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5回目の長崎「原爆と戦争展」」 隠された被爆の真実表に

長崎市川口町の長崎西洋館2階イベントホールで14日、第5回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)が開幕した。これまでに集まった150人の賛同者をはじめ、全市民的な協力のもとで開かれたこの原爆と戦争展は、ふたたび日本を核戦争の渦中に投げ込もうとする動きに対して、被爆と戦争の真実を誰はばかることなく語り継ぎ、平和と独立の全国民的な世論を喚起するために長崎市民の本音を発信していく場として期待を集めてきた。
 会場には、日中戦争や南方戦線の記録、全国空襲、沖縄戦、原爆、戦後をつなげた150点ものパネルとともに、広島から寄せられた100冊を超える被爆体験集、戦争体験記、下関空襲の遺品、長崎市民から寄せられた被爆瓦、食器などが一堂に並べられている。
 また、明治維新期に長州奇兵隊をモデルに長崎町衆によってつくられた「振遠隊」を紹介するパネルや、被爆一年後に市民の手で収集された二万体の遺骨を納めた東本願寺教務所の慰霊碑を紹介するパネルも新たに展示に加えられ、「隠された長崎の真実」として強い関心を集めている。
 さらに「関係する地に慰霊碑を建て、後世に伝えよう」というスローガンとともに長崎市内の地図が掲示され、市民の証言をもとに各地に散在する慰霊碑や遺体を埋葬した場所を書き記し、訪れた市民が随時書き込むことができるコーナーも新設され、市民の交流の場となっている。

 真実伝える意欲溢れる開 幕 式 
 午前10時からは、約40人が出席して開幕式がおこなわれた。
 はじめに、原爆展を成功させる長崎の会の永田良幸会長が、協力した長崎市民をはじめ、下関、広島の会に対する感謝をのべた後、「私たち被爆者に残された時間は限られている。原爆のことは昨日のことのようにはっきり覚えているが、若い人たちに原爆、戦争の真の怖ろしさを語っていかなければ歴史は抹消される。戦後の差別のなかで被爆者なのに手帳を持たない人もいる一方で、手帳ほしさに被爆者になるというデタラメもはびこった。だが、原爆の怖ろしさが分かるのは真の被爆者だけだ。戦争を知らない政治家が、核攻撃には風上に逃げて、帽子をかぶればいいなどといっているが、人間が生身でどんな目にあったのか。真実をみなさんと一緒に伝えていきたい」と呼びかけた。
 つづいて、共催する下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長、原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長からは、「アメリカの大統領は変わっても、日本への占領、圧力は変わっていない。日本の今日の状況は、総理大臣がかわっても、ますますアメリカよりの政治となって、戦争をはじめようとする空気が濃厚となっている。私たち同志は、命をかけてもこれを阻止しなければなりません」と気迫こもるメッセージが紹介された。
 金子長崎県知事、田上長崎市長のメッセージが代読された後、被爆者として吉山昭子、山下諫男の2氏、賛同者として坂本町山王自治会の原本康雄氏、大学生の中島彩世里氏が抱負をのべた。
 16歳で被爆した吉山氏は、2万体の被爆遺骨が納められた東本願寺教務所の慰霊碑の存在に触れて「長崎にいながら、亡くなったたくさんの同級生たちが眠っている場所を知らなかったことに“ごめんね”という思いでいっぱいだ。長崎市内には各地にそういう場所があるが、広島のように学徒報国隊や高等女学校などの慰霊碑はない。今年はぜひ、8月6日に広島に行き、長崎のためにもお参りをしてきたい。今年は昨年以上の内容になるようにがんばりましょう」と意気ごみ高くのべた。
 山下氏は、「長崎、広島への原爆投下は日本はもとより全世界の一大事件だ。敗戦から64年、今の世相を見ると被爆問題が他人事のように取り扱われているが、あの惨状を日本人ならば決して忘れてはならない。一瞬にしてすべてが吹き飛ばされ、鉄も溶かす熱線で焼き尽くされ、生き延びた者は強烈な放射線にさらされた。この展示場では、その生き地獄を確実に伝えている。長崎市民はもとより、多くの日本のみなさんに参加してもらい、今後末永く平和を築くことを念願している」と力強く訴えた。
 原本氏は、町内で約700人の住民が原爆で亡くなったことを明かし、「町民によって原爆慰霊碑を建て、周辺に花を飾り、自治会としていつも花が絶えないようにして慰霊の心を受け継いできた。先輩たちの思いを我が思いとして、坂本町にいる以上は慰霊の仕事を続けていくべきだと思っている」と語った。また、原爆投下2日前に米軍が空撮した爆心地付近の写真を入手し、毎年この原爆展に提供していることも付け加えた。
 中島氏は、「昨年は鑑賞する側だったが、今年はぜひ手伝いたいと思って参加した。このパネル展をみて、長崎大学でもやりたいと思い、昨年11月に大学で原爆展を開くことができた。今年も平和活動を通じて、戦争や平和について若い世代が考えるきっかけをつくっていきたい」とのべた。

 初日には約250人が参観 佐世保や諫早からも 
 初日は、長崎市内をはじめ佐世保、諫早などから年配者、親子連れ、学生など約250人が会場に詰めかけた。「長崎の会」や賛同する被爆者、学生たちが受付や会場案内、会場外でのチラシまきなどを積極的に担い、参観者と交流を深めた。
 「毎年来ている」という80歳の男性は、「茂里町の三菱製鋼所第一工場にいたが、休んだから一命をとりとめた。だが、西浦上で田の作業を手伝っていた小学生の従兄弟が真っ黒になって死に、私は親に代わってその遺体を一晩中抱いていた。女子商業に通っていた従姉妹も黒こげだった。同級生が残っていないから同窓会もできない。負けると分かっていた戦争をなぜやめなかったのか。天皇は自害すると思っていたが命乞いをして生き延びた」と怒りをのべた。
 「アメリカは外見だけは紳士的だが、徹底的に貧富の差をつくって貧しい国や人間をひどい目にあわせている。戦争に行かされるのは職に就けず、食べていけない国民を引っ張り出している。日本もアメリカに金を吸い上げられ、米軍のグアム移転費まで税金で出しているが、今に日本人も食えなくなってアメリカの戦争に引きずり込まれる。まえの戦争でも、財閥が儲けたように、戦争は資本家が原因だ。人殺しを奨励するような文化を垂れ流すことが1番いけない」と語り、「2万体の遺骨」パネルをみて「こんなことは知らなかった。このパネルを26聖人の碑の前に設置しなければいけない。ウソで塗り固められて、関係のない場所に碑を建てられている26聖人も浮かばれないのではないか」と憤りを語った。
 賛同者として協力してきた自治会役員の男性は、小学4年生のときに、御船蔵町(爆心地から1・8㌔)の自宅で被爆したことを語り「食事の後に、ブゥーンという飛行機の爆音が聞こえ、5秒後にドーンという衝撃が走った。あれは原爆を落としたB29が全速力で逃げていく音だったと後でわかった。長崎には500㍍を超える山がないので、400㍍上空からの爆風がまんべんなく威力を発揮するということを知った上でアメリカは原爆を落としている」とのべた。
 また、「軍医だった伯父は、ミッドウェー海戦から帰ってきて、佐世保海軍病院から沖縄戦に送られて戦死した。米軍の艦砲と火炎放射器で虫ケラのように殺されたのだ。もっと悲惨な写真はすべてアメリカが没収して持ち帰っている。日本でも、統帥権をもっていた天皇が、なぜ餓死や犬死にが出るとわかっていながら撤退しなかったのか。戦斗能力がないのに気違いじみた戦争をやらせた天皇は“人間宣言”などして許されるものではない。戦後、天皇を残したというのがアメリカの最大の手口だった。アメリカという国は世界1のブローカーの国で、自力で経済をつくるのではなく、人のものをかすめ取って私腹を肥やす国だ。私は何人ものケガ人が息を引き取るまで、ウジ虫を取り除いて看病した。いくら時代が変わっても、この記憶は消えるものではない」と怒りをぶつけた。
 愛宕で被爆した74歳の婦人は、「爆心地からは離れていたのに、家族全員の体に斑点ができた。山に反射した放射能の光が影響している。それだけすごい威力だったということだ。隣家の父親が、自分の同年の子と幼い妹を連れて中心部から帰ってきたが3人ともウジがわいた。私の母が箸にガーゼを巻いて毎日取り除いていたが、日に日にどんどん増えていき子どもは亡くなった。最後は手でつかみ取りしていたほどだった」とのべた。
 また、「父が疎開荷物を取りに帰った大阪で空襲にあい、家に29発も爆弾を落とされ、家財道具を失って線路伝いに1カ月かけて長崎まで帰ってきた。被爆後は、翌日からすぐに遺体を焼く作業にかり出され、浦上方面にいったが何を見たのか一切語らなかった。原爆も大空襲も一切語らなかった親の気持ちが今日はじめてわかり手足が震える」と衝撃を語り、カンパを寄せた。

 宣伝協力申し出る市民 チラシ持帰る人も 
 滑石に住む70代の婦人は、「私は小学四年生で被爆し、父親はビルマで戦死した。昨年もこの会場にきたが、この原爆と戦争展は私の人生そのものです。今年は市内中にポスターが張り巡らされていてうれしかった。どんなことがあっても毎年開いてほしい」と語り、「これから商店街で宣伝してきたい」とチラシを大量に持ち帰った。
 1時間近く展示を見ていた60代の婦人は、「最近になって周りの被爆者が語りはじめたのをきいて、いかに悲惨だったかを知った。最近は、また戦争の方向に向かっていると感じる。なぜ戦後64年もたってアメリカのいいなりのままなのか。首相になったらすぐにアメリカに飛んでいき、媚びを売るような写真を撮ってますます腰抜けになって帰ってくる。そういう政治を変えて行くには自分たち主婦がこれから力を発揮しないといけないと感じる。もう20年しか生きられないというとき、こういう事実を知らせて戦争をくい止めるために力になりたい」と思いを寄せ、賛同者となった。
 「2万体の遺骨」パネルや市内地図を熱心に見ていた80代の男性は、「原爆のときは防衛召集で田上の塹壕掘りをしていたが、その日中に市内に帰り行方不明の隣の子どもを捜して回った。浦上では、走る格好のまま炭になっている人の死体もあり、異臭もすごかったがだんだん麻痺していった。いまの陸上競技場になっている駒場町にたくさんの遺骨が運ばれ、小さい石でつくった慰霊碑もあった。ところが飛行場をつくるために米軍がブルドーザでかき捨て、そのときに遺骨も慰霊碑も平和公園の方へ移設されたと思っていた。それ以外に遺骨が2万体もあったとは知らなかった。こういうことが知られていないのは1番いけない」と語った。
 また、近くにいた被爆婦人も、「三菱グラウンド(現・陸上競技場付近)には、集められた遺体が男と女に分けられて2つの山にされていた。あの遺骨がどうなったのかわからない」と語り、「白鳥町の射的場にもたくさんの遺体が運ばれていたから、いまも掘れば遺骨が出るはずだ」「長崎大学医学部の入口に山積みの骨があり、そこで弟の骨を持ち帰った」「銭座町ではいまだにビルを建てるときに遺骨が出る」「長崎の原爆についてはあまりにも知られていない。たいへんなことだが、こういう事実を知らせて欲しい」など、近くの被爆者たちも交えて交流が続いた。
 長崎「原爆と戦争展」は、21日(日)まで開かれ、最終日の午後1時からは、会場で広島、下関、長崎の被爆者による交流会がおこなわれる。

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