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長崎「原爆と戦争展」盛大に開幕 行動意欲強める長崎市民

 長崎市川口町の長崎西洋館で10日、長崎「原爆と戦争展」が開幕した。一昨年から2度の市民原爆展をへて開かれた今回の原爆と戦争展は、「被爆市民と戦地体験者の思いを結び、平和な未来のために語り継ぐ」をスローガンに、166人(5日現在)の賛同者をはじめかつてない市民の協力のもとでとりくまれてきた。それは、憲法改定、在日米軍再編、自衛隊の海外活動の本来任務化、国民保護法など戦時体制づくりが加速されるなか、また、地方自治の擁護やアメリカの原爆投下を市民の側から主張してきた伊藤前市長が銃殺されるという被爆地への圧迫のなかで、それを突き破って市民が被爆地長崎の意志を示そうという気迫に満ちた論議と行動をともなって進んだ。

 初日は400人の市民が参観
 市民世論の盛り上がりの中で迎えた開幕初日は、約400人の市民が訪れ、被爆者、戦争体験者たちが「2度と戦争を許さぬ」という強烈な思いを、次代に受け継ぐ熱気あふれる場となった。
 展示には、戦前から日中戦争、日米開戦、全国空襲、沖縄戦、原爆、敗戦から現代までを描いた152枚に及ぶパネルが並び、下関、広島から寄せられた戦時中の資料、長崎市民の体験記、被爆資料、原爆の絵などが加わって、第2次大戦の全貌と当時の生生しい実感が見るものに迫ってくる。

 高い意気込みの開幕式
 午前10時から、市民など約30人が集まり、開幕式がおこなわれた。
 はじめに主催者を代表してあいさつした原爆展を成功させる長崎の会代表の永田良幸氏は、「原爆展は今年で3年目になるが、私は一昨年、浜町で峠三吉の街頭原爆展に出合ったことから関わりはじめ、広島まで出かけてはじめて子どもたちに体験を語った。原爆のことは昨日のことのように覚えている。ありのままのことを話せば伝わる」とのべ、「下関、広島の方方の一生懸命さに触れて、もっと長崎の方が生の声をこれからの世代のために語ってもらいたいと思う。今回は戦争を体験された方もこられると思うが、ぜひ本当の生の声をみなさんに届けていただきたい。いま、日本がアメリカの植民地になっていること、原爆を投下されたことも、国が戦争を起こしたことからはじまっている。アメリカも2種類の原爆を使って人体実験をした。1人でも多くの市民、とくにこれまで語ってこなかった市民が本当のことを生の声で語ってもらいたい」と呼びかけた。
 つづいて、共催する下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長、原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長のメッセージが紹介された。
 伊東氏は、原爆と戦争展の開幕への喜びとともにこれは「あらたな戦争の気配を感じるいま、しかも、アメリカの核政策を批判してきた伊藤一長・前長崎市長が、凶弾に倒れるというなか」で、いまこそ平和のための運動を起こすことを求める「長崎市民の願いと要求に応えるもの」と強調。
 また、長崎で被爆市民と戦地体験者が思いをひとつにし、若い世代とも大合流していくことは全国を揺るがすものであり、それを通じて長崎の被爆者との絆が深まることは下関の被爆者にとってもかぎりない喜びであり、励ましになる」と連帯の言葉を寄せた。
 重力氏は、広島で「原爆と戦争展」を盛大に開催したことを報告し、伊藤前市長銃殺には「筆舌に尽くすことのできない憤りを覚える。私たち同志はいかなる圧力にも負けず、みんなで力を結集して平和運動の達成のためにがんばりましょう」と激励を贈った。
 金子原二郎・長崎県知事、田上富久・長崎市長のメッセージが代読された後、賛同者としてとりくみに関わってきた市民を代表して、中村博、山下諫男の2氏が思いを語った。
 中村氏は、「第3回目として原爆と戦争展がはじまったが、これも下関、広島の方方、長周新聞、キャラバン隊のみな様のご援助の賜とありがたく思っている。これを通じて、長崎市民が原爆、平和、戦争について考えることができれば幸いだ」と感謝をこめ、会期中は被爆者として尽力したいと意気込みを語った。
 15歳で被爆した山下氏は、「先日、下関からの修学旅行生にはじめて話をしたが、後継ぎはしっかりしていると心強く思った」こと、「そのなかで、当時アメリカとソ連は冷戦状態にあり、アメリカはソ連にもっと進んだ兵器を見せつけるために日本に原爆を使い、女、子どもに見境のない無差別攻撃を仕掛けたことを語った。日本には対抗する力はなく、三菱でもヤリの矛先をつくっているほどだったが、そんな日本になぜ原爆を使ったのかを話すと子どもたちは驚いていた」と感想をのべ、「今年の展示は、昨年と比べても充実したものになっており、成功を願っている」と期待をあらわした。
 各氏からの力溢れる発言に参加者からも強い共感の拍手がおくられた。

 世代越えた論議の場に
 開幕と同時に、年配者から親子連れ、学生などぞくぞくと市民が入場。被爆者や戦争体験者がおたがいの体験を交流したり、若い人に語りかける姿が目立ち、世代を越えた交流が広がった。また、原爆展を成功させる長崎の会の被爆者たちも、積極的に参観者に語りかけ、長崎の地から被爆市民の体験を語り継ぐ運動をともに進めていくことを呼びかけた。
 「私たちには経験を伝える義務がある。ぜひ、若い人に語りたい」と申し出た70代の男性は、16歳で海軍に入り、台湾、シンガポール、ジャワ、トラック島と転戦した経験を、会場にいた学生に語り伝えた。昭和18年に佐世保の相ノ浦海兵団に入団。「“軍人精神注入棒”という棍棒で腰を叩かれ、5寸釘を下に馬のような姿勢を取らされたり、ソロバンの上に正座させられたりの毎日だった。脱走兵は、捉えられて1週間以内に銃殺された。そういう人は死体さえ足蹴にされた。軍服にあこがれて、国のためと信じて志願しても、そんな有様だ。だからみんな最後は“お母さん”といって死んでいったのだ」と無念さをにじませた。
 さらに「3ヶ月の訓練の後、門司からタンカー船に乗って12隻の船団で東シナ海を通ったが、すでに制海権も制空権もなく、米軍の魚雷で船は沈められバラバラになった。シンガポールでもトラック島でもまるで戦争にならず、300人もの戦友が死に、その遺体を焼いてジャングルに埋めた。“もし内地に帰ったら郷里の家族に渡してくれ”と写真や遺品を預かっていたが、“内地では兵隊は軍法会議にかけられて処刑される”といわれ、帰国船に乗るまえに燃やしてしまった。本当に悔しい…」と痛恨の思いを語り、「毎晩のように戦友の夢を見た。私は、軍にも責任はあるが、天皇陛下にもあると思う。なぜ鶴の一声で見切りをつけさせなかったのか。皇居は空襲されなかったが、広島、長崎には原爆まで落とされ、妻も両親と4人の兄弟をミイラのように殺された。アメリカのいいなりではまた戦争になる。死んだもののためにも、本当のことを伝えるのが私の役目だ」と怒りをあらわにしながら、熱心に語り伝えた。

 戦地と被爆体験も交流

 8年間陸軍部隊の一員として戦地生活をおくった90歳の男性は、当時発刊された戦地の写真集を手に会場を訪れ、居合わせた被爆者たちと体験を交流した。
 昭和12年に入隊し、中国北部から南方へ、その後、宮崎県日向灘で米軍の上陸に備えて、爆弾を抱えて「たこつぼ」に入り、敵艦に体当たりする訓練をしていた経験を語り、「私たちは、何年も弾の下をくぐらされ、帰ってきたら“戦犯”といわれて黙ってきた。だが、この悲劇を2度と繰り返さないためには若い人に真実を伝えることだ。アメリカは無抵抗の人間の頭上に爆弾を落とし、何100万という人が殺されたのに、たった60年で忘れられようとしている。“人道”を唱えて日本を裁いたアメリカはのうのうと人殺しを続けているが、日本も巻き込まれる気がしてならない」と切迫した思いを語った。被爆者たちも当時の写真に目をやりながら、その思いを共有していた。
 パネルの前で「まるで戦争になっていなかった」「なぜ天皇は戦争を早くやめなかったのか」と論議する戦地体験者と被爆者たちの論議に、「そうですよ。そのお陰でどれだけの市民が殺されたのか」と加わってきた70代の婦人は、「私も生後11カ月で家の下敷きになったが、御船蔵町にいた11歳のいとこは、3つの妹と母親が1カ月で体からウジ虫がわいて死に、2人の遺体を新興善小学校で焼いた。その後の苦悩の生活を見てきた私には腹立ちが治まらない。最近は、また言論の自由が奪われている。伊藤市長が殺されたのも、背後があると思うんです」と語り、「私たちが黙っているのではなく、もっとやらないといけない」と被爆者の呼びかけに応えていた。
 終了時間となっても市民の参観がとぎれることなくつづき、1日で、128枚のアンケートが集まり、44人の市民が賛同協力者となった。会場で案内につとめた被爆者たちも、「昨年以上にたくさんの市民が来てくれた」「内容の濃い1日だった」と確信を深め合い、閉幕まで毎日交代で会場につめて体験を語ることを決めた。

 アンケートより
 ▼原爆の時に市内にいて、自宅が城山にあり、家族も三名亡くなりました。この写真を見て、当時の事がまざまざと新に思い出されました。当時こんなにもたくさんの写真を残して下さった方のお顔を拝見したくなりました。家にいて死んでいった家族は、戦争の犠牲者でなかったのかと思うくらい、国は死亡した人には何もしてくれない。ただただ核廃絶を祈るのみです。絶対戦争反対です。(緑町、80歳、婦人)
 ▼又やって来た……戦後62年、やっぱり原爆の怒りは私には変わりない。第9条を守る必要がある。私も多くの死をあの日に体で感じていたから。(住吉町、78歳、男性)
 ▼私は被爆体験者として、手記及び写真等を拝見し、なぜ戦争をしなければならなかったのか不思議に思う。たたかう必要があったのか。悲惨な写真を見るにつけ悲しい思いがする。国は憲法改正するといっているが、また戦争につながると思う。絶対反対。(無記名)
 ▼長崎市民、56歳の主婦です。私も今年90歳の母がおります。原爆の話を2度ほど聞きましたが、あまり多くを語ろうとしません。母は当時家の中で豆をいっていたら、急に外が光り、真暗になったのでビックリしたが外には出なかったそうです。それ以上多くを語りませんでしたので、私もそれ以上聞きませんでした。今日は母の気持ちを少しでもわかってやれた様です。悲しい思い出がいっぱいありすぎて私に話したがらないので、今日は帰ってから原爆について少し話してみようと思います。平和の大切さと原爆の悲惨さを私たち2世が語り続けていかねばと、決意を新たに致しました。(浜平、56歳、婦人)
 ▼戦争もそうだけど、原爆を落とされた広島・長崎の事を思うと、アメリカが人の多数(生活して)いる所に何のためらいもなく落とした。アメリカの人たちはその時、あるいは今現在、どんな思いでいるのか 又テロに対してアメリカはきびしいけれど、その国、その国、いずれもテロに名を借りた戦争だと思います。やはり各国の平和が大事だと思います。(辻町、52歳、男性)
 ▼負けるとはっきりわかっている戦争に多くの人々を動員し、食糧も武器すらまともに持たせず、戦場に向かわせる、こんなひどいことをしてまでも勝つことのない戦争をしないといけなかったのでしょうか。戦争をすると必ず犠牲になるのは市民なのに…。2度と戦争には参加してほしくありません。これから大きくなっていく我が子の為にも、平和な日本、世界であってほしいと思います。(上戸町、46歳、婦人)
 ▼戦争で多くの人たちが身体も心もきずつけたり、きずついたりと、今の平和な世の中でもいじめという社会問題もあり、同じ事ではないだろうか。してはいけないことはやってはならない。戦争で学んだことを生かせるように、1人1人の生命は守り、大切にしなければならないと思う。 (時津町、学童保育、43歳、婦人)
 ▼銃弾に倒れず、食糧不足や病で亡くなることを初めて知った。竹や木の武器で戦斗機に勝てるはずのない事はわかっていたはず。それでも勝てるとたたかい続けたのはなぜか?
 (39歳、男性)
 ▼昨年も訪れましたが、今年は戦地の様子が実際に体験された方の言葉で語られていて、その当時の状態を思い浮かべる助けになりました。実際に、戦争という環境が1人1人の心と体、関係などを奪っていくものだという思いがありますが、体験のない私には、うすっぺらい記憶としてしかないのかなあと思っています。こうした機会は、そんな私に平和であることを欲しなければいけないというエネルギーを与えてくれます。日常の生活のなかで、お爺ちゃんやお婆ちゃんが、子どもや孫と語りあえることで、記憶の伝承ができれば生活の中に歴史をきざんでいけると思います。テレビやメディアの中で管理された歴史観だけを頼りにしている自分たちが伝えるという仕事を担えるのか、自信がありません。(33歳、大学生、男子)
 ▼「原爆」による悲惨さやむごたらしさしか今まではみていなかったような気がする。中国や太平洋の各地での兵士の苦しさや、そして何より原爆以前の時からすでに日本の負けが決定的だったにもかかわらず、死にに行かせる日本政府。戦時中の国民の生命がいかに軽くあつかわれていたことか。
 日本もアジアの国々にしてきた事は許されることではないだろう。反日感情があるのももっともだ。しかし、日本にここまでむごい仕打ちをした米国となぜ一緒にイラクへ戦争の手伝いに行くのか。なぜ仲良くできるのか。日本国民はそれほど物忘れがひどい人間なのか、疑問に思ってしまう。(西山、32歳、男性)
 ▼原爆の展示を見たのは中学校以来だった。何気なく入ってみたが、途中でやめることができなかった。戦争の恐ろしさを感じた。今、まだ戦争のあるところのニュースを見ても、日本なんて関係ないからと思っていた。国際的なルールを守らないなら武力行使もありだという考えが少しあったが、そのせいで罪のない人が犠牲になるのは最悪だ。やはりどんなことがあっても戦争はやってはいけないことだと痛感した。(19歳、予備校、男子)
 ▼展示されている写真を見ていると、痛みや苦しみが心にしみてきました。この苦しみや痛みを決して忘れることはないと思った。四月の市長の銃で撃たれた事件はとてもショックでした。それまでの自分は長崎は今、普通に平和になっていると思っていたので、あらためて、まだ長崎は平和ではないと思いました。銃が簡単に手に入る世の中、平和ではありません。日本から核兵器がなくなることを願っています。(16歳、高校生、女子)
 ▼私はこれまでに、おもに長崎の原爆について学んできましたが、今回他の場所で起こった空襲や戦時下における人々の悲惨な状況を写真、文章、詩などを通して見ることで、これまでとまた違った角度から、戦争について学ぶことができて、非常によかったと思います。常に1945年8月6・9日の事実ばかりに目がゆきがちですが、このようにして、前後の国民の生活や考え方を学ぶことで、また1つ視野が広がったと思います。今日は本当にありがとうございました。
 (16歳、高校生、男子)
 ▼戦争によっていろいろな人が苦しみ、死んでいった事を知ると、自分たちは楽な生き方をしているなあと思いました。これからは原爆や戦争によってこれだけの人が亡くなった事を忘れず、次の世代の人々に伝えていかなければいけないなあと思いました。(14歳、中学生、男子)
 ▼戦争の悲惨さを改めて感じさせる展示であった。近年の動きは、ふたたび戦争への道を歩み始める第1歩のような気がしてならない。第2次大戦がなぜ起きたのか、1人1人が正しい知識を持ち、誤った道へ進まないよう努力しなければならないと思った。(無記名)
 ▼日本軍の中国での悪事ばかりでアメリカ軍の日本人に対する悪事は余り語られなかった。今日見た展覧会ではそのこともよく示してあった。日本軍のひどさも改めて詳しく知った。本当に絶対に戦争には反対です。(無記名)


 メッセージ
 田上長崎市長
 「長崎 原爆と戦争展」を長崎の地で開催されたことを、心からお喜び申し上げます。
 開催の趣旨が、被爆者、戦争体験者が語り合い、その体験を若い世代に語り継いで、さらに大きく広げようということでありますが、戦争の記憶が次第に薄くなり、戦争を知らない世代が多数を占めるようになった今日、戦争・被爆体験を若い世代に継承し、平和を再認識することは非常に重要なことであり、皆様の取り組みに心から敬意を表します。
 私たち長崎市民は今から62年前、原子爆弾の被害を被った経験から、世界に向けて、核兵器の廃絶と世界恒久平和を訴え続けてまいりました。しかしながら、核をめぐる国際世界の現状をみますと、新たに核兵器の威力に依存しようとする国々も現れてきており、憂慮すべき事態となっております。本市は、れからも、核兵器廃絶と世界恒久平和の一日も早い実現のために、核兵器廃絶の世論の喚起に努力していく所存でございます。
 最後になりましたが、この度の「長崎原爆と戦争展」にご尽力を傾けられた皆様のご健勝、ご多幸を心から祈念申し上げ、私のメッセージといたします。

  平成19年6月10日  長崎市長 田上富久

 金子長崎県知事
 昭和20年8月9日、浦上の上空で炸裂した1発の原子爆弾は、一瞬のうちに7万4千余の尊い命を奪い、長崎の街に壊滅的な打撃を与えました。そして、残された多くの人たちの心と体に消えることのない大きな傷跡を残しました。
 61年余を経て、長崎の街は、緑豊かな平和を願う歴史と文化あふれる街として発展していますが、愛する家族を一瞬のうちに奪われたご遺族の悲しみは、今なお深く、高齢化が進む被爆者や被爆体験者の方方は、放射線や被爆体験による健康障害に今なお苦しんでおられます。
 私たち長崎県民は、「長崎を最後の被爆地に」との願いのもと、被爆者の皆様とともに世界の恒久平和を実現するため、核兵器の1日も早い廃絶を訴え続けてまいりました。
 しかし、私たち県民のこうした願いにもかかわらず、世界各地でテロや紛争により多くの人人の尊い命が奪われています。その上、世界の核兵器の状況は、新たな核兵器の開発や核保有を公表する国が出現するなど、大変厳しく、胸痛む思いです。
 このようなときこそ、私たちは、被爆体験を持つ県民の責務として、原爆の悲惨さ、終わることのない被爆者の苦しみを核保有国を含む世界の人人に伝え、被爆地長崎のゆるぎない核兵器廃絶の意思を訴えなければなりません。
 また、次代を担う子どもたちに、戦争という意味のない死について深く考えてもらうため、平和学習の充実に努め、平和の尊さと肉親を失う悲しさ、命の大切さを伝えていかなければならないと考えております。
 こうした中、被爆地以外の市民の皆様のご尽力により、今年もまたこの原爆展が開催されますことは誠に意義深く、下関原爆展事務局をはじめ関係者の皆様のご尽力に深く敬意を表します。
 また、第3回となる今年は「長崎 原爆と戦争展」として、これまでの峠三吉の詩と写真を組み合わせ、ヒロシマとナガサキを同時に展示することにより、被爆の実相と戦争のむなしさ、命の大切さと平和の尊さが伝わるものと期待しています。これからも引き続き全国各地で原爆展を開催され、核兵器廃絶と世界平和の願いの輪が日本全国に、ひいては全世界に大きく広がっていくことを願っております。

  平成19年6月8日  長崎県知事 金子原二郎

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