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吉本幸子さん偲ぶ会 党派超えた被爆者運動切開く

 下関原爆被害者の会の前会長であり、顧問を務めていた吉本幸子氏(1月3日逝去)と生前親交を深めてきた人人の手で準備されてきた「吉本幸子さんを偲ぶ会」が1日、福田正義記念館で開催された。下関の被爆者をはじめ、遺族や原爆展運動をともにとりくんだ人人、広島の被爆者など200人余りの人人が参加し、生前の吉本氏の業績と人柄を語りあい、また詩吟や吉本氏の短歌の朗読などを通じて、その遺志を受け継ぐ決意を新たにする会となった。会場には吉本氏の業績を示す写真パネルや遺族のメッセージ、吉本氏が最後に広島の病床から下関の被爆者に送った短歌が展示された。
 冒頭、参加者全員で吉本幸子氏へ黙祷を捧げた。
 あいさつに立った伊東秀夫実行委員長(下関原爆被害者の会会長)は、戦後被爆者に対するさまざまな圧力のなかで体験を語らなかった吉本氏が、被爆者の会再建に情熱をかけてかかわり、その後の原爆展運動をはじめ若い世代に体験を語り継ぐ運動の先頭に立った経歴を紹介【別掲】。「会の団結が危機にさらされたときにも“被爆者の運動に右とか左はない”と会の団結を守る先頭に立たれた。吉本さんが身をもって築かれた私心のない誠実な運動は、全国の被爆者運動を再建する模範となっている」と語った。
 豊浦郡原爆被害者友の会の濱田国男氏は「生前は多岐に渡る活動に参画され、下関原爆被害者の会再建に尽力され、会長としてもその人望と指導力を発揮されていた。私も姉・弟としてご厚誼を頂き、ご指導、ご鞭撻を頂き、深く感謝している」とのべた。
 原爆展を成功させる広島の会の真木淳治氏は、「広島の会が発足するとき吉本さんにアドバイスを受けた。今広島の会も大きく広がり、吉本さんから、あるいは下関の人から学んだことから、地元広島で頑張ることが大切だと懸命にとりくんでいる。広島の会を育てて頂いたご恩、お気持ちをしっかり受け継いで若い人に伝えていきたい」とのべた。
 その後山口県被団協会長・竹田国康氏と沖縄原爆展を成功させる会・比嘉幸子氏から寄せられたメッセージが紹介され、思い出と意見発表に移った。
 下関原爆被害者の会再建当初から吉本氏とともに活動してきた石川幸子氏は広島に転院するさいに吉本氏と会い「絶対に元気になって帰ってくるからね」と固く再会を約したこと、斗病中も会のことに気を遣っていたことを語った。また平成6年の会再建以来苦楽をともにしたことにふれ、「吉本さんが会長を引き受けてからも、会の一部の人が会の活動を妨害し、分裂させることが起きたが、吉本さんはそんなことにも負けず、熱い心で会のため全力を尽くしてこられた。その偉業は私たちの心に深く刻まれ、永遠に消えることはない。残された私たちは吉本さんの遺志を継いで被爆体験を語り継ぎ、平和のために力を合わせて努力する」とのべた。その後吉本さんに向けた自作の追悼詩吟を吟じた。
 佐野喜久江氏も、長周新聞社の男性が突然家に来たことがきっかけで被爆者の集まりに参加して初めて吉本氏に会い「お姉さんみたいな方だったので、安心して参加するようになり大変お世話になった」と語った。「涙が出て仕方がないが、遺志を継いで、子ども、孫、ひ孫まで体験を語り、二度とあの愚かな戦争をさせないよう頑張りたい」とのべた。
 大松妙子氏は、主人が亡くなったとき吉本氏が自宅まで来てくれたと語り「会の分裂のとき、吉本さんがおられる限りこちらの会で頑張ろうと思って現在に至っている。吉本さんや先輩の築かれた政党政派、私利私欲のない会を私たちが受け継いでいきたい」と決意を語った。

 原爆と戦争展の運動広げる 原爆展の関係者 
 原爆展を成功させる会の海原三勇氏は、平成11年の第1回下関原爆展で、会場を貸していたJRが突然拒否したことから原爆展を成功させる会を立ち上げたとき吉本氏に初めて出会い、その後小・中学校にパネルを寄贈する運動などをともにとりくんだことを語った。「当時は拒否する学校もあったが、小・中・高校、大学と原爆展は広がり、パネルは大きな反響を呼んでいる。これからも日本だけでなく、全世界のみなさんと力を合わせてこの運動を広げていきたい」とのべた。
 広島の被爆婦人は「以前、この会の活動に疑問を持ったことがあり、吉本さんに話すと“それは心にしまっていることではないので、下関の人に聞いてごらん”とアドバイスを受けた。それから心の霧も晴れて今まで頑張ってきた。これから先もどこまでも協力するつもりだ」と話した。
 広島の会の男性は、「原爆展パネルのなかに掲載されている吉本さんの言葉に感銘を受けた。広島の会も会員みんなが私心なく子どもたちに体験を語り継ぐ運動をしている。吉本さんの願いは広島でも生き、発展し続けている。さらにこの運動を広げることが吉本さんのご意志にかなうことだと信じて頑張りたい」と決意をのべた。
 その後下関青年合唱団が、再建総会以来、毎年歌ってきた「花を贈ろう」を歌った。
 戦地体験者の安岡謙治氏は、原爆展と戦争展が一緒に開催されたさいに吉本氏と出会い、特攻隊で90%の戦友が死に追いやられたこと、死ななくてもいい多くの若者が病気や餓死で死んでいったこと、また戦後、特攻隊の生き残りは右翼だといわれ語れなかったことを話すと「戦地の人の真実はみな知らないからぜひ話してくれ」といわれたと語った。「60年前の原水爆より、今は5倍も6倍もの威力になっており、戦争をすると全滅だ。私たちも年をとってきたが、吉本さんのように頑張りたい」と話した。
 小中高生平和の会の今田一恵氏は会結成時からお世話になったとのべた。平和教室で吉本氏はつらい体験を“2度と体験させてはいけない”という思いで温かく話し、最後には必ず「両親を大事にしなさい」「若いみんなにバトンタッチするよ」と話していたと語った。「子どもたちは吉本さんの生き方に感動し、自分を変え成長してきた。吉本さんは“こんな子どもが育っていけば、日本の未来は明るい”といつも明るい笑顔で見守ってくださっていた」とのべ、今後原爆も戦争もない社会をつくるため、奮斗する決意を語った。

 「生き方学びたい」と決意 体験聞いた高校生も 
 平和の会の高校生は「小さい頃からかわいがってもらい、入学式などのたびに家に呼んで頂き、ケーキを出してもらったりした」と思い出を語り、「吉本さんが亡くなったと聞いたとき、今まで励ましてもらっていたので、悲しかったが、今は被爆者の会を支えてきた吉本さんの強さを学んでいきたいと思っている」と語った。
 劇団はぐるま座の代表からは、私利私欲なく活動してきた吉本氏の崇高な生き方に学び、人民劇団として前進していく決意が語られた。
 長周新聞社の竹下一氏は、吉本氏が勇気を奮い起こして初めて公の場で体験を語り、子どもたちの反応に励まされて語り継ぐ決意をしたことにふれた。「その後の活動は順風満帆ではなかった。吉本さんの悩み、葛藤は並大抵ではなかった。中傷や攪乱が外からも内からもあり、被爆者が純真な思いで活動することへの、会のまじめな方たちが、嫌気がさすようなものだった。8・6集会への参加についても労働組合のような集会に参加することに疑問を持たれていたこともあった。それは、長周新聞がなぜこんなに原爆に一生懸命なのかという思いと重なってあったように思う」とのべた。しかし吉本氏が自身でつかんだ真実をつらぬくなかで克服し、「とくに自分の気分や感情だけで動くことを極力さけ、みんなの利益のために、団結が進むように注意深く、ねばり強く事を進めていた。その意味で大の男を相手に回して動じるところはなかった」と語った。また「吉本さんが長周新聞の福田主幹の50年8・6の経験を知られたことが大きく、“なぜ長周がこれほど熱心に原爆問題をやるのかがわかった”と感動を込めて語っていた。晩年には被爆者の会の活動と長周新聞社とは車の両輪だと語っていた」とのべ「吉本さんは戦前、戦後をくぐってこられた日本の良心を代表する典型的なお1人であった」と語り、遺志を継いで進むことを誓った。
 吉本氏の長男である吉本功氏は、会の開催への謝意をのべ「母と2人で被爆し、その後の人生は体に不安を抱えながらで、母も私も話題にしなかった。その母が80歳近くなって会に参加するようになり、驚いたが、いつも生き生きしていて、みなさんとの活動が楽しく生き甲斐となっていることを感じた。父が亡くなって約30年1人で生きてこれたのも、会の活動やみなさんとのかかわりが支えになっていた」と語った。「母は下関を心から愛していた。1度下関に帰りたかったと思う。海峡の街下関、お世話になった人人を私自身も心のなかに留め、少しでも母の遺志を継いでいけたらと思う」と語った。
 吉本氏の弟である前濱卓尓氏は、戦中戦後の吉本氏の人生を前濱家とのかかわりのなかで紹介し、「私の小さい頃の印象から、あれだけ柔和で細い、小さい姉がこれだけの事ができたのだろうかと不思議に思う。もしできたのであれば、みなさんのお支えがあったからだと思う」と語った。

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