀横に掲示された『原爆の惨状』の写真展は、肉親をなくした市民によって毎日黒山のように人を集めている」と、原爆写真展がはじめて街頭でもたれたことも報じている。また「平和署名は広島造船、全逓、広島電鉄をはじめ労組青年部を中心に大きく広がり、28日すでに1万名をこえている。5月28日の県労総会では、8月6日を、反戦斗争デーに決定、県下労組を中心に民主団体によびかけ、平和擁護人民大会が着着準備されている」こと、さらに山口、岡山、鳥取などでも8月6日に平和大会をひらく準備がすすめられていることを報道している。
 さらに重要なことは、この新聞は、アメリカの原爆投下をはげしく攻撃し「ノーモア・ヒロシマを、原爆都市広島、平和祭をと浜井広島市長らが世界にむかって唱えるお祭り的、猟奇的な合言葉にすることに反対し、真に戦争の犠牲者市民の平和斗争の合言葉にしよう。『戦争反対・原爆禁止』のたたかいこそが原爆で死んでいった幾十万肉親の霊をなぐさめる唯一の道である」 と書いている。戦後わずか5年にして、アメリカ帝国主義の戦争計画の進行と日本の加担を、この新聞は「戦争反対・原爆禁止」と結びつけて暴露しているのである。

 2,広島の人々の胸の中に渦巻く原爆への怒り


 戦後の広島には、原爆の荒涼たる廃虚の上に、アメリカの教会、ABCCと称する原爆患者のデータを集めるための機関などがつぎつぎに建てられ、そこばくの情けが同情みたいなかたちでそそがれた。原爆ドームと称されている爆心地に記念の木札がかけられたり、何か「名所」みたいなあつかいがアメリカ占領者によって意識的にやられていた。この辺までは、広島は長崎と全くおなじ情況であったということができるだろう。
 廃虚のあとに、苦しい再建をつづけている生き残った人人のなかには、原爆への怒りが渦巻いていた。語っても語っても語りつくせないものが胸のなかにあふれていた。1948年ごろ、私たちは、広島の街のなかで、まるで知らない誰にでも原爆のことで話しかけると、忙しい仕事を忘れて、果てしもなく、当時の模様を話しこんでくるという事実に例外のないことを知らされるのに時間はかからなかった。
 しかし、表面は、それは何にもあらわれなかった。「広島は平和再建にいそしんでいる」といった調子のマスコミにおおわれていたのである。
 「日本軍閥の無謀な戦争に終止符をうち、本土焦土作戦から幾千万日本国民の生命を救うためにやむを得ぬ手段として原爆は投下された」という宣伝が、広島を空の上から抑えつけてまかりとおっていたのである。そして、「ノーモア・ヒロシマ」というのが「日本人は犯罪をくりかえしてはならない」というひびきでおしつけられ、それがアメリカ製の教会に結びつけられてゆくという手順であった。
 しかし、なぜかくもむごたらしい兵器で親兄弟や妻子を虐殺しなければならないか、という広島の市民たちの怒りをごまかしきるわけにはいかないのである。人類史上かつてない残虐さで大量の無辜(こ)の人民を殺し地獄絵を現出したという事実をかき消すことはできないし、それを説得することはできないのである。広島の市民たちは、占領軍として入ってきたアメリカ兵たちを、原爆投下者であることと切り離してみるわけにはいかなかったのである。このことも、長崎とおなじ事情であっただろう。

 3,日本帝国主義の戦争犯罪とアメリカ帝国主義の原爆投下・日本占領の野望の糾弾


 当時、労働組合など民主団体でも、この問題を公然と市民の納得のゆく立場で解明するものはいなかった。それは、アメリカ占領者にたいする理解のあいまいさという、全国的に共通したものと関係があった。
 1949年後半から、この問題が日本共産党中国地方委員会で次第に明確なかたちをとりはじめた。1950年になると、公然と、原爆投下者の許しがたい犯罪として訴えられはじめた。これは、広範な人民に切実なひびきをもって伝わっていった。アメリカには、日本に原爆を投下する理由は何1つなかった。原爆のような兵器をつくることそのことが許しがたい犯罪である。原爆投下は、戦後日本占領の主導権をにぎるためのもの以外の何ものでもなかった。そのために、幾十万の日本人民を虐殺することを辞さない帝国主義の残虐性は、人類の名において断固として糾弾されなければならないのである。
 戦後の民主主義運動、わけても平和運動は、2つの問題を明確にしなければならなかった。
 1つは、日本帝国主義の戦争犯罪を徹底的に糾明し、ふたたび日本が戦争へむかってすすむことを断固として防がねばならないこと。
 1つは、戦後日本を占領したアメリカ帝国主義の野望をあきらかにすること。
 日本帝国主義の戦争犯罪の追及は、民主陣営によって鋭くされていった。しかし、アメリカ帝国主義の野望については、十分にあきらかにされなかった。とくに連合国としての一翼にあったアメリカ帝国主義の位置と、日本帝国主義敗戦後のアメリカの位置とその対日政策が、基本的に明確でなかったのである。
 このことが、アメリカ占領者の原爆投下についての弾圧と欺瞞(ぎまん)政策とあいまって、問題をきわめてあいまいにしていたのである。2・1スト禁止にはじまる占領軍の人民運動にたいする露骨な弾圧と、吉田政権を支援しつつある日本独占資本の育成政策、わけても日本を主要な基地としてアメリカ帝国主義の反共軍事侵略政策にしたがわせつつ軍国主義を次第に復活させていった政策は、民主陣営のなかで次第に大きく問題になりはじめたが、それが明確な科学的な規定をうけるにはなお若干の日時を必要とした。
 これらのことの不明確さは、実感としてアメリカによる原爆投下=非戦斗員の大量虐殺という事実に許しがたい怒りをもちつつも、それに抗議することが歴史的に積極的な意義をもつかどうかをはかりかねることにした。アメリカ占領者が、日本の民主化の担い手であるとしたら、日本帝国主義の無謀な戦争の結果として発生した原爆の投下は、日本帝国主義の負うべき責任である、と一面的にみる考え方もたしかにあった。「戦争に協力した」 という自責感も、これらのことを明確にするのを妨げた。
 しかし、人民大衆をごまかすことはできなかった。無辜の老若男女の大量虐殺という厳然たる事実を、どうしてかき消すことができようか。いかなる理屈も大衆には無意味であった。
 日本共産党中国地方委員会は、日本帝国主義の無謀な侵略戦争の犯罪を、あきらかにしつつ、アメリカ帝国主義が戦後の日本を支配するために、ソ連の参戦であせって原爆を投下したこと、それはあきらかに日本にたいする帝国主義的侵略が目的であり、単一支配を狙ったものであること、またそのために史上例をみない非戦斗員の大量虐殺をやったことは、人類の名において許すことのできないことであることを、全中国地方の人民に訴えた。また、訴えは、吉田内閣がアメリカ帝国主義の支配下に軍国主義復活をしはじめ、日本をアメリカの軍事基地としていることを鋭く指摘した。
 同時に、平和擁護の諸組織を工場、経営、学校、病院、地域、農村のあらゆるところにつくり、アメリカ帝国主義の原爆による大量殺人に抗議し、原爆製造を禁止させるために立ち上がることをよびかけ、前記のように原爆被害の写真を日本ではじめて公開し、8月6日を平和大会にするよう訴えたのである(念のためにいえば、アサヒグラフが原爆写真特集を発行したのは、この写真の公開が突破口をひらいて、たしか2年後であった)。
 この共産党の訴えは、たとえようもない怒りを屈折して胸にいだいていた広島を中心とする原爆被害者、目撃者をはじめ、広範な民主陣営に、まるで乾いた土が水を吸いこむようにうけいれられた。
 1950年3月中旬にストックホルムでひらかれた世界平和擁護大会常任委員会総会が採択したアピールはこの方針に一致しており、したがって熱烈に支持され、アピール署名運動が組織活動と結びついてすすめられた。ストックホルム・アピールはつぎのような内容であった。
 「われわれは侵略ならびに人民の大量殺戮(りく)を目的とする兵器としての原子兵器の無条件禁止を要求し、この実施のための厳正な国際会議を確立するよう要求する。
 われわれはいかなる国にたいしても、これを最初に使用した政府を戦争犯罪人と考える。
 われわれは全世界の善意の人人がこのアピールに署名するよう要請する」
 1950年(6月25日)は、アメリカ帝国主義による日本を基地としての朝鮮侵略戦争が開始された年であり、戦争と平和の問題は、きわめて鋭いものであった。
 こうして、共産党中国地方委員会を先頭とする原水爆禁止・反戦平和の運動が、労働者を中心にして全中国地方において火ぶたを切られた。この運動は広範な影響をよびおこした。この運動のなかで、たとえばその年の7月25日に広島造船労働クラブでひらかれた中国地方青年代表者会議(全地方の労働組合青年部と民主的青年組織21団体、40数名出席)は、白熱的な討論ののち、いままでの活動のなかにあるあやまりを認め、①反帝反戦斗争を基本とし、日常的斗争はその一環であること、②経済主義的斗争をあらため階級的宣伝と国際的連帯性を強化すること、③朝鮮民族解放斗争を支持する態度を明確にし、これを行動に移して共通の敵とたたかうことを決議している。
 また8・6の前日、8月5日に「青年平和大会」をひらくことをきめているが、大会のスローガンは、つぎのとおりである。
 ①原子兵器の禁止
 ②最初に原子兵器を使用する政府を戦犯とする
 ③民族独立を実力でかちとれ
 ④朝鮮に原爆を使うな
 ⑤青年を肉弾にする戦争反対
 当時の新聞『平和の斗士』は、この大会に広島造船青年部は半日ストで、広島電鉄は1日ストで参加することを決めたことを報じている。

 4,平和への祈りと無抵抗主義、暴力への屈従


 新聞『平和の斗士』がでたついでに、この新聞の50年8月3日の論説をみると「中立主義を粉砕せよ」と題してつぎのように書いているのは興味がある。
 「はなはだ遺憾なことに広島の平和擁護委員会実行委員会のなかに、国際的連帯性をもっているこの斗争をたたかうことににわかに反対しはじめた人人がいることである。彼らは『平和論者』の立場から一応、原子兵器に反対しながら、ストックホルム・アピールにも反対する。彼らの中立主義こそ、ソ連を先頭とする世界平和愛好勢力との連帯を拒ませるのだ。
 中立主義者の平和への祈りは無抵抗主義であり、暴力への屈従の道にすぎない。国際帝国主義にとってもっとも恐るべきことは、平和を愛する人人が国際的連帯性をもって組織されることだ。この連帯性を打ち破るために、戦争放火者どもは中立主義的平和論をふりまくのであり、大衆を中立主義にとどめるために新聞、ラジオその他あらゆる機関を使ってソ同盟、共産主義、進歩と民主主義にたいする憎悪を挑発するのである。戦争放火者を助ける中立主義の粉砕なくしては、全世界平和擁護運動の陣列を強化することはできない。
 きたるべき8・6平和斗争を、中立主義者の『平和祭』に終わらせぬために、中立主義を粉砕し、世界平和擁護戦線の陣列にすべての勤労人民を結集する一大カンパニアとしなければならぬ。
 真の平和運動はドルのカーテンの内部においては決して生やさしいものではない。しかし犠牲にひるまぬ果敢な行動によってのみ平和はたたかいとることができるのである」
 これが、1950年、第1回8・6平和大会となった年のことであることは、何とも今昔の感にたえない。そして、それらが内部の敵であった。外部の敵は、8月6日の3日前、広島平和擁護委員会からだされた平和大会許可願を拒否し、大会をあくまでおこなうならウィロビー少将の覚書に抵触すると「警告」を発した。

 5,第一回8・6平和大会-アメリカ帝国主義と日本の反動支配者との断固とした献身的斗争


 それが第1回の「8・6平和大会」となった1950年の8月6日は、平和の敵を恐怖させ、彼らは恥も外聞も忘れて公然たる弾圧をもってあらわれたことで、歴史に残るものとなった。
 中国地方全域にわたって、8月1日の国際反戦デーにはじまった平和擁護週間は、8・6を頂点としてもりあがっていった。こういう情勢に、アメリカ占領者がどんなに恐れあわてたかは、つぎの事実がしめしている。
 彼らは、平和大会を禁止しただけではない。広島では、平和と名のつく、一切の集会を禁止した。ユネスコの集会すら流され、例年欺瞞的におこなわれていた式典もとりやめた。そして彼らは「8月6日は日本人民の反省の日とする」といった。
 平和擁護実行委員会は「暴圧にたいしては断固たたかう」という声明を発し、弾圧反対の抗議斗争をよびかけるとともに、プログラムどおりに準備をすすめた。
 当日前後の模様を、新聞『平和の斗士』によってみよう。
 「事前に市警は数万の弾圧・脅迫のビラを警察号外として配布し、ラジオは3日間にわたって3時間おきの脅迫放送をやり、当日は全県から2000の警官を動員し、さらに千余の警官を待機せしめた。彼らのいう『平和都市広島』は、何千の武装警官によって街頭を固められた戦時的状態を現出した。しかも、平和集会がもたれるや『暴動が起こった』というデマ放送をやり市民の不安をそそった」
 このような状況のなかで、4日夜には前夜祭がもたれ、5日にはブロック別の総会と中国地方青年平和会議がひらかれ、かくて6日当日は、「全市くまなくはりめぐらされた厳重な警戒網と入りみだれる私服、挑発者の暗躍のなかで、広島市を中心とする中国5県の平和の斗士たちは、午前11時半に目貫通りの八丁堀、12時半には広島駅前で8・6反戦平和大会を開催した。
 八丁堀大会では約500名が参加し、福屋デパート階上よりアピールを記載したビラ数千枚がまかれ、断固として戦争挑発者とたたかえという演説がおこなわれた。駅前広場では約600名が大会をもち、宣言を採択、平和擁護大会万歳を3唱して猿こう橋までかけ足デモをおこない『帝国主義者の戦争挑発反対、日朝人民の提携万歳』を叫んで散会した」(『平和の斗士』から)
 まさに戒厳令下の無気味な様相を呈していた。そのなかに、何台かの高級車にのった外国人数名が、あっちこっちに車を止めて、キリスト教の宣伝と「平和の祈り」「日本人の反省」を書いたゼイタクな刷りものを配っていたのは、まことに奇妙であった。武装警官は、原爆ドームといわれる爆心地を中心にほとんど5メートルから10メートルおきに警戒網をはって、5年前の深刻な忘れえぬ苦痛の思い出をいだいている市民を威圧していた。原爆で殺されたものは、ほとんど墓も何もないのに。
 しかし、弾圧を恐れることなく決行されたこの平和大会は、事態の進行のうえできわめて大きい成果となった。日本人民のうえに投下された原爆を糾弾し、原爆の禁止を訴え、戦争反対を主張することは、アメリカ占領者とのはげしい斗争として出発したし、せざるを得なかった。第1回8・6大会はその過程で、アメリカ帝国主義の原爆投下の犯罪を日本人民に暴露し、彼らがやっているインチキな「平和宣伝」の仮面をひきはぎ、原爆被害の隠蔽(ぺい)と発表禁止のワクを打ち破った。
 そして、帝国主義こそが戦争の元凶であり、侵略のためにはいかなる残虐も眉ひとつ動かさずにやってのける種類のものであることをあきらかにした。戦争と平和のあいだに中立がないこと、「平和都市ヒロシマ」「平和の祈り」といった調子の彼らのまやかしの正体もきわめてあきらかにした。このなかから平和運動は、燎原の火のように広がっていったのである。
 このことは、その翌年の8・6平和大会に正しくあらわれた。平和運動の規模ははるかに大きなものになり、広島を中心とする平和・民主の諸組織(16団体)がよびかけて、全国平和会議をもつことに成功した。それには、中国地方を中心に、関西、九州、四国、名古屋、東京など各地から140団体を代表する1500名が集まった。来賓の挨拶と全国各地からのメッセージだけでも50団体をこえた。
 平和の敵は1歩退かざるを得なかった。もはや、8・6平和大会を禁止するなどということはできなくなったのである。同時に、広範な市民による8・6記念祭も公然と大規模でもてるようになった。8月6日を中心とする平和行事は、数えきれぬほど多くの団体によってもたれ、それが8・6大会に結集していった。
 私は、平和運動全般にわたって書くつもりはないのでここではふれないが、しかし、この年の3月3日、山口市周辺の十数団体で「平和の斗士団」が結成され、また中国地方の各地でも結成がすすみ、4月15日、広島で中国地方平和の斗士団大会が336名の代表でもたれ「8・6を全国的な一大平和カンパニアにしよう」という決議をしたこと、7月7日には山口、広島、岡山の40労組の代表140名が広島造船労組に集まり「再軍備反対中国地方労働者会議」をひらき、そのなかで「8・6平和大会を労働者が先頭にたってたたかう」ことを決議し、全中国地方の労働者にアピールを発したことなどは、運動の拡大と強化のうえで原動力となったこととしてしるしておく必要があろう。
 8・6平和大会は、そのはじめから帝国主義との斗争であった。広島、長崎への原爆投下という犯罪を暴露し抗議を組織しただけでなく、その後の帝国主義の戦争計画を暴露し抗議と実力をふくむ斗争を組織した。たとえば、第2回大会 (51年) はつぎのような「広島からのアピール」を決議している。

 平和の敵の弾圧と妨害 のなかから、広島に眠 る24万の声なき人人 のねがいにこたえて

 いま日本の支配者は、日本を再軍備し軍事協定を締結し、日本を永久に外国軍の掌中にゆだねるたくらみをもってサンフランシスコ講和会議をひらこうとしている。
 われわれがこれを許すならば、世界の平和は脅かされ、日本民族は永久に屈辱の歴史をたどるであろう。
 広島の悲劇をくりかえさぬことをねがい、原爆の日を記念して、広島に結集した全国の平和擁護者は、世界の恒久平和と民族の独立をもとめる全人民諸君に訴える!
 平和を脅かし民族を滅亡に導くサンフランシスコ会議に反対せよ!
 米ソ英中の四国外相会議にもとづく全交戦国参加の対日講和会議の即時開催を要求せよ!

 採択された「決議」は「世界がふたたび広島の悲劇をくりかえさぬため、原爆の使用は永久に禁止されねばならない」にはじまる平和擁護の実践的諸課題をあきらかにしているが、ここではふれない。決議が最後をつぎのように結んでいることは、きわめて印象的である。
 「この会議は平和の敵の執拗(しつよう)な弾圧と妨害のなかで、140団体が正式に代表を送ったほか1500名の平和擁護者を集めて決行された。
 平和擁護者の固い団結を何ものも妨害し弾圧しさることができないことを、この会議は実証した。
 われわれは、この会議の成果に立ち、平和と独立のためこの決議を実践し発展させることを、広島の地下にねむる24万の声なき人人に誓うものである」
 この大会から、8・6平和大会は全国的規模となり、広範な人民の支持のもとに合法性をたたかいとったのである。

 6,広島における平和擁護の行動的で戦斗的な斗争と闘争課題ー原水爆禁止・朝鮮戦争反対・サンフランシスコ片面講話反対・世界の平和擁護運動との連帯


 こうして広島における平和擁護の斗争は
 第1に、広島・長崎に投下された原爆の犯罪の糾弾と、原水爆の禁止
 第2に、折からアメリカ帝国主義によって仕組まれすすめられていた朝鮮戦争にたいする反対斗争
 第3に、日本をアメリカ帝国主義のくびきにしばりつけるためのサンフランシスコ片面講和に断固として反対し全面講和を結べという斗争
 第4に、全世界の平和擁護の運動との強い連帯ということを中心的な課題として、その火ぶたを切り、発展していった。前にも書いたように、このような課題をもって運動が展開されるには、アメリカ占領者と日本の反動支配者との弾圧の壁を打ち破らなければならなかった。漠然とした抽象的な「平和への願望」「平和への祈り」というふうなことでは、アメリカ占領者は、まるで、「平和の守り手」であるかのように振舞っていた。しかし、平和運動が、具体的で実際的なかたちをとるや、驚きあわてて彼らが平和の敵であり戦争挑発の張本人であることを露呈せざるを得なかった。ことに、朝鮮への侵略戦争に血道をあげていたアメリカ占領者は、戦争ヒステリーぶりをかくしもしなかった。1952年の8月6日、すでに一般市民の「平和祭」もおしつぶすことができなくなるや、この「平和祭」に、30数名の朝鮮爆撃何10回以上という「血にまみれた勇士」をヒナ壇に参加させるというような、馬鹿か気狂いでなければやれないことを平気でやってのけた。
 この運動の中心には労働者、農民、文化人、宗教者たちが立った。中国地方の全域に工場、職場、学校、地域、農村に運動の中心的な推進者としての「平和の斗士団」ができ、そのまわりに「平和委員会」が組織された。平和を行動で守ってゆくためには、組織の中心はフンワリしたとりとめのないものではいけなかったし、いわゆる知名士の集まりだけでは無力であった。運動は多面的で広範に広がらざるを得なかった。各地で平和集会がもたれたが、多くの集会がしばしば警察の弾圧をうけた。日本の警察は、平和を守るための日本人の運動に、アメリカの指令で襲いかかった。また、日本の支配層がする朝鮮戦争への協力ともたたかわねばならなかった。行動的で戦斗的な平和の擁護者たちは、軍事生産、軍需物資の輸送を実力で阻止するたたかいも勇敢に展開した。これらの平和運動のなかで、弾圧によって逮捕されたものも多くでた。
 このような平和擁護運動の発展は、広範な人人の支持をうけ、アメリカ占領者と日本の反動勢力もそれを抑えきることはできなかった。1950年8月6日に、武装警官の包囲のもとにひらかれた第1回の「8・6平和大会」以後年ごとに、8月6日の平和祭も広範な人民を結集していった。戦斗的な活動者たちの平和運動は、それまで、自分の肉親を原爆で殺されながら、その遺体をみつけることもできなかったものや墓ももてない多くの人人、どこにその怒りを訴えようもなくまるでうずくまるように心のなかにしまっておかざるを得なかった人人が、8月6日には、爆心地に集まっていった。それは、1950年8月6日以後年ごとに、急速に、その数をましていった。
 原水爆に反対し、戦争に反対する運動は、戦斗的で行動的な平和擁護者の運動を中軸にして、広範に広がっていったのである。このような運動の道をきりひらいた中国地方の共産党の諸組織と党員および広範な平和擁護者の平和を守るための犠牲をかえりみぬ献身的なたたかいは、しるされておくに価いする気高く英雄的なものであった。
 数限りない多くの弾圧を、私はとてもここでは書ききれない。しかし、犠牲の先頭にはつねに共産党員と戦斗的な労働者がたっていたことは書いておかねばならない。
 さきにあげた中国地方委員会の機関紙『平和戦線』も、朝鮮戦争と前後して発行を禁止された。その後、1950年7月12日に『平和の斗士』が発行され、それは5日刊であったが、9月2日号を最後にして、工場が襲われ編集員が逮捕されて発行が継続できなくなった。その後継紙『民族の星』が発行されたのは同年10月10日で、これは1951年8月28日付まで、つまり不幸な共産党の分裂によって中国地方委員会が解散するまでつづいているが、当時、このような新聞の発行を継続することにはなみなみならぬ努力が重ねられたであろうと思う。これら3つの新聞が、全中国地方の平和擁護斗争を中心とする諸運動の発展のために寄与した力は絶大であった。このような新聞なしに、全中国地方的に運動を統一してゆくことは困難であっただろう。
 さて話をもとにもどそう。
 広島を中心とする原水爆反対の運動は、以上のような経過をたどって発展し、それは、その後、共産党の分裂によって停滞した。しかし、人民のなかに深く根ざし、広範に広がった「8月6日」をかき消すことはできなかった。1952年以後も、いわゆる「8・6大会」は規模の大小はあれ、たたかいつづけられていった。1953年の大会でも、7000名のものが結集しデモ行進をした。
 こうして、1950年いらいの広島を中心とする平和擁護斗争は、全国的な規模をもち、平和運動が具体的で実際的な力をもち、かくて、1955年、8月、第1回原水爆禁止世界大会が広島でもたれるようになるのである。それまではすべての国際的な平和大会は、ヨーロッパでもたれていた。
 1950年いらい、広島の平和擁護委員会は、長崎の諸組織にたいして共同斗争をしばしばよびかけた。51年の大会には、長崎からも代表は参加し、その後も交流はつづいているが、しかし、長崎では、基本的に50年以前の状態が永くつづいた。長崎ではアメリカ占領者のごまかし「平和の祈り」方式を成功させていたのである。永井隆などを利用しての、いわゆる「平和主義」は、アメリカ占領者のねらいであった。広島と長崎という世界で2つしかない原爆を投下された2つの都市で、事態は全く異なって発展していったという事実は、平和運動を考える場合に、具体的な経験として重要なことであると思う。
 今日、平和擁護の斗争、わけても凶悪兵器=原水爆禁止の問題は世界的課題である。これを有効にたたかってゆくためには、広島を中心とする経験、それが日本の平和運動の端緒でもある経験は、正しく学びとられる必要があるだろう。
 とくに、1950年以後新しい平和擁護の斗争が広島を中心にして発展し、それが世界大会を広島で継続してひらかれるようになった運動の歴史的事実をみない傾向が、平和運動にたずさわっているもののなかにすらあることは、運動を正しくすすめていくうえで、大きなマイナスである。今日の原水協の諸組織がはらんでいる問題、さらには平和擁護斗争全般がもっている理論上、組織上の問題に、この小文ではふれることができなかったが、平和運動の中心問題を検討するうえで、歴史的な事実を避けることはできないし、避けないことで正しい結論を導きだし得るのである。現実に、1950年以後の平和運動の伝統は、今日中国地方を中心として大衆のなかに生きているのであり、生きつづけるであろうからである。
 私は、できれば、原水協が官製的なひろがりをなぜもつようになったか、そしてそのひろがりを喜んでいるうちに原水協そのものが、多くの地域でなぜ力のないものになったか、というような歴史的な事情にもふれたかった。また、峠三吉のような詩人が、どのような平和擁護斗争のなかですぐれた詩人になっていったか、ということについて作品に即してふれたかった。今は、紙数がないので別の機会にゆずるが、動かすことのできない歴史の事実に注意を払われることに役立てば幸せである。

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